もしかしたら、私はおかしな子と知り合ってしまったのかも知れない。私は彼女の待つテーブルを遠目で見ながら、そう思った。
名前の通り、凪のような静かな表情。
指と指を絡めるように組み、目を伏せている。口許が僅かに動いているのも分かった。
教会にある彫像、または壁の宗教画のように、彼女は神ではなくドーナツに祈りを捧げていた。
いや、祈りを捧げていたこと自体に偏見を持っている訳ではない。私だって、食事の前には手を合わせる。キリスト教の人が祈りをするのも、同じような感覚だろう。彼女が何を信じていようと、私が何ということも無い。
異質だったのは、彼女が醸し出していた空気だ。
静謐、神聖、厳か。ドーナツ屋、しかも、全国展開のチェーン店には、あまりにも不釣り合いな、其の空気。あまりにも真剣な其の祈り。
其れが、たかだか一つ百円のドーナツの為に醸し出されているというのは、はっきり言って異様な光景だった。
私は紅茶用の砂糖やミルクを取ることを口実としながら、彼女が祈り終えるのを待つ。
既に大勢の目に晒されているのに、何故か直ぐに彼女の側へと行くことは憚られた。
幾つもの砂糖とミルクが紅茶に放り込まれ、紅茶はどんどん甘ったるくなっていく。
一刻も早くあの祈りが終わって、何も見なかった振りをして彼女の元へ行ければいいと思った。
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トレーの上に乗せられた小さな箱を見て、彼女は目を丸くしたようだった。
「此れ、全部違うドーナツ?」
目線の先に有るのは、小さなボール状のドーナツが詰められているパック。
「どうせなら色々食べたいなと思って。半分しようよ。流石に二個も食べられないから。手伝って。」
「で、でも私がご馳走になっちゃったらお礼の意味が・・・」
「いいの、いいの。私が『食べるの手伝って』って頼んでるんだから。そういうのは気にしないで。勿論、嫌なら食べなくてもいいけど。でも、食べてくれたら嬉しい。」
捲し立てるような私の弁明に、彼女は静かに頷く。そして、じっとドーナツを見詰め、軈て、ふわりと微笑んだ。
「有り難う。」
さっきの静かで硬質な表情とは違う、ちゃんとした人間の顔。私は少しだけ安心しながら「どれがいい?」と、彼女にドーナツの小箱を差し出して見せた。
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其れから、なんとなく、彼女と過ごすことが増えた。
彼女は、学校では何時も同じメンバーと行動を共にしていた。
皺の無い制服をピシリと着こなし、化粧もピアスもせず、黒い髪を長くしているグループ。素顔な分、個性が際立つ筈なのに、其のグループの人達を幾ら見ても、私には誰が誰だか分からない。
仲の良くなった彼女を除けば。
彼女だけは、水の中にガラス玉を一粒落としたように、何時でも、はっきりと分かった。一見同じに見えても、全然同じでない。元からして違うように見えた。
けれど、私は、学校では彼女に話し掛けなかった。
私には私のグループがあったし、何より、一緒に騒ぎながら昼食を摂ったり、退屈な授業中にこっそり話をしたりするような関係は、彼女には合わない気がしたのだ。
今思えば、自分のグループから抜け、彼女を彼女のグループから抜けさせるのが怖かっただけで、此れは単なる言い訳でしかないのだが。けれど、その頃は本気でそう思っていた。
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放課後に校門で待ち合わせ、何処かに行く。
行き先は様々だ。テーマパークやショッピング、近所のコンビニ、公園。
何処でも良かった。何処でも彼女は喜んだ。
「此処に来るの、初めてなんだ。」と言って。
家が厳しいのだろうと、私は思っていた。キリスト教を信じる家だ。私達とは違うのだろうと、思っていた。
彼女が何処でも祈りを欠かさなかったから。
彼女は何時でも信仰と共にあったから。
カルトではない、純粋の信仰。例えるなら、純度の高い水のような。
何処に居ても、誰と居ても、何をしていても、彼女は神聖な雰囲気を醸し出していた。
透明な空気を身に纏った彼女は、眩しくて、神々しかった。
住んでいる世界さえ、違う気がした。
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ある日、彼女と私は、コンビニでお菓子を買って近くの公園へと向かった。高台にある其の公園は、ジャングルジムの上に登ると海が見渡せる。
ひんやりする鉄の骨組みに二人して腰掛け、買った菓子パンを頬張る。
鴎が鳴いていた。
浜風が顔を緩く撫で、彼女の髪がサラサラと揺れた。軽く掻き上げ、彼女はまた手の中のクリームパンに歯を立てる。
遠くでボォーー、と低い唸りの音。船の汽笛だ。
「客船。遠い国に行くのかな。」
彼女がポツン、と呟く。一番上の段を怖がったので、彼女は一つ下に座っていた。長い髪の切れ間に憂い顔が浮かんでいた。
「私は、何処にも行きたくない。」
薄く開いた唇と、焦点の合っていない虚ろな目。夕映えに染まった頬は、逆に色味を吸い取られて青白い。ビニール袋を掻き抱く手だけが、妙に動きがあってアンバランスだ。
頭の中を、アルバムを素早く捲るように画像や文字が流れる。
近所の教会、テレビで見た宗教画、彫像。確かイタリアだった。女の人。誰かを腕に抱いて、白いヴェールを着けた、彼女は・・・・・・
慌てて頭を振る。なんだか自分がとても恐ろしいことを考えていたように思えたからだ。炭酸飲料を流し込み、乾いた舌を、無理矢理動かす。
「凪は、色々な所に行くのが、好きなのかと思ってたよ。」
其の頃にはもう、お互いに、ちゃん付けでは呼ばなくなっていた。
「何処に行っても楽しそうだったから。」
「楽しかったよ。」
糸を断ち切るように、私の言葉が切られる。
勢い良く彼女が此方を向いた。
「でも、あんまり楽しいと、今居る場所が、今まで過ごした時間が、全部全部怖くなるの。戻りたくなくなるの。無理なこととは分かっているのに。」
首の勢いに髪が付いて行けず、取り残された幾本かが顔にへばり付いている。少し潤んだ目。
「未来。私ね、本当は、私ーーーーーー
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言い終える前に、彼女の身体がグラリと傾いた。
慌てて手を差し伸べたが、彼女の手は剰りに細過ぎてスルリとすり抜けた。
ドサッ
地面に叩き付けられ、彼女が頭を押さえながら呻く。
「大丈夫?!」
慌てて私もジャングルジムから降り、彼女の傍へ駆け寄った。
「・・・・・・大丈夫。」
思ったより早く起き上がって、ホッとした。大した怪我は無いみたいだ。
彼女が微笑む。
「天罰かな。神様から逃げようとしたから。」
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突然強い風が吹いた。髪が派手に巻き上がり、彼女の顔がまだ白いのが分かった。
唐突に思い出した。ピエタ。
さっき思い出した彫像の名前。死んだキリストを抱く聖母マリアの像。
「私、神様を信じたくなんて、なかったのに。お祈りなんて、したくなかったのに。」
薄闇に埋み火のような夕陽。太陽が、沈もうとしていた。
彼女は微かに微笑み、改めて視線を此方に合わせる。
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「私、神様なんて、大嫌いだったのに。」
そう言った彼女は、相変わらず、美しく、神々しかった。
作者紺野
どうも。紺野です。
なんなんだこれは。と今正に頭を抱えています。ホラーと呼べるのかはさておき気持ち悪い。僕が。こんな話を書いた僕が凄く気持ち悪い!
まだおわっても居ませんが、また書きたい話が出来ました。木葉さんと烏瓜さんの話です。しかも今のやつ。何時ばれるか分からないし書かねば。宜しければ、お付き合いください。