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俺は最近、ストーカー被害に遭っている。
問題の相手は会社の先輩、40過ぎの女性N。
はじめは新入社員の俺に色々世話を焼いてくれてんのかな、と思っていたが、そのうち仕事のこと以外でもやけにベタベタしてくるようになり、正直勘弁してほしいと思うようになった。
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男性の先輩社員たちは、
「おいS(俺のこと)、お前愛されてるな」
「もうつきあっちゃえよ」
「いっそ結婚して寿退社させちゃえよ」
とか茶化してくるが、実際笑い事じゃない。
明日も会社でNと顔を合わせると思うと、憂鬱になる夜も増えていった。
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俺がデスクでPCに向かっていると、Nが後ろに立って覗き込んでくる。これも厭でたまらない。
Nが背後に立っているのは、振り返らずとも分かる。
気配とか、そういう曖昧なものじゃない。
臭いだ。
Nの付けている香水の、そのむせかえるような臭いが、嫌でもNの存在を俺に知らせるのだ。
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Nの香水の臭いの強烈なことは、たとえNの姿が見えなくても、さっきまでそこにいた、その後あっちに移動した、と推理できてしまうくらい濃厚な残り香を残す程だ。
その臭いも、俺にとって厭で厭で堪らないものになった。
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そしてその厭な臭いが、会社だけでなく、俺の住むアパートの近くでもするようになった。
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ある日曜日、俺が買い物に行こうとアパートの階段を降りていた時、一階に着いたあたりで不意にあの厭な臭いが鼻についた。
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俺は思わず周囲を見回した。
階段の裏、壁の陰。
Nがそこにいるのではないか、とキョロキョロ視線を巡らす。耳もすます。
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しかし、どこにもNの姿はなかった。
ただ、くっきりと形を持ったような残り香だけがそこにあった。
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翌日の月曜日、出社した俺はNの様子を観察した。
特に普段と変わった様子はない。
相変わらず、俺にベタベタとちょっかいを出してくる。
やはりいつものあの香水を付けていた。
その臭いは、前日に嗅いだあの臭いと同じもののように思えた。
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そんなことが度々起こった。
自宅の周辺、例えば最寄りの駅の改札、近所のコンビニ、アパートの近くの電柱、そして自宅のドアの前。
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相変わらずNの姿はない。
だが俺の勘違いとは思えない。
俺は意を決して、Nの尻尾を掴むべく自宅アパート近辺を警戒することにした。
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これまでの経験上、週末になると特に多くあちこちに臭いを感じる。
そこで敢えて一日外出を控え、部屋の窓からアパートの前の通りを見張ることにする。
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午前中、午後と日の出ている時間帯は異常なかったが、夕方になり、通りの街頭に明かりが灯る頃になると、不審な人影が目につくようになった。
俺は不在をよそおうために明かりを消したままの室内から、その人物を観察した。
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マスクで顔を隠した、黒っぽい丈の長いコートを着た人物。
それは通りの向こうから現れ、電柱の陰からしばらく俺の部屋の方を眺めていた。
そしておもむろにアパートの入り口の方へと移動し、姿が見えなくなった。
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俺は今度は部屋のドアの前に移動して外の気配を伺った。
少しすると、
-ーコツ、コツ、コツ、コツ
部屋の前の廊下を歩いて向かってくる足音を聞いた。
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厭だったが、意を決して音を立てないようドアスコープを覗く。
先程の不審な人物の姿がそこにはあった。
顔をマスクで隠してはいるが、目元には見覚えがある。やはりNだ。
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Nはしばらく俺の部屋の前にたたずんでいた。
ドア越しに、俺とNとが向かっている構図を思い浮かべて鳥肌が立った。
そのドアを開けて怒鳴り散らすことも考えたが、廊下に立っていたNがおもむろにドアに近付いてきて、ドアスコープの向こうから逆にこちらを覗き込んできたことで、思わず後ろに飛び退いてしまった。
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再びドアスコープを覗く勇気が出ず、俺は玄関に立ち尽くしていた。
ドアの外から
-ーゴッ
-ーガッ
と、何かをドアに当てているような小さな音が聞こえていた。
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そのまま息を殺していると、やがて
-ーコツ、コツ、コツ、コツ
と、遠ざかっていく足音が聞こえてきた。
次いで階段を降りていく音。
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俺は辺りが静かになってからたっぷり30分は間を開けてから、恐る恐るドアを開けた。
廊下には誰もおらず、ドアにも変わったところはなかったが、あの厭な臭いはドアからたっぷりと臭ってきた。
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翌日、俺は会社でNに話がある、と告げた。
そして空いている会議室に移動する。もちろん他の社員に聞かれないためだが、Nは勘違いしているのか嬉しそうに俺の後を付いてくる。
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会議室のドアを閉めると、俺は単刀直入に話を切り出した。
昨日、自宅の周囲をNがうろついていたのを目撃していたこと、正直迷惑なのでやめてほしいということ、もしやめない場合は他の社員に相談するつもりだ、ということを伝えた。
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Nははじめ驚いた顔をしていたが、その後言い訳をしようと愛想笑いを浮かべ、その余地すら与えられないと知ると不機嫌な顔になり、迷惑という言葉に悲しそうな表情をしたかと思うと、他の社員に相談の下りで完全に無表情になった。
俺は話を終えると、うなだれるNをひとり残し会議室を後にした。
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翌日からNは休みがちになり、2ヶ月後には会社を辞めた。
男性の先輩社員たちからは
「お前、Nのこと振ったな?可哀想に」
などと茶化されたが、俺は心底清々していた。
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Nが辞めた日から俺の体は面白いように軽くなった。
これまで自分でも無自覚なうちに、どれだけNからストレスを被っていたかという話だ。
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だがNが辞めた直後に一度、こんなことがあった。
NのPCを処理していた社内のシステム部の人間から、
「Nさん、お前からのメールだけフォルダ分けして全部取ってあったぜ?」
と聞かされたのだ。
その時だけは、胃がズシリと重くなるのを感じた。
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そのことを除けば平穏な日々が続いた。
Nから解放された俺は仕事に精を出し、大きなプロジェクトにも参加させてもらい、忙しくも充実していた。
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ある夏の日のこと。
仕事で帰りが夜遅くなり、疲れた体を引きずってなんとか自宅アパートに帰り着いた俺は、ドアの前で不意にあの厭な臭いを嗅いだ。
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臭いは俺の脳裏に一瞬のうちにNの像を結ばせ、夏だというのに鳥肌を吹き出させた。
俺は辺りをキョロキョロと見渡した。
アパートの無人の廊下が広がっているばかり。
階下を見下ろしても猫の子一匹見当たらなかった。
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それから、また度々あの厭な臭いを嗅ぐようになった。
最寄りの駅の改札、近所のコンビニ、アパート近くの電柱、そして自宅のドアの前。
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-ーいる。
俺の周りにNがいる。
俺は恐怖した。そして必死になってNの姿を探した。
最寄り駅に張り込んだ。
コンビニでも長時間立ち読みをした。
前と同じように留守のふりをして、部屋からアパートの前の通りを見張った。
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しかし、Nを見つけることはできなかった。
確かに臭うのに。
厭な、臭いが。
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Nを探すことにせっかくの休日を使いきり、徒労感に浸りながら部屋のベッドに倒れこんだ俺は、普段使っている枕から、あの厭な臭いが漂ってくるのに気が付いて、夜中にひとり大声をあげた。
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俺はすっかり参ってしまった。
ストーカー被害として警察に相談しようにも、姿を見せているわけでもないし、電話やメールをしてくるわけでもない。
ただ、臭うだけなのだ。
厭な、臭いが。
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臭いだけで物証になるのかは、甚だ心もとない。
俺の勘違いかもしれないし。
いや、勘違いとは思えないのだが。
眠れない日々が続いた。
体がいつも怠かった。
頭は、鉛を入れられたかのように重かった。
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ある夜、俺はひとりで残業をしていた。
ここのところ体調が優れなかったせいか、細かいミスを連発してしまい、仕事が終わらなかったためだ。
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広いフロアには俺ひとり。
自分の部署のエリアだけ照明を点けて、その他は消灯している。
早く帰りたいと思いながらも、作業は遅々として進まない。
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PCの画面を見つめ、どうやって資料をまとめるか思案していると、不意に背後からあの臭いがした。
Nがまだ会社にいた時、俺の背後に立ってPCを覗き込んできた時の、あの感覚。
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ぎょっとして、俺は背後を振り返った。
真っ暗なフロアに整然とデスクが並んでいる。
Nの姿はない。
当然だ。こんな時間だし、会社を辞めてセキュリティカードも持たないNが入って来られるはずがない。
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俺はかぶりを振った。
ノイローゼという奴だろうか。
こんな時にNの臭いがするなんて。あり得るはずがないのに。
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その時、目の前の席のイスが
-ーギッ
と音を立てた。
そこは、Nがよく座って俺に無駄話を振ってきた席だ。
その席からあの厭な臭いが漂ってくる。
形を持っているかのような、濃厚な臭いが。
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今度は右の部長の席から
-ーカタッ
と何かがずれる音がした。
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少し離れた隣の部署の机。
-ーカタン
さらに離れたホワイトボード。
-ーギギッ
フロアの入り口近くのゴミ箱。
-ーコツン、パタン
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小さな音がまるで移動するかのように、連鎖して鳴る。
俺は音のした方を目で追いながら、呆然と立ち尽くしていた。
そして再び静寂が戻った。
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俺はノロノロと足を動かした。
部長の席-ー
他部署の机-ー
ホワイトボード-ー
入り口のドア-ー
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そのすべてに、そしてそれらに向かう通路のすべてに、あの臭いが残っていた。
Nの付けていた香水の、むせかえるようなあの臭いが。
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翌日、俺はNと仲の良かった女性社員のTに、Nの近況を訊いた。
Tは意外そうな顔をして応えた。
「Nさん、会社辞めた春先に亡くなってるよ。-ー自殺、だって。知らなかった?」
作者綿貫一
こんな噺を。