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私は今朝からサトシと大喧嘩をしている。
元はといえば彼が悪いのだ。
昨夜もいつものように一緒の布団で寝ていたのだが、寝相の悪いサトシに、私は何度も安眠を妨害されていた。
それはいつものことなので、私も目くじらをたてることはしなかったのだが。
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そのうち、彼の毛深い腕が私の顔に降ってきた。
「ふぎゃ!」
思わず変な声を上げてしまった。
寝ている最中、急に顔の上になにかが降ってきたら誰でも驚くだろう。鼻も強打した。
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それでも優しい私はサトシを起こさぬよう、顔の上に乗った彼の腕にそっと手をかけたのだ。そうしたら。
――バリバリバリ!
彼の伸びた爪が私の頬を引っ掻いた。
「ぎゃーーー!」
今度は比較的大声で叫んでしまった。隣近所に迷惑なほどに。
それなのに当のサトシは相変わらず夢の中の住人だ。レディの顔に傷をつけておいてこの男は。
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――ゆるすまじ…
傷モノにされた私は復讐者と化した。
そっと枕元に置いた携帯に手を伸ばすと液晶の明かりを点け、そのわずかな光の中、獲物の顔に狙いを定める。
サトシはだらしない顔をして寝ている。
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私は彼の顔に生えた、トレードマークたる長いひげを2本ずつ掴むと、器用に蝶々結びにしていく。はいワンセット、ワンセット、もひとつおまけにクルクルっと。――ふう。
そうしてやっと溜飲を下げた私は、彼から布団をむしり取ると再び眠りについたのだった。
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今朝目覚めると、私の顔には傷が増えていた(レディの顔に!)。
くわえて、サトシの姿は布団の中になかった。布団の中だけでなく、部屋中どこにも。
状況から、目覚めた彼が自分の顔の(ひげの)異常に気付き、次いでその下手人にも気づき、復讐の復讐を果たした挙句、姿を消したものと予想された。
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私はブリブリ怒りながらトーストをかじり、顔に絆創膏を貼って出社をする羽目になった。
それでも彼に食事を用意してから出かける度量の大きさに、私は私を褒めてあげたい。
これが冒頭申し上げた大喧嘩の第一幕である。
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さて、出社した私の顔に絆創膏が貼られているのを見るなり、同僚のKちゃんは
「DV?」
と、のたまってきた。
私にオトコがいないのを知っていて云うのだから、この子は。
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「サトシに引っかかれたの。朝から大喧嘩」
私は昨夜のサトシの暴挙と、私のささやかな復讐、今朝の彼の悪逆非道な報復をできるだけ正確にKちゃんに伝えた。
「アンタも悪い。いやアンタが悪い」
日本語とは難しいものだ。こちらの意図したことがうまく伝わらないコトガアル。
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「でも、朝部屋にいなかったんでしょ?どこ行っちゃったのよ」
「ああ、窓がちょっと開いてから。そこからスルッと出てっちゃったんだと思う。プチ家出よ。よくあること」
もうお分かりと思うがサトシはうちの飼い猫だ。わかるよね。人間が窓から出ていったら嫌だわ。
サトシはキジトラのオス猫で、うちに来てから2年になる。ピンと立った耳がかわいらしい。
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前の彼氏と別れた直後、寂しさから飼い始めたのがサトシだった(サトシは前の彼氏の名前だ)。
うちに来た当初は警戒心のかたまりで、なかなか私に懐かなかったが、今や寝床に限らず部屋の中を我が物顔で闊歩している。私のことは飼い主というよりも、巣の同居人という意識なのかもしれない。
だから、今日みたいに私の顔を平然と引っ掻いたりするのだ。まったく、「親しき仲にも礼儀あり」という言葉を知らないのだろうか。知らないか。
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その日は日中、顔に貼った絆創膏を色々な人に不審に思われながら仕事をし、夜は金曜日ということもあってKちゃんと呑みにいった。
仕事の愚痴に独り身のつらさ、「猫さえいればいい」という私の最近の持論を酔いにまかせて滔々とKちゃんに語った後、終電近くになって家路についた。
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2月の深夜の空気は冷え切っていた。
最寄駅から部屋までの20分弱の帰り道も大層つらく感じられた。
こういう寒いときは自分のセミロングの髪型が地味にありがたい。耳や首筋が隠れているだけでも、感じる寒さは全然違うものだ。
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途中、コンビニに立ち寄って明日の朝食を買っておくことにする。
ついでに、ペットフードコーナーで少しだけグレードの高い猫缶を手に取りカゴに入れる。
サトシが反省していたら、これを食べさせてやらないこともない。
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「ただいま~」
部屋に帰りついてサトシの姿を探したが、彼の姿はなかった。
朝用意したエサも手つかずの状態だった。一体どこをほっつき歩いているのやら。
私は手打ちにしてやる気でいたのに、たかだかひげを蝶々結びにした位で、いつまで怒っているのだろう。
私は化粧を落としてからシャワーを浴び、こたつに潜り込んだ。
そして借りていた恋愛ドラマのDVDをぼんやり見ているうちに、いつの間にか眠り込んでしまった。
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――ニャアァーーオゥー……
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――チュンチュン
――ブロロロロロ
――コツコツ
――ワンワン!
――ガラガラ、パタン
――ガチャ、バタン!
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なんだろう、音が聞こえる。
朝の音だ。
世の中が動き始めたことを告げる朝の音。
でも、いつもよりも騒がしい。多くの音が耳に届いている。私はまだ眠いのに。土曜の朝なんだから、好きなだけ惰眠を貪らせてほしい。
そう思って、私は耳を塞ごうとした。
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――スカっ
耳元に当てたはずの手が滑った。そこにあるべきものを探り当て損ねたのだ。
――あれ?
寝ぼけていることを自覚していた私は、あまり気にせず手を顔の横で右往左往させる。しかし。
なかった。耳の感触が、手に伝わってこなかった。
――え?
さすがに変に思って、意識して手を顔の横に持ってくる。
――ない。
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私はガバっとこたつから上半身を起こすと、セミロングの髪をかき上げて耳を探す。それでもやはり。
「ないっ!耳がないっ!」
ついに降参、私の口から驚きの声が上がった。
耳がもともとあった場所は、ただの凹凸のない肌の感触になっている。その感触に、思わず血の気が引いた。
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しかし不思議なことは、世間の音がいつも以上に大きく聞こえていることだ。耳がないのに。
いや、音は耳から入ってきている。ただ、その位置がいつもよりも高いのだ。
私は音をとらえている、その箇所に恐る恐る手を伸ばした。頭に、上に。
――フニ
ナニカを、掴んだ。
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しかして、慌てて洗面所に駆け込み、覗いた鏡に映っていたのは、
世にも奇妙――、
いや、痛々し――、
いや、可愛らしい、
ネコ耳少女――、
いや、ネコ耳三十路――、
いや、ネコ耳レディだった!
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「っ……!っっ……‼」
私は口をパクパクさせながら、鏡を頼りに頭の上に付いている、どう見ても猫の耳に見えるものに手を伸ばした。
――フニ。フニフニ。
手にはネコ耳の感触、ネコ耳にも手の感触。
――ああ、私の体にネコ耳が付いている。
呆然としながらも、私はこの事態を認めるしか他になかった。
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――ワタシはネコ耳人間になってしまいました。お父さんお母さんゴメンナサイ。
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――ピンポーン
午後になり、近所に住んでいるKちゃんが訪ねてきた。まあ私が呼んだのだが。
ドアを開けて私の顔を見るなり、Kちゃんが一言。
「OH……」
痛い痛しいものを見る目で見られてしまった。
ぐっと堪えて私は事情を説明する。朝起きたらこうなっていたこと。土日のうちになんとか解決したいということ。
週末のうちは買い物に行くにも帽子でも被れば誤魔化せるだろうが、週明けからは仕事があるのだ。そうはいかない。
つまり月曜までにこのネコ耳をなんとかできなければ、世にも珍しいネコ耳OLの出来上がりだ。恐ろしい。
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なにか妙案はないかとKちゃんに尋ねたところ、
「とりあえず病院いこっか」
と軽い口調で云ってきた。
「嫌だよ!こんなの見せたらなんかのミュータントだ!とか云われて解剖されちゃうよ!」
私が恐れおののいていると、Kちゃんは知り合いの老医師がいる病院を紹介してくれると云う。
「まあ、そういうことにも慣れてる人だから。大丈夫だよ」
とのこと。
こういうことに慣れてる医者ってどんな医者だ。顔に切り傷のある闇医者の類だろうか。
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Kちゃんに付き添われ、病院を訪れた。
順番で名前を呼ばれ診察室に入ると不機嫌そうな顔をした白衣の老人が座っていた。
私の後ろにKちゃんの姿を認めると、ハアと小さくため息をつき、私に座るよう促した。
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私が思い切って帽子を取り、ネコ耳を露わにしても、老医師はさして驚いた様子を見せなかった。
そして「一応、レントゲンとってみるか」と云い、病院内にあるレントゲン撮影室に行くよう私に指示を出した。
若い男性のレントゲン技師は実に短時間で撮影を終え、元の診察室の待合室で待つよう告げた。
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しばらく待つと名前を呼ばれ、診察室に入るようアナウンスがあった。
ドアを開け中に入ると、机の前に貼り出したレントゲン写真をじっと見つめていた老医師はちらりと私の方を見、「座りなさい」と言ってまた写真に視線を戻した。
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彼の表情に不安を覚えた私は「どうでしたか」と問うたが、老医師はそれには答えず、逆に「あんた猫飼ってるか?」と私に問いかけてきた。
「はい」と答えると、「そんなことだろうと思った」と言って、ここ最近変わったことはないかと問うてきた。
私はサトシのこと、週末のケンカのこと、ネコ耳が現れた下りを彼に話した。
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老医師は私に向かって云った。
「ありえないくらい、この猫の耳はアンタの頭にくっついている。表面的な問題じゃない。聴覚の構造自体、作り替わってしまっていると云っていい。もともとの人間の耳について行方知れずだしな。
聞けばアンタの飼い猫はキジトラで、この耳のガラもキジトラのものだ。
それで聞くがね。アンタはこの事態をどんな風に説明する?想像でいいんだ。いずれ非科学的なことに違いはないんだから。あてずっぽうでもいいから、アンタの考えを云ってごらん」
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「まあ…その…、サトシが怒って、私になんかその、呪い的なものを……」
私はしどろもどろになって答えた。
老医師はハアとため息をついてから
「じゃあ、アンタに出せる薬は二つだ」
と云った。
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――薬?こんなおかしな事態に薬なんてあるのか?
そう思っていると、
「まずひとつ目。『親しき仲にも礼儀あり』」
それは私がサトシに対して思ったことだ。言葉が、薬か。
「猫にとってひげは大事なもんだ。それをこともあろうに蝶々結びってのは、アンタその猫に甘え過ぎだ。
動物と人間であっても、腹いせの上の行動であろうとも、同居人なら相手の嫌がることはしちゃ駄目だ」
弁解の余地もない。
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「そしてふたつ目。『喧嘩両成敗』。アンタはその猫の報復だと思っているみたいだが、ワシは違うと思う。
たぶんアンタと猫以外の第三者、そうだな、カミサマあたりがその喧嘩、見てたんじゃないのか。
だからアンタは猫の耳になったんだ。そしてアンタの耳はどっかにいっちまった」
こっちはよくわからなかった。
「まあ、お互い反省する頃合いだろう。猫の方でもワシみたいな年寄猫に説教食らってる頃さ。帰ってきたら、お互いにちゃんとするんだな」
老医師はそう云った。
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Kちゃんと別れ、部屋に帰りついた頃には冬の日はすでに暮れていた。
サトシはまだ帰ってきていなかった。
私は昨日買ったグレードの高い猫缶を用意して帰りを待ったが、遅くなっても彼は戻ってこなかった。
夜更かしをしていたところで事態は好転しなさそうだ。
私は風呂に入って寝床に就いた。精神的に疲れたのだろうか、睡魔はすぐに襲ってきた。
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――ニャアァーーオゥー……
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鳴声がした気がして目が覚めた。
部屋の中は真っ暗だ。
しかし、窓の外からは皓皓とした月明かりが差し込んでいた。
その青白い光の中に、小さな影があった。
「サトシ……?」
それはサトシだった。ちらりと私の方を見ると、バツが悪そうに視線をそらせている。
その顔、いや、その耳を見て、私は昼間老医師が云っていた「両成敗」の意味を理解した。
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彼の頭には耳が、猫のではなく、人間の耳が付いていた。
失くしていた私の耳だ。
私がキュートなネコ耳レディになっていた一方で、
サトシは怪奇・人間耳猫になっていたわけだ。
まさに喧嘩両成敗。サトシが悪かったわけじゃなかったんだね。
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窓から差し込む月光の下、一人と一匹は静かに近づき、互いに頭を下げた。
「ごめんなさい」「ニャー」
作者綿貫一
ちなみに「ありえにゃい1」は消しちゃったのでありません。