夏の会合の帰り、先輩に捕まった。夕飯と酒を奢ってくれるのだという。嫌な予感がした。
彼が優しくしてくる時は、大抵録でもないことを押し付ける時からだ。割合としては、九十九パーセントぐらいだろうか。
勿論、必死に遠慮しようと思ったのだが、呼吸を止める勢いで、奴が真剣と書いてマジと読むような目で睨み付けて来たので、其処から何も言えなくなっちゃった私である。因みに、同期の奴等には、合掌されたり十字を切られたりして、見捨てられた。ロンリネス。
「いやいやいやいや、勘弁してくださいよ。先輩。私はまだ死にたくない。」
「酒と飯食わせてやるっつってんだろ。どうしてお前が死ぬんだよ。」
「いや、まぁ、そうなんですけど・・・先輩、また面倒な仕事を押し付け」
言い終える前に、肩に一撃食らわされた。
先輩のツルツルなおでこ及び前頭部に、ピキピキと青筋が浮かぶ。
「いいから来いや!!先輩の言うことが聞けねぇってのか!!」
「ああああああ・・・・・・。」
急にキレた。図星だ。押し付けられる。絶対に厄介事を押し付けられる。
目を逸らすと、先輩が私の服を破かんばかりに掴む。伸縮性の無い筈の生地がデロンと伸びた。此の馬鹿力。ゴリラ。
「お前、○○高校出身だったよな?」
メンチを切るようにして尋ねられた。慌ててまた目を逸らす。
確かに私は○○高校卒なのだ。間違いなく。
だが、此処で首を縦に振れば、絶対に仕事のスケジュールをぶち壊される。家で愛兎と戯れる時間を削られる。ストレスで胃腸が荒れる。
「いえ違います。そんな学校聞いたことも有りません。先輩のゴリラ!」
あ、しまった。
勢い余って先輩を貶してしまった。
謝る間も無く鳩尾に衝撃。殴られた。痛い。
「嘘吐け!○○期生だろ、調べは着いてんだ!!」
「じゃあどうして訊いたんですか・・・・・。」
「喜べ、仕事だ!!」
言葉のキャッチボールが出来ていない。
駄目だ。もう、何をしても無駄だ。
私は諦め、すっかり大人しくなって地面に座り込んだ。
先輩が少し苦い顔をして、あの言葉を発するまでは。
nextpage
「お前にしか頼めねぇんだ。お前、あの坊っちゃんと仲良いだろ。・・・・・・彼奴、まだ生きてるか?」
「・・・・・・はぁ?」
思わず先輩の顔を見上げる。珍しく真面目そうな顔だ。どうやら、冗談を言っている訳ではないらしかった。
先輩は、少し説明を丁寧にして、同じ質問を繰り返す。
「あの風舞の坊っちゃんは、元気かって言ってんだよ。」
「いや、元気も何も、何時も通りだ思いますけど。」
いきなり何を言い出すのだろう。確かに今日は来ていないが・・・・・・。
「狐目、何かあったんですか?」
恐る恐る尋ねてみると、先輩は一瞬の沈黙の後に答えた。
「出てんだよ。」
「はぁ?」
先輩の舌打ちが薄闇に響く。唖然とする私に、先輩はもう一度言った。
「最近、○○高校に、坊っちゃんの幽霊が。」
separator
「ということなんだけどね。どうだい、狐目。今、生きてるかい?」
「去ね。」
開け放たれた仰々しい木製の門。そして、其の陰に仁王立ちしている仏頂面の男。果たして、狐目もとい風舞木葉は無事に生きていた。
「何の用ですか。」
「言っただろうに。生存確認。どうやら、生きてるみたいだね。いやぁ、残念。」
肩を竦めてみせると、蝉時雨さえ黙らせることが出来そうな目付きで睨まれた。門柱に寄り掛かりながら、狐目が気怠そうに言葉を吐く。
「・・・それだけではないでしょう。」
「どうして、そう思う?」
おや、もう気付かれた。口角が上がらぬように気を付けながら、問い返してみる。
すると、フン、と鼻を鳴らされた。別に求めている訳でもないのだが、驚く程可愛げが無い。
「理由は山程有りますが、三つ程挙げてみましょうか。一つ。生存確認だけならば、電話で充分の筈。なのに貴方は態々私の家まで来た。」
彼の人差し指が立てられ、此方を向いた。色が白いので、陰の中から浮かび上がっているように見えた。
「ふんふん。」
「二つ。ちゃんと呼び鈴を鳴らした。貴方、プライベートな用事で来る時は、基本的に不法侵入でしょう。」
中指も伸びる。
「ほうほう。」
「さて、最後です。三つめ。」
其処で唐突に言葉が切られた。狐目を見れば、己の顎に手を当て、愈々眉を歪ませている。
「・・・本当に、分かりませんか?」
「ああ。皆目見当も付かない。」
私がそう返答をすると、ほとほと呆れ返った、とでも言いたげな顔をされた。
ゆらり。揺れるようにして狐目が日向へと出て来た。一歩、二歩、とゆっくり距離を詰められる。
私がじっとしていると、直ぐ目の前まで来た。
丁度ピースのような形になった手が、私の顔へと伸びる。尚も動かずに居ると、両の目蓋を押さえ付けられた。
ひんやりと冷たく、さらりと乾いた感触。
少し上から声が降る。
「目元、笑いを隠せていませんよ。」
「私が笑ってちゃいけないとでも?」
「いいえ。けれど、昔から貴方がそんな顔をしたときは、何かが起こるんです。」
目は塞がれているので見えないが、声が少し楽しげに聞こえた。今日は機嫌が良いらしい。
安堵の溜め息を飲み下す。
「正解だよ。・・・・・・参ったね。面を着けるようになってから、すっかりポーカーフェイスが下手になった。」
軽い目潰しはまだ続いている。あまり心臓に宜しくないので、そっと手を退けた。
「仕事だ。協力を頼めるかい。」
「貴方に協力なんて、夏なのに鳥肌が立ちます。それに、丁度じい様方からツアー旅行に誘われていましてね。しつこいんですよ。あの人達。」
ふい、と横を向く狐目。さも詰まらなそうに目を伏せ、口許を尖らせる。
因みに《じい様方》というのは、此の地域で我々のような仕事をしている者達の、元締め連中のことである。とっても偉い人達。
普通なら、彼等の言うことに逆らったり、誘いを断ったりは出来ない。若造なら尚更。
つまり言葉の文脈を察するならば、彼の発言は拒否である。
・・・・・・けれど。経験上、彼は断る時に、こんなまどろっこしい言い訳はしない。
嫌ならば「嫌です。」無理ならば「無理です。」 の一言で終わらせる筈だ。
「つまり?」
「つまり。」
そっぽを向いたまま、狐目はニヤリと笑った。
「じい様方に、一緒に頭を下げてくれますね?」
無論、私は大きく頷いた。
separator
屋敷の中は、季節を忘れさせる程に涼しかった。具体的に言うのなら、クーラーを点けた自宅より涼しい。此れで冬は暖房を点けずとも不思議と暖かいのだから、もう意味が分からない。
「外は暑いですね。嗚呼、出たくない。出張業務なんでしょう、どうせ。しかも外回り。だからあんたの持って来る仕事は嫌なんだ。」
団扇で顔を送りつつ、狐目がぼやく。家に入って気が緩んだのか、敬語も崩れた。あ
私は肩を竦める。
「そう言うなよ。まあ、こんな居心地の良い家なら、気持ちも分かるがね。」
快適な室温、手入れしていないのに整った庭、全体にゆったりとしていて、其れでいて心地好く張り詰めた空気。仄かに鼻を擽るのは、彼が日常的に焚いている香の残り香だろう。風流や雅の世界だ。
騒がしい蝉の声さえ、一枚扉を隔てたように遠い。
確かに、此処と比べれば外なんて、暑いわ五月蝿いわ埃っぽいわで、出たくなくなるだろう。
然し、狐目は理解出来ないとでも言いたげに、首を傾げた。
「居心地が良い?此の家が?」
「うん。だから出たがらないのかと思った。」
「私は、そうは思いませんが・・・・・・。」
単に反抗しているだけかと思えば、そうでもないらしい。本気で不思議がっている。
彼は元から少しズレた人間なので、こういうことは少なくない。そして、こうして悩み始めると長い。
慌てて話題を逸らした。
「まあ、それは一旦置いておこう。今はともかく、仕事内容の確認だ。」
狐目が組んだ腕を解き、此方を向く。大きく息を吸って吐くと、一瞬で仕事の顔になった。
「変わるねえ。見違える。化けるのは狐の十八番ってことかい?」
勿論、化けると言っても顔が変わる訳ではない。服も、髪も、何も変わらない。然し、確かに何かが変わるのだ。茶化さなければ、恐ろしくなるぐらいに。
そんな私の動揺等知りもしないだろう狐目は、小さく息を吐き、問い掛けた。
「私が幽霊になって出没している・・・でしたか。説明は出来ますか?」
「さーて、どうしたもんかな。情報が混乱して具茶混ぜだ。まだ原因も何が起こっているかも煙の中だよ。すまないね。でも兎に角、ありったけ話すとしようか。何か引っ掛かること、有ったら止めておくれよ。」
私の言葉にコクリ、と彼が頷く。
私は出されていた缶入りの烏龍茶を飲み、大きく深呼吸をした。
separator
先ず生徒達が噂するには、こうだ。
戦時中、我等が母校に一人の落語家を目指す少年が居た。
然し、彼は学徒出陣で戦地に赴き、帰らぬ人となってしまい、彼の夢は潰えた。
成仏出来ない彼は、未だに学校の、彼が何時も練習をしていた教室に居て、稽古をしているという。
separator
「さて、此処迄で気になったところは?」
一旦言葉を切り尋ねると、狐目はくすくすと笑いながら頷いた。
「有るみたいだね。」
「はい。何と言えば良いのか・・・こう、全体的に。」
そして、少し困ったような顔になり、首を傾げる。
「先ず、私は平成生まれです。学徒出陣どころか、親さえ戦争を知りません。それに・・・落語、でしたか。噺家を目指したことなんて一度も有りませんよ。その幽霊、本当に私なのですか?」
私は相槌を打つ代わりに、また烏龍茶を一口飲んで返事をする。
「生徒の中では、お前と認識している奴は居なかろうね。騒いでいるのは教室陣だ。」
狐目の狐に似た目が丸くなった。
「おや、まだ学校に残っている先生が居ましたか。」
「ああ。確か・・・五人。その中でも、特に私達と交流が有ったのが二人だ。」
「どなた?」
「大山と田辺。残りの三人は山本と藤木と沼尾って言うんだってさ。」
「其れはまた、懐かしい名前ですね。けれど、大山先生はもう定年を迎えているのでは?」
「延長して雇われてるらしい。今の三年生が卒業したら辞めるんだと。でも、あの感じじゃきっと辞めないな。」
「実際に行くときは、きちんと御挨拶しなければなりませんね。」
「ああ、そうすると良い。お前の幽霊を見て、大層驚いたみたいだったからね。」
沈痛そうな面持ちで、狐目の安否を案ずる大山の姿を思い出し、少しだけ可笑しみを感じた。
私が幾ら生きていると説明しても聞かなかったのだ。きっと、実際に生きているこいつが顔を見せたら、腰を抜かす。
「大山先生が私の幽霊を見たんですか。」
「ああ。新任の教師が最初に見て騒いだ後、見に行ったらしい。」
「見られた私はどんな反応を?」
「いや、それがな。目が合った瞬間、笑ってピースしながら消えた・・・と、言われた。」
狐目があからさまに顔を歪める。
「笑顔?ピース?・・・自分で言うのもなんですが、私らしくもない。」
「まぁ、そうは言ってもね。まさか嘘って訳でもないだろうから。大事な情報だ。一応話すよ。」
separator
最初にお前を見た教師・・・名前は、田口って言うんだかね。最初は、彼の話からにしようか。
彼がお前・・・・・・そうだね、偽狐目とでもしておこうか。偽狐目に会ったのは、放課後の自習室だ。ほら、四階の一番端。覚えてるかい?
廊下を歩いていると、彼処から何やら人の声が聞こえる。鍵が掛かっているのに、だよ。
近付いてみると、薄暗い教室の中に人影が見える。声もハッキリと聞こえる。どうやら落語の練習をしているらしい。
不審に思った田口が鍵を開けてみると、中には一人の男子が居た。彼は田口の方を向きハッとした表情になると・・・・・・
separator
其処まで話すと、私は大きく息を吐き出した。
「後は、幽霊お得意のヒュウドロンで姿を消したってさ。其れで、後日見に行った大山が同じ光景を見て、今度は消える時、照れたように笑いながらピースされたってことらしい。」
狐目は瞬きをしながら腕を組んだ。
「制服の上に着物を羽織ってたってさ。多分この着物の所為で生徒からは昭和の幽霊扱いなんだろうね。」
「・・・・・・。」
「文化祭が近い。皆残って準備をしているらしいからね。目撃されたのはその時だろう。」
「・・・・・・・・・。」
nextpage
狐目が、妙な顔をした。
どんな顔かと言われれば、妙な顔としか言い様の無い顔だった。嬉しそうでもあり、悲しそうでも、怒ったようでもある。強いて例えるならば、阿修羅像の全ての表情を一つの顔に押し込めたようだった。
わなわなと唇を震わせながら、言葉を紡いで行く。
「貴方、最初から分かっていましたね。」
私は平気で笑って見せる。
「おや、気付くのが遅くはないかい?」
彼は一瞬固まった後、何も言わずに頷いた。
どうして幽霊が狐目だと断定出来るのか、私は知っている。覚えている。
「学校に出たのは、高校二年生の私ですね。」
彼は落語家を目指したことなんて一度も無い。然し、皆の前で語ったことは一度だけ有る。
「いやあ、懐かしいね。」
天井の木目を見上げながらそう言うと、視界の端で彼が赤くなるのが見えた。
作者紺野
どうも。紺野です。
ちょっとした事情から三部作にします。連続で書かせて頂きますので、宜しくお願いします、
両者が両者の呼び方を統一していませんが、仕様です。