今朝の話。田舎の祖母が倒れたと母から連絡が入った。祖母はもう御年87歳だったが、今でも足腰が丈夫で畑仕事を毎日欠かすことなくこなしていた人だった。そんな祖母が倒れたというから、私は慌てた。若い頃から医者いらずで、病院などほとんどかかったことがない祖母が倒れたというのだから。
母親から電話が来たのが朝の7時過ぎ。急いで会社に連絡し、有給を使い、数日休ませて貰うことになった。そのまま急ぎ支度をし、取るものもとりあえず家を出て駅へと向かった。
新幹線の切符を購入し、ホームに入る。祖母のことが気がかりで母に電話をすると、単にぎっくり腰だったことが判明し、安堵と同時にムッとした。会社を休んで駆けつけようとしていただけに、莫迦を見たような心境だった。
「ぎっくり腰って・・・・・・もう、何それ。病気かと思って心配したじゃないの」
「こっちだって驚いたわよ。ご近所の田中さんが、お宅のばあちゃんが畑で倒れてるって家に駆けこんできたんだから。朝のウォーキング中、偶然うちの畑の前を通ったら、地面に突っ伏してるばあちゃんを見つけたみたいでね。母さんも吃驚して救急車呼んだんだから。今、病院だけどばあちゃん元気よ。しばらくは安静にしなきゃいけないみたいだけど」
電話での母はあっけらかんとして語った。稀に見る脱力感。ぎっくり腰なら命に別状はないし、大して心配ないだろう。幸い、まだ新幹線に乗る前だったことが救いだ。事情を話して切符の買戻しをして貰い、会社に戻ろうかと思った。そのことを母に申し出ると、母は意外にも渋った。
「せっかく休み取ったんだし、あんた今駅なんでしょ。だったらそのまま新幹線に乗って帰っておいでよ。ばあちゃんにもあんたが会いに来るって話しちゃったし、凄く喜んでるの。あんた、最近はお盆も正月も忙しい忙しいで帰って来ないじゃない。たまには顔くらい見せにおいで」
電話の最中、タイミングを図ったかのように新幹線が来た。漏れる溜息を噛み殺しつつ、私は肩を竦めた。
新幹線に乗る時、私は大抵自由席に乗る。その理由として、単純に指定席を取るより安いからだ。自由席だと座れないこともしばしばだが、30分程で着く。通勤電車で毎朝約1時間、スシヅメ状態で立っている私にしてみれば、30分経ち続けることは苦でも何でもない。
そう思っていたが、意外にも自由席は空いていた。ラッキーだとほくそえみ、適当な座席に腰を落ち着け、鞄から文庫本を取り出した。読みかけの頁に挟んであった栞を探していると、隣に誰かが座る気配がした。ちらと見れば、黒いスーツ姿でアタッシュケースを持ったいかにも営業マンといった風情の男性だった。自由席はかなり空いていて、空席もまだあったはずなのに、何故彼はわざわざ私の隣に座るのだろう。別に迷惑ではないのだが、他人と相席するより、1人でのびのび腰掛けたほうがいいのに。彼はそうは思わないのだろうか。
そんな風に思いつつ、読みかけの頁から栞を見つけ出し、文に目を走らせる。すると隣に座る男性がごそごそと何かしている。集中力が途切れてしまった私は、多少イラつきつつ、ちらと彼に目線を送る。どうやら彼はスーツから取り出した手帳に、何かを書き込んでいるようだ。その様子からして、今日のスケジュールを確認するとか、思い出しだことをメモしたとか、そういった感じではなかった。
シャッ、シャッと、ボールペンが紙を走る音がする。文章を書き込んでいるというよりは、図形や直線を書いているような。しばらくの間、彼は一心不乱に書き込んでいたようだが、何を思ったか書き込んだであろう手帳の頁をびりびりと切り取った。書き損じたのかな、と思いつつ、開いた文庫本に目を落とす。
「あのう・・・・・・」
ぼぞりとした声。はっと顔を上げると、隣に座る彼がぎこちない笑みを浮かべて私を見ていた。申し訳ない言い方だが、あまり他人とのコミュニケーションを得意とするタイプの人ではなさそうだ。営業マンとしては致命的に思えたが、彼なりに精一杯の笑顔を浮かべているのだろう。つられて私も曖昧な笑みを浮かべ、「何か」と応答する。彼はへこへことお辞儀するような仕草をしてから、すっと何かを差し出した。それは先程まで彼が書いていた手帳の頁だ。わけが分からず、差し出されても受け取る気がしない私に向かって、彼はまたへこっと頭を下げた。
「信じて貰えないと思いますけど、あの、僕、その、見えるんです。えっと、その、良くないモノって言うんですか。幽霊・・・・・・とか」
「は?」
いきなりの言葉に唖然となる。得体の知れないものを見るような目つきをする私に向かい、彼は言い訳をするかのように「いやあ、き、気持ち悪いですよね。急にそんなこと言われても、ねえ」と前置きした上で、「でも」と続けた。
「僕の場合、幽霊が見えるって言っても特殊なんです。よく、霊感のある人ってそこら中、至る所で幽霊を見ているって話聞きませんか。僕の場合は・・・・・・ちょっと変わってて。町を歩いていて見掛けるとか、誰かの背後にに幽霊が立っているとか、そういうのは見えないんです。そうじゃなくて・・・・・・うーん、何て言えばいいのかな・・・・・・。ま、まあ、とにかくこれを見て下さい」
彼は切り取った手帳の頁を再度差し出した。胡散臭い気がしたが、彼がとても真面目な感じで言うので、文庫本を膝に置き、受け取った。それを見た私は、一瞬で体中の血の気が引いた。
そこに書かれていたのは、私が今住んでいるマンションの見取り図だった。リビング、キッチン、寝室、浴室、トイレ、そして置かれている家具の位置がぴたりと遭遇している。まるで見てきたような正確さだ。寸分の狂いもない。寝室にベットにはクマとフクロウのぬいぐるみが置いてあるのだが、それすらも書き込まれていた。喉の奥でひっと声が漏れる。彼は慌てて、「僕は別にあなたのストーカーとかじゃないですからね」と全然説得力のない台詞を吐いた。こんな物を見せておいて、よくもまあしゃしゃとストーカーじゃないなんて言えたものだ。だが、彼はおろおろしながらも、しっかりとした口調で言う。
「その・・・、僕には霊に憑かれている人の部屋が見えるんです。その人を見た瞬間、頭にふっとその人の部屋がありありと浮かんでくる。あ、カラーとかじゃないです。モノクロなんですけどね。でも、個人情報というか。人の家を覗き見していることと変わりないですから、自分でもいけないことだって分かってます。でも、制御とか出来なくて・・・・・・。見えちゃうんです。見たくなくても見えてしまって。気味が悪いって思われるから、あんまり人には話さないんですけど・・・あなたの場合は、その、いえ、ねえ・・・」
歯切れ悪く言い、彼は怯えたように私を見る。そして私が持っている切り取られたページのある一ヵ所を指差した。それは寝室にある「クローゼット」と表記された箇所だった。私は顔を上げ、じっと彼を見る。彼はびくりと肩を震わせ、唇を震わせた。だが、聞き取れないような小さな声ではあったが、最後まで続けた。
「ここ・・・・・・。良くないモノがいます。それも1体や2体じゃない・・・・・・5体、いや6体くらいいるかも。その、良くないモノはあなたを怨んでます。非常に強い怨念・・・・・・みたいなのを感じます。このままだと・・・ヤバイですよ。この箇所、クローゼット自体が既に怨霊の住処みたいになってて・・・・・・そこに住み続けてると、あなたにも影響が出るんじゃないかと。その、良くないモノっていうのは、あなたに関係していて、あなたをとても慕っていて、でも・・・・・・あなたは____」
片手でくしゃりと紙を握り潰した。今、私の手の甲には血管の筋が浮き上がり、小刻みに震えているかもしれない。それくらい力強く握り潰したのだ。少なからず牽制の意味も込めて。彼はぎょっとして口をつぐみ、私はにこりと微笑んだ。ちょうど、新幹線が駅に到着したようでアナウンスが流れる。
「ご親切にどうも」
お礼を口にすると、彼は青ざめた顔で立ち上がった。そして挨拶もなくアタッシュケースを抱え、あたふたと新幹線を降りていく。私は文庫本を鞄にしまい、携帯を持って静かに立ち上がる。大丈夫、顔は覚えた。今から行けば追い付ける。
「もしもし。あ、母さん?今、着いた。ちょっと用事が出来ちゃって・・・・・・うん、終わったらばあちゃんとこ顔出す。すぐ行くから」
そう言って電話を切った。小走りに階段を降り、改札口に出る。嗚呼、走りにくい。パンプスではなくてスニーカーで来れば良かった。こういった事態を予測していなかったのだから、仕方ないのだけれど。想定外の事態だったが、私の心は妙に晴れやかだった。
見覚えのある背中が改札口を抜けていくのを見つけ、荒い息を吐きながら呟く。
「ご親切にどうも」
私は彼にとても感謝している。
作者まめのすけ。