・・・・・・・・・
祖母達の家の仏間は、家の中で、唯一窓の無い部屋だ。ちょうど一階の中央に位置し、四方を別の部屋と廊下に囲まれているからだ。当然ながら日光は一切入って来ない。
幼い頃は、そんな仏間が無性に怖かった。
夜に跋扈している怖いもの・・・寝物語に聞かされていた魑魅魍魎の類い。昼の間、其れ等が陽光を恐れて逃げ込み、じっと潜んでいるのではないか。だからあんなに暗くて息苦しく、おまけに変な臭いまでするのだーーーーーーー
真剣にそう思っていた。
無論、そんなものは子供の空想に過ぎない。
暗いのは単に陽が入って来ないから、息苦しいのは部屋自体が四畳半と狭いからだ。変な臭いの正体は、線香の煙と箪笥の樟脳。
仏間は仏間でしかなく、只の部屋だということ。其れに気が付いたのは、一体、幾つの時だっただろうか。思い出せない。
・・・・・・否、実際は、まだ気付けていないのかも知れない。只の部屋だと知りながら、まだ心の何処かで、あの部屋が悪鬼共が蠢く魔窟であると、信じているのかも知れない。
若しくは、そう信じていたいと、僕が心の中で願っているのか。
昼間、あの部屋には魑魅魍魎が逃げ込んでいる・・・其れはつまり、昼の間なら、あの部屋以外の場所に化け物は居ない、ということを意味する。
然し、今、あの部屋は只の仏間だ。魑魅魍魎処か鼠の一匹さえ居ない。逃げ場を失った化け物は、昼夜関係無く家の所々に潜んでいる。
ふと、考え付いた。
もしかして、僕が見たのは・・・・・・
nextpage
「おい、何時まで突っ立ってるんだ。」
「うおぇっ」
いきなり眼前の襖が開き、困惑顔の祖父が顔を突き出してきた。飛び退いた拍子にすっ転ぶ。
「おっ、すまんすまん。大丈夫か?」
「うん。」
危うく実の祖父とフレンチなキスを交わしてしまうところだった。
差し出された手を掴み立ち上がると、祖父は早く中に入るよう促した。
「友達、部屋で待たせてんだろう?早く済ませちまおうや。何もない家だ。話し相手が居なけりゃ退屈で仕方無いからな。」
確かにそうだ。特に屋根裏部屋は、テレビも無ければ電波も悪い。
僕は黙って頷き、部屋の中に足を踏み入れた。
nextpage
・・・・・・・・・
目の前がもわっと煙った。仏壇を見ると、数十本は有ろうかという線香の束が、幾つも香炉に突き刺さっている。匂いも凄い。息苦しい程だ。
僕は立ち止まり、噎せた。
祖父は気にならないらしく、平気の平左、といった風で
「早く襖を閉めな。」
等と言っている。
思わず抗議の言葉が口から出た。
「無理だよ煙い。空気入れ替えよう。」
祖父は静かに頭を振る。
「其れは駄目だ。ほら、煙が流れちまうだろう。早く閉めろ。」
流れちまう・・・?
煙が流れたら、駄目なのだろうか。
「此の煙、何か意味が・・・?」
「ああ。有る。けど、今は早く襖を閉めろ。最初はちょいと臭いかも知れんが、其の内馴れるだろ。大丈夫。線香だから毒じゃねぇ。」
再度祖父に促され、襖を閉める。煙の行き場が無くなり、目の前の祖父がうっすらと霞み掛かった。
nextpage
・・・・・・・・・
「お前、何を見た。」
唐突に尋ねられ、口籠る。
僕が、何を見たか。答えは簡単だ。黒くて細い腕である。まるで枯れ木のような、生きている人間とは明らかに違う腕。
けれど、其れを正直に言うのは少し憚られる。理由は簡単だ。
祖父の見ていたものが、あの腕とはまだ決まっていないからだ。
もし彼の見たのが狸とか野兎とかの野性動物や、はたまた大きな虫か何かだったりしたら。・・・まあ、話の内容は十中八九、あの腕のことだろうが、もし、違かったら。
僕は下手すれば精神科に連れて行かれる。
そもそも、此処に呼び出された理由だって、まだ知らないのだ。
こんな勿体ぶったことをしているのだから、やはり話してくれるのは、あの腕のことだとは思うのだが。其れでも一抹の不安が離れてくれない。
散々迷った挙げ句、僕はポソリと一言だけ
「黒くて細い・・・・・・」
とだけ言った。
「そうか。やっぱりか。」
祖父は全て承知しているようだった。僅かに顔をしかめながら幾度も頷く。
「あれはな、腕だ。とてもそうは見えないだろうが・・・。」
「もしかして、ミイラ?」
前にテレビで見たエジプトのミイラの中に、似たような物があった。日本の物ならば・・・即身仏等だろうか。
僕は祖父の言葉を待った。
数えること十二秒。たっぷりと焦らしてから、彼が口を開く。
nextpage
「分からん。」
「分からん?」
「そうだ。」
あんまりな答えだ。そりゃないよ、と言いたくなる。
然し、祖父はあっけからんと言葉を続けた。
「そもそも、入り婿の爺ちゃんがどうしてそんなこと知ってるんだ。そんな訳あるか。」
「いや、其れはそうかも知れないけど。」
話の流れ的に、教えて貰えると思うのが妥当ではないか。教えて貰うのがセオリーではないか。
何だかモヤモヤしていると、更に言葉が続けられた。
「分かってんのは、どんな奴かってことだけだ。」
「どんな奴かって、あの腕が?」
僕が聞き返すと、祖父は「ああ。」と短い返事をした。
「なんで、そんなの知ってんの。」
「曾爺ちゃんに聞いた。代々伝えられてんだ。」
「てことは、満治君は知ってるんだ。」
「いーや、ミツは入り婿じゃねえし、そもそも見えないみたいだからな。知らん。」
「入り婿にしか教えないの?」
連続の質問に、祖父が若干うんざりした顔をした。
「そんな一気に聞くな。追々話すから。爺ちゃん混乱しちまうよ。」
「うん。」
僕が頷いたのを確認すると、祖父は一呼吸置き、ゆっくりと話を始めた。
nextpage
・・・・・・・・・
我が家は女が強い。其れは、お前も知ってる筈だ。此れは、単に曾婆ちゃんや婆ちゃんや美智子が強いってからじゃない。確かに三人とも強いけどな。けど、此れは、何世代も前、其れこそ、東京がまだ江戸と呼ばれていた頃から、ずっとそうだったと聞いた。
江戸時代なんかもずっと、女が家のリーダーだったらしい。明治になると、家長は男じゃなきゃいけない風潮が高まって、表立って統治することは無くなったみたいだけどな。
其れでも、家は基本的に何時の時代も女の支配下だ。
そもそも、此の家では男自体が滅多に産まれない。満治が産まれたのだって、何世代ぶりのことやら。・・・其れに彼奴も、此処から出て行った。戻って来ることはねぇだろう。
nextpage
・・・・・・・・・
「僕は?」
「え?」
「僕は男だけど。あと、名古屋の叔母さんの所の淳も。」
母達は三姉妹。長女が此の家の叔母さん、次女が名古屋の叔母さん。僕の母は末っ子だ。
産んだ子供は、此の家の叔母さんが男一人女一人。
名古屋の叔母さんと家の母が男を一人ずつ。
男は滅多に産まれないと言うけれど、家の母も、真ん中の叔母さんも、男しか産んでいない。従兄弟の比率を見ると圧倒的に男の方が多いのだ。
眉をしかめた僕。見上げると、祖父がまた呆れたような顔をした。
「この家でって、言っただろうに。本家は此処だけ。お前と淳は分家だ。」
「跡取りが生まれると困るとか?」
ゆっくりと家を滅ぼして行く呪い。有りがちな話だ。
「阿呆。分家で男がポコポコ生まれてるんだぞ。幾らでも養子に出来るだろう。」
醒めきった祖父の視線。
どんどんオカルティックな方向へ進んでいた思考が、一気に引き戻される。
まあ、でも、確かにそうである。
単に血筋を絶やそうとしているなら、子供自体を生めなくすればいい。分家にも女しか産まれないようにしても良い筈だ。
祖父が、フン、と鼻を鳴らす。
「此の家の男が何代も、薄らぼんやりとスルーしてきた謎だ。解こうとなんて思うなよ。」
「どうして其処をスルーしちゃうの。」
気にならないのか。
「気にしてもしょうがねぇ。この家じゃ、女も男も跡継ぎに出来たし、子供の性別で文句を言う奴はいないかったしな。そんなことしてみろ、女共に何されるか分からない。其れに、どんなに気にしても生まれないものは生まれないんだ。生まれて来た子供を可愛がる他ないだろうよ。」
祖父の目が僕を越えて襖へと向けられた。
テーブルの上にあった、淹れられっぱなしになっていた茶を、ぐいと飲んで、祖父は眉を潜める。
「・・・あの腕は、この家の女達を守っている。お前や満治も含めてな。だから、お前達は飢えに苦しまない。此れからもずっとな。」
思わず口をポカンと開けた。あまりに話が破綻しているからだ。
「もっかい言うけど、僕も満治君も、男だよ。」
嗚呼、実の祖父にこんな説明をする日が来るなんて。とうとう呆けてしまっ・・・・
「あでででで。」
耳を引っ張られた。痛い。
祖父を見ると、顔面が怒りの皺でグシャグシャになっていた。
「そんなこと、とうの昔に知っとるわボケが。俺が何度御前達の粗相したパンツを誤魔化してやったと思ってるんだこのアホタレ。下半身丸出しで泣き付いて来るから、爺ちゃん凄く往生したんだぞ!」
「いや、その節は本当にお世話になりました。」
すっかり忘れていた。他人とは全く、覚えていなくていいことばかり、よく覚えているものだ。
「でも僕達は・・・」
「話にはまだ続きが有る。遮るな。」
「はい。」
鬼の形相で睨まれ、思わず素直に返事をしてしまった。祖父はまた大きく鼻から息を吹き出した。
「・・・お前の友達、何かの視線を感じたりしてねぇか。値踏みされるような、ネットリした奴。」
「・・・・・・うん。そう、言ってた。僕には分からなかったけど。」
「そうだな、お前は、今まで彼奴の存在にすら気付いてなかった。」
祖父の視線が、そうだな?と確認をしてくる。僕は黙って頷いた。改めて認識したが、僕は、今まで、あの黒い腕を見たことは一度も無かったし、況してや気配なんてものを感じたこともなかった。此れは随分と妙な話だ。
祖父の言うことが本当なら、あの腕はかなり昔から此の家に居着いていたということになる。けれど、僕は今迄、毎年何回も此の家を訪れているのだ。
「けどな、本来、お前もあの視線を感じる立ち位置になる筈だったんだ。」
視線を感じる立ち位置?
「体質とかじゃなくて、立ち位置?」
「いや、体質もそうだけどな。基本的に手続きを踏んでない男はあの視線を送られるんだ。本人に分かるかどうかはさておき。爺ちゃんだって、最初に来た時は大層居心地が悪かった。」
前述したが、祖父は入り婿だ。成る程、彼は元々此の家に居た訳ではない。
薄塩と同じ立場だったという訳か。
いや、待て。
「僕も此の家の人間じゃないじゃん。」
「だから話を遮るな阿呆が。」
「いでででて。」
また耳を引っ張られた。そろそろもげそう。
僕は若干伸ばされてしまったであろう耳を元に戻していたが、祖父はそんなことおい無しに話を進める。
「だから、本来なら監視される立ち位置なんだろう。理由を説明させろ。」
コホン、と小さく咳払い。そして、人差し指で僕を指差す。
「お前が小さかった頃、満治が家事を仕込まれている時に一緒になってやってただろ。違和感を感じない理由は其れだ。ほら、だから家事を習わなかった淳は、此の家に来るのが嫌いだ。」
「・・・家事が出来る人間は、監視対象から除外されるってこと?」
「違う。外されるのは、女、若しくは幼少期にこの家で家事を習った男だ。」
「なんで。」
「だから知るか。長年受け継がれてきた研究の末、ここまで分かったんだ。俺にも理由なんてわからねぇよ。」
分からないことばかりではないか。
不満とは言わないが、今一モヤッとする。
「・・・分からなくても従った方が良いってことも、沢山ある。そんなこと気にするより、しなきゃならないことが有るんじゃねぇか。」
「しなきゃならないこと。」
「友達だって、ずっと監視されてたら気味が悪いだろう。此処等で少し、楽にしてやろうや。」
楽にする。・・・楽にする?
「料理、習わせるとか?」
「もう無理だ。歳喰いすぎてる。」
「・・・じゃあ、まさか、退治するとか?」
「お前の友達をか?随分と過激な発想だな。」
「んな訳あって堪るか!」
ジョークにしても毒が強い。
「じゃあ、何を退治するんだ?」
「あの黒くて細い・・・」
「駄目だ。滅多なこと言うもんじゃない。」
ベシッと頭を叩かれた。
思いの外強い力で、痛かった。思わず抗議の為に口を開く。
「どうして」「駄目なものは駄目だ。幾ら此の部屋の中でも、それ以上は言うな。」
見ると、祖父はとても険しい表情をしていた。鬼気迫る、とでもいうのだろうか。彼は僕を見て・・・いや、違う。
彼が見ているのは僕の後ろだ。僕の後ろには、襖が有る。襖の向こう側は別の部屋。向こうの部屋に有るのは・・・
nextpage
コンッ、コンッ、
聞き覚えの有る音が、直ぐ後ろの襖から聞こえた。
向こうの部屋。其処の大きな窓ガラス。昼間は、開け放されている。
「ほらな。」
祖父が、ゆっくりと言う。
「大人の言うことは素直に聞いておけ。理由が分からなくてもな。・・・知らない方が良いってことも、ある。」
世の中には、知らない方が良いことがある。
陳腐な台詞だ。小説や映画で使い古され、何度も聞いたことがある。
けれど、此れ程に、此の台詞を恐ろしく感じたのは初めてだった。
何かが襖を叩く音は、まだ続いている。
nextpage
・・・・・・・・・
「で?」
「で。」
あの後、僕と祖父の身に何が起こった訳でも無く、音も数分で止んだ。祖父曰く、どうしてか、あの腕は仏間にだけは入って来れないらしい。だから諦めたのだろうということだった。
仏間に入れないという時点で、あの腕が良いものなのか怪しく思えてくるが、祖父はあくまでもあれを守り神のようなものなのだと主張した。
どうにも釈然としない。
「それ。」
ぼんやりしていると、薄塩が僕の持っている物を指差した。
薄塩が土産として持ってきたカップケーキ。クリームと果物で作られた薄い桃色の花が飾られている、残った物の中で、一番ファンシーな見た目をしているものだ。
事のあらましを話した僕は、其れを薄塩の前へと差し出す。
「うん。此れ。」
「カップケーキ。・・・さっきの話に何の関係が?気に入られなくて返品されたか?」
「其れは違う。・・・薄塩。」
「うん?」
「まだ、見られてる感じするか?」
僕の質問が唐突だったからだろう。薄塩が怪訝そうな顔をする。
「・・・・・・お前の爺さんが、確認しろって?」
「そうだよ。」
薄塩はふーん、と軽く頷きながら、窓の方を見遣った。閉められたカーテン。僅かな隙間さえ、洗濯ばさみで留められている。
今は、音は、何もしない。
薄塩が苦い口調でボソリと呟いた。
「まだ、見られてる。ふとした時に、視線を感じる。・・・・・・今も。」
「なら、行こう。」
彼の腕を掴み、階段へと連れて行く。
慌てたように彼は言った。
「何処にだよ。こんな夜に。」
「一階で祖父が待ってる。お前が不快な思いをしない為に、少しだけすることがあるんだって。ほら、此れ持って。」
カップケーキを空いている方の手に無理矢理渡す。
「・・・何、するんだ。」
「さぁ。でも、分からなくても従っておいた方が良い。多分な。」
「なんだそれ。」
「分からない。けど、怖くないし、危険でもないよ。僕が保証する。」
僕に保証されてもなんの安心も出来ないとは思うが。自分の不甲斐なさは重々承知している。
「何かあったら、本当に、頑張ってどうにかするし。」
何をどうにかするのか、と訊ねられると困ってしまうけれど。でも、本気でどうにかする。
出来るかどうかは別として。
「こんないきなり意味分からないこと言って・・・そもそも、僕を信用しろってのも、無理な話かも知れないけど」
「分かった。ほら早く行くぞ。」
「えっ、わっ、うわっ」
言葉の途中で腕を強く引っ張られた。
半分引き摺られるようにして廊下を進まされ、階段をこれまた引き摺られながら降りる。
急な階段なので、舌を噛んでしまいそうだ。
「言っとくけど、俺、お前のこと信用してなかったことなんて、今まで一度もないから。」
少し憤慨した声。
反論しようにも口を開くこともままならない。
遠ざかる部屋のドア。開けっ放しで大丈夫だろうか。蚊が侵入してしまう。
薄塩もどうしてこんなに怒っているのだろう。全く、怒りのポイントがよく分からない友人だ。
ゴトンゴトンと後ろ向きに階段を下りながら、僕は小さな呻き声を上げた。
nextpage
・・・・・・・・・
一階の廊下・・・さっき、皆で夕食を食べた所の廊下だ。黒い手がノックをした所と同じ。其処に、祖父は立っていた。
ガラス戸の向こうには、庭や菜園に面した庭が見えるのだが、今は真っ暗で何も見えない。
どうやら、空はまだ曇っているらしい。本来なら夏至も近い今の時期、此の時間ならば、もっと明るい筈だ。
「来たか。」
そう一言呟いて、祖父がガラス戸を開ける。
夏とは思えない冷たい風が吹き込み、頬を撫でて行った。
慌てたように薄塩が頭を下げる。
「あの、改めまして、こんばんは。俺、コンソ・・・○○君に何時も御世話になっています。薄塩っていいます。」
「こんばんは。○○の祖父の政吉だ。」
「えっと、俺、何すれば・・・」
素っ気ない返事。戸惑う薄塩を尻目に、祖父は淡々と説明を始めた。
「彼処に、平べったい石が有る。庭の隅だ。分かるね?さっき○○からケーキを渡された筈だ。其れを、此の葉っぱに乗せて、あの石の上に置いて来なさい。」
話をしながら、祖父が薄塩に何かを手渡した。
覗き込んでみると、其の葉は、楕円形に一ヶ所切れ目を入れたような形をしていた。
睡蓮に似ているが、其れよりずっと小さい。
薄塩も同じことを考えたのだろう。顎に手を当てて呟いた。
「蓮・・・では、ないですね?」
「ああ。蓮とは違う。ヒツジグサだよ。だが、似たようなものだ。」
「此れに乗せて、置いて来るんですね。」
「そうだ。・・・君が受けているという視線は、其れで消える。靴は、玄関から君の分を移動させておいた。・・・ほら、」
祖父の声に出さない催促を察し、薄塩が小さく頷く。
縁側から庭に下り、靴を履き、ヒツジグサの葉の上にカップケーキを乗せる。そして、ゆっくりと石の方へと歩き出す。
遠ざかる背中に祖父が呼び掛けた。
「そうだ。言い忘れていた。ケーキを置いて帰って来る時、私が良しと言うまで絶対に振り向いては駄目だ。分かったね?」
暗闇で薄まった輪郭が、一瞬止まる。間を置いて「はい。」という声が聞こえて来た。そして、また歩き出す。
ふと、妙なことに気付いた。
距離は石まで、あと数メートル。
だが、なかなか縮まらない。ちゃんと進んでいる筈なのに、である。
幾らゆっくり歩いていると言っても、そこそこ広い歩幅で、高校生が歩くスピードだ。其処まで遅い訳じゃない。
一歩一歩確実に進んではいるのだが・・・。
結局、其の数メートルを進むのに、数分の時間が掛かった。本来なら十秒程度で行ける距離なのにだ。
祖父は、平気そうな顔をしていた。
口を少し開けて、呟く。
「ほら、もう着く。」
薄塩に視線を戻すと、丁度、葉に乗せられたケーキを石の上へと置くところだった。
程無くして立ち上がり、此方へと戻って来る。
行く時と同じように、ゆっくりと。
見ている僕に気付いたのだろう。薄塩がヒョイと右手を上げた。
薄暗い中で、だんだん彼のシルエットがはっきりしてくる。距離も順調に縮まる。
良かった。
帰り道は普通に戻って来れているみたいだ。
nextpage
不意に、あの石が気になった。
見ると、カップケーキの上に、ソロソロと何かが下りて来ている。
暗闇に紛れてよく見えないが、次第に目が慣れて、蠢いている何かの全貌が見えてきた。
あの、痩せこけた腕だった。
ヒュッ、と喉の奥で空気が鳴る。
けれど、辛うじて声は抑えた。今、僕が声を上げてしまえば、薄塩は後ろを振り返ってしまう。
慌てて表情を取り繕い、薄塩に手を振り返す。
二の腕の部分が異様に長い腕。視線を逸らせないので確認は出来ないが、きっと、僕達の頭上へと繋がっているのだろう。
枯れ枝のような掌は、今にもカップケーキを掴み潰してしまいそうだ。そう考えると、言い様の無い不快感に襲われる。
然し、意外にも其の予想は覆された。腕は、最初こそカップケーキを上から鷲掴みにしようとしたが、クリームの細工に触れるか触れないかの所でピタリと止まったのだ。開いていた掌は閉じ、小刻みに揺れる。其れは、まるで、ケーキを上から掴むのを躊躇っているかのように見えた。
軈て掌は、カップケーキの側面を、そっと包んだ。
ゆっくりとケーキが持ち上げられていく。
単に、手にクリームが付くのを嫌がっただけなのかも知れない。けれど、僕には、可愛らしいケーキの飾りを壊さない為に行われた行為に見えた。
ケーキは、ゆらゆらと揺れながら、ゆっくり屋根へと上っていく。
僕は其れを見て、少しだけ、ほんの少しだけ、あの腕に対する嫌悪感が薄まったのを感じた。
「・・・コンソメ?」
何時の間にか、隣に薄塩が戻って来ていた。
「おかえり。」
「ただいま。・・・なんかあったのか?」
首を傾げる彼の肩を、祖父がポンと叩く。
「もう振り返っても大丈夫だ。お疲れ様。」
「え、あ、はい。どうも・・・」
振り返ると、当然あのカップケーキは無い。薄塩は目を丸くしながら「何時の間に」と呟いた。
僕は祖父と顔を見合わせ、少し笑った。
nextpage
・・・・・・・・・
部屋に布団を敷きながら、薄塩が、感心したように言った。
「本当に、視線、感じなくなったな。」
徐にスマートフォンを取り出して何かを打ち込む。
そして、僕の方へ突き出した。何行かに区切られた文字列が目に飛び込んでくる。
『万が一のことを考えて、声は出さない。お前も話するならスマホ使え。』
『お前、施餓鬼って、知ってるか。名前の通り、餓鬼に施しをするって行事。
餓鬼って言っても、子供って意味じゃない。仏教の、あの痩せこけた化物みたいな奴の方だ。
何時も腹を減らしているから、そいつらを供養する為に食い物を供える。今じゃ盆と混ざってる所も多いけど。』
読み終えるとスマートフォンは引っ込み、また新たな文字が打たれた。
『供え物の種類や方法は様々だけど、其の中に《蓮の葉に乗せて、地面に直接置くようにする》ってのがある。』
つまり、彼は、あの腕の持ち主・・・引いては此の家の屋根に住み着いているものを、餓鬼だと言いたいのだ。
じっと此方を見てくる彼。僕は静かに頭を振った。
確かに、あの腕が餓鬼ならば、仏を奉る仏間に入れないのも、あんなに窶れ、痩せこけているのも納得がいく。
・・・けれど、ひたすらに飢えを満たすことのみを目的とする餓鬼が、あんな優しいカップケーキの持ち方をするとは思えなかった。
思えなかったし、思いたくなかった。
「おやすみ。」
僕は先に敷いていた布団の中に潜り込み、早々と目を閉じた。
nextpage
・・・・・・・・・
目を開けると朝になっていた。
見ると、薄塩が隣に居ない。慌てて起き上がると、窓の方から「おはよう」という声が聞こえた。
そういえば、部屋の中が妙に明るい。首を動かして窓の方を向くと、カーテンが開かれている。いや、其れ処か窓も開けられていた。
「此れ。」
薄塩が僕に何かを差し出して来る。
「起きてカーテン開けてみたら、窓の外に。」
昼顔の花だった。沢山ある。
未だぼんやりしていた僕も、薄塩があまりにも困惑した表情なので、思わず笑いながらこう言ってしまった。
「お礼じゃないか、昨日の。」
薄塩が更に困惑顔になって呟く。
「餓鬼じゃ、なかったのか・・・。」
「さあ。其れは分からないけどーーーーーーー」
あの腕は僕達が飢えることの無いように守ってくれているのだと言う。其れは、飢える辛さを知っているからなのかも知れない。
だったら、やっぱり、あの腕は浅ましいだけじゃない。何処かに優しさを持っている。きっと、鬼ではなく、人に近い心を持っている。
仲良くやっていける筈なんだ。今迄の先祖のように、此れからも。
「此れ、どうしような。此の茎の長さじゃ、花瓶は無理だろ。」
薄塩が困り顔の中で、僅かに微笑む。
nextpage
朝露に濡れた昼顔の花は、昨日のカップケーキと同じ、薄い桃色をしていた。
作者紺野
どうも。紺野です。
大変遅くなってしまい、申し訳ございません。
祖父は自分で自分のことを爺ちゃんと呼ぶことがあります。ややこしいです。ご注意を。
方言50%offでお送りしています(当社比)。
次回は三島さん回をお送りします。年の瀬に不快な思いをさせられました。宜しければ、お付きあいください。
そして、吐き出せない思いを此処にそっと置いておきます。薄塩のバーカバーカバーか!!ボーケボーケボーケ!!