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これは僕が小学5年の時、林間学校で体験した話。
当時僕が通っていた小学校が林間学校の時に利用していたのは、福島県のとある高原の宿泊施設だった。
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千葉県にある小学校を早朝バスで出発し、昼過ぎに施設に到着した。
昼食を取った後、施設の利用案内を受け、クラス対抗のレクリエーションをして過ごした後、
夕方からは学園に4つあるクラスを2つずつに分けて、夜の部の別行動が始まった。
すなわち、「宿泊施設に泊まるグループ」と「宿泊施設からやや離れた、山の奥のキャンプ地でテント泊をするグループ」の2つに分かれるのだ。
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初日は1・2組がテント泊、3・4組が施設泊だった。
僕は3組だったので、その日は施設泊。
先に入浴を済ませた1・2組が山に登っていくのを見送った。
その日の夜は、部屋で担任の先生を交えた枕投げ合戦をして大いに盛り上がった。
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翌日は自分たちがテント泊の番だった。
昼になり、合流した1・2組に連中に、「どうだった?どうだった?」と探りを入れたところ、
「テント泊超面白かった」「でもトイレだけは施設で済ませていった方がいい」という返答をもらった。
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夕方になり、施設で入浴を済ませた3・4組は山の上のキャンプ地に向けて出発した。
30分くらいかけ、辺りが薄暗くなってきた頃、目的地に到着した。
キャンプ地は山の平らにひらけた場所にあって、端の方に調理用の水場がある東屋のようなものがあった。
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僕たちはまず先生の指示で各々グループに分かれてテントの設営を行った。
そのあと、東屋に移動して夕食の支度をした。飯盒(はんごう)でご飯を炊いた。大鍋でカレーを煮た。
皆キャーキャー言いながら野菜を切ったりした。楽しかった。
出来上がったカレーは水気が多くてビシャビシャしてたけど、美味しかった。
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その後は片付けをして、各グループテントに戻って消灯。
その時になって前日の1・2組が「トイレは施設で行っておいた方がいい」と言っていた意味が分かった。
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キャンプ場にはトイレの施設もあったが、故障で水が流れなくっており、急場しのぎの仮設トイレが2台設置されていた。電話ボックスくらいの大きさのドア付きのもので、中には和式の便器が付いている。
それが2台、並んで設置されているのだ。
これを見たとき僕らは少なくとも、皆が起きている時間には「大」の方をするためにこのトイレには行くまい、と思っていた。小学生にとって、友達の目のあるところで「大」をするのは非常にセンシティブな問題なのだ。
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しばらくは各グループ、消灯したテントの中でおしゃべりをしていた。
好きな子の話とか、クラスのかわいい子ランキングとかだと思う。
僕らのテント内では、クラスの女子の胸の大きさランキングというテーマで熱い議論が交わされていた。
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やがてひとり、ふたりと睡魔に屈して寝息を立てるものが者が出てきた。
周りのテントから聞こえていた話し声も徐々に小さくなり、やがて虫の音の方が耳につくほど静かな夜が訪れた。
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僕は真っ暗なテントの中、皆の寝息を聞きながら今日一日の出来事を思い返していた。
すると、不意に、横で寝ていたケンちゃんが僕に声をかけてきた。
「なあノリ、トイレ行かないか?」
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これは嬉しい神の啓示であった。
テントの外は真っ暗。東屋とトイレのところには電気のランプが置かれているが、ひとりで出歩くのは正直怖いと思っていたのだ。
「しょうがないな…」
しぶしぶという感じを装いながら、僕はケンちゃんと連れだってテントから離れた仮設トイレに向かった。
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仮設トイレはキャンプ地のはずれの、森に接した場所にあった。
僕とケンちゃんはビクビクしながらトイレの前までやってきた。
「あれ?」
ケンちゃんが声を出した。
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2つあるうちの左側のトイレのドアが閉まっている。
誰かが使用しているのだ。
ドアのカギもロックを示す赤色になっている。
自分たち以外にもトイレに起きてきた人間がいることに少し安堵しながらも、
僕とケンちゃんの間で、残りひとつしかないトイレの優先権をめぐってジャンケン勝負が勃発した。
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勝者は僕だった。
僕は仮設トイレに入ってドアを閉める。
天井のライトに、ポリエチレン製の無機質な壁と床が照らし出される。そして和式便器。
――狭い。
そう思いながら、僕は便器の上にしゃがみこんだ。
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僕にとって、自宅のトイレは安心できる空間だ。
しかしこの仮設トイレはまったく気を許すことのできない空間だった。
それは僕が、このトイレの周りは広い、暗い、山の中のキャンプ地だということを知ってしまっているからだろう。
こころもとなかった。
背後のドアの向こうでケンちゃんが自分の出るのを待っている、そして隣の個室にも誰か生徒が入っていることが臆病な僕の安心材料だった。
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しかし、
気づくと隣の個室からはなんの物音もしてこない。
自分にしても狭い個室内でそれほど大きく動けないものの、多少身体の重心を動かすだけで仮設トイレはギシギシと音を立てる。
それが、なんの音もない。
誰なんだろう、隣にいるのは。
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急に不安が首をもたげてきた。
下着を下ろした、人間が一番無防備な格好で僕は冷や汗が背中を流れていくのを感じた。
急いでトイレットペーパーを使うと水を流し、下着を上げるのも中途半端なまま、ドアをガチャガチャ大げさな音を立てて開けると外へと飛び出した。
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――ケンちゃんが左にいた。
僕の入った個室の前で待っていたはずのケンちゃんが、今は自分の左に立っていた。
ケンちゃんと目が合う。
お互いが「え?」という顔をしているのを、お互いしばらく見続けた。
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最初、僕はケンちゃんが僕の出るのを待ち切れず、もう一つの個室に並び直したのかと思った。
しかし、次の瞬間、位置関係がおかしいことに気が付く。
ケンちゃんからすれば、2つ並んだ仮設トイレの、「左側」が埋まっていたので、「右側」の個室に僕が入ったのを見ている。そしてしばらく後、「左側」から僕が飛び出してきたのだ。
それはおかしな顔もするだろう。
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もちろん、ふたつの個室の間の壁に穴など開いてない。
これではテレビ番組で見るマジックのようではないか。
――右側の部屋に入ったのに、左側から出てきました。
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だが、僕らはその不思議だけに不思議がってはいられないのだった。
なぜなら、
となりの個室。僕から見て左。ケンちゃんから見て正面。
さっき「僕が入った個室」は、カギが閉まったままなのだから。
「誰か」が中にいなければ、カギは閉まったままにはならないのだから。
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僕らは大声をあげてテントに走った。
先生に「静かにしろ」と怒鳴られた。友達たちにも「うるさい」と非難を浴びた。
それでも僕とケンちゃんはテントの中で震えていた。
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あれがなんだったのかは、今もわからない。
作者綿貫一