私が、昔住んでいた家の大家さんは、
お婆さんでした。
おばあさんに身寄りはなく、どのような経緯かはわかりませんが、老人ホームに入所していました。
そんなお婆さんを、私達家族は年に数回、外泊許可を取り、家で3日ほど過ごしてもらっていました。
私達は、血のつながりはありませんでしたが、
『お婆ちゃんが帰ってくる。』と言って、
とても楽しみにしていました。
お婆ちゃんが居てる、というだけの事で、私達家族も一緒に変わりなく生活をするのですが、
お婆さんはいつも、我が家に来る時には、
『お邪魔します。』と言いました。
『おばあちゃんのお家なのに、ただいま、でしょう?』とみんなが笑って言うと、
『何をおっしゃいまして…。私なんかを、大家といえど、家に呼んでくれるのですから、ありがたい事、ありがたい事…。』と、
手を擦り合わせ、私達を拝んでいました。
小さなボストンバッグに、綺麗に畳んで服を入れ、
私と妹の為にとお菓子や手作りのポーチやら巾着袋を入れ、歯磨き粉、歯ブラシ、湯のみ、そして…、お茶碗を持って帰ってきます。
母が、
『お婆ちゃん、お茶碗も歯ブラシも、コップだってちゃんと置いてあるんですよ?重たいから、持ってこなくて良いのよ?』と言っても、
『いいえ、ご厄介になるのですから、せめて、これだけでも持って来なければ。ありがたい事。ありがたい事。』
そう言い、毎回、ギュッと荷物を詰めて、帰ってくるのでした。
お婆ちゃんは、私が小学生の時に、すでにかなりのご高齢でした。
背中が丸く曲がっているので、元々小柄な体を、さらにクルッと丸めたような印象です。
いつも、長く伸ばした綺麗な白髪を、自分でクルクルと巻き、かんざしで頭のてっぺんに留めていました。
顔は、シワが多く、しかし、そのシワが一層、お婆ちゃんの優しさを表しているようにも見えて、小さな目も、瞼が垂れて隠れてしまいそうになっていましたが、それすらが
何というか、『これぞ、お婆ちゃん!』と言うような、
流れる時間がとても穏やかな、ゆっくりしたものに感じられるような人でした。
そんなお婆ちゃんが我が家に帰ってきた、ある夕方…。
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お婆ちゃんが、父に、納屋に連れて行ってくれと言い出しました。
納屋には、お婆ちゃんの家財道具がしまわれていました。
父がお婆ちゃんと納屋に行くのに、私もついていく事にしました。
納屋は、普段、開けられる事なく、たまに母が、
風を通すと言って、お婆ちゃんの服を陰干ししたり、
収納箱の蓋を開け、空気を通しているくらいでした。
お婆ちゃんは、納屋に入ると、どこに何があるのか分かっているようで、
『この箱に入れたんだよねぇ〜。』と、
蓋をポンポンとします。
それは、見るからに古い、かなり昔のものだと、一見して分かる木で出来た収納箱でした。
重たいから、と父が変わりに蓋を開けると、
お婆ちゃんは、
『ありがとうございます。後は自分で探せるから。』
と言いました。
父が、
『この箱にあるの?違う箱だったら、またフタ開けないといけないから。探しな?待ってるから。』と言いましたが、
『いいえ、この箱なんです。
寒いから、お部屋にお戻りになって?私もすぐに戻りますから。』と言います。
私と父は、顔を見合わせましたが、
納屋の中のものは、お婆ちゃんの物ですので、
何か私達に見て欲しくないものもあるのかなと、
『フタは重いから、持ったらダメだよ?腰、悪くするよ?
後で、ちゃんと閉めに来るから、フタだけは持たないでね?』と父が言い、
部屋に戻る事にしました。
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寒い時期だったのを覚えています。
中々、納屋から戻らないお婆ちゃん…。
母は、
戻ろうと連れに行くと、また気を使うからと、
小さな火鉢に火を起こし、私に持っていくように言いました。
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納屋に向かって歩いていく私に…、
何やら小さな声が聞こえてきました。
ポソポソ…、ポソポソ…、
納屋の前に着くと、お婆ちゃんの声だとはっきりわかります。
お婆ちゃん、やっぱり、探し物わからなくて、どこだ、どこだと言ってるのかな…?
そう思いながら私は、納屋の前で、
『お婆ちゃん?寒いでしょ?火鉢持ってきたよ?』と
声を掛け、火鉢を持って入って行きました。
お婆ちゃんは、こちらに、小さな背中を丸めて座り込んでいました。
私に気づいていないのか、ポソポソ…、ポソポソ…、
まだ、何かつぶやいています。
何かを探しているのではなく、
座り込んで、
口元に、両手をやり、
ポソ…、ポソポソ…、
私はとっさに、お婆ちゃんがどこか具合が悪くなったのかと思いました。
80歳を超えているお婆ちゃんが、どこかしんどくなって、おかしくなったかと思ったのです。
バッと駆け寄り、
『お婆ちゃん?!』
と言いながら、肩をつかみ、お婆ちゃんの前に回りこみました。
しかし、お婆ちゃんは、
突然、肩を掴まれた事に驚くそぶりもなく、
まだ、ポソポソ…とつぶやき、
しばらくあって、フッと私の方に目をやり、
『…にゃにゃみちゃん、どうしましたか?』と、
いつもの笑顔で聞いてきました。
肩を掴んで、お婆ちゃんの前に回り込んでから、お婆ちゃんが私に話しかけるまでの間、
私には、お婆ちゃんの動きがまるで、スローモーションのように思えていました。
ポソポソ…と話す、口の動きも、瞬きも…、
私の時間の流れより、とても、遅く感じられたのです。
私は、妙な時間差のようなものを感じ、そしてなぜか、
今度は私が、ゆっくりした時間の中にいるような感覚に陥りました。
端から見ると、私はしばらく、お婆ちゃんを見つめているような状態だったと思います。
『にゃにゃみちゃん?迎えに来てくれたのですか?』と、
お婆ちゃんが言葉をかけてくれて、
私は、ハッとし、
『…ううん、お母さんが火鉢を用意したから…。』と言うと、
お婆ちゃんは、
『あらまぁ、ありがたい事、ありがたい事。
重たいのに、ごめんなさいね?熱くはなかった?嬉しいわ。いい子ねぇ〜、いい子ね〜。』と、
頭を撫でてくれました。
撫でてくれる手が、とても冷たくて、
私は、戸口に置いたままにしていた火鉢を、慌てて取りに行き、
お婆ちゃんの手を火に当て、自分の手で覆い、さすってあげました。
その時に、
お婆ちゃんが両手で包むように…、
何かを握っている事に気付きました。
『お婆ちゃん?何持っているの?』と、
私は聞きました。
お婆ちゃんは、ん〜?と言いながら、
小さな目で、私を見てきました。
時間がまた、スローモーションのようになる感覚がして、
お婆ちゃんは、ゆっくり、手を開きました。
意識して、ゆっくり開く感じではなく、
目の前の動きが、本当にゆっくり動く…、
貧血の時、頭がクラクラするような、目の回る感じ、そんな感覚にも近いかもしれません。
お婆ちゃんの手のひらを見ようと思う私の目の動きも、
とても、ゆっくり、ゆっくり、視線が動く感覚…。
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手のひらには、
縦横3センチ程の、小さな正方形の箱がありました。
とても、小さいのに、綺麗に装飾された、黒塗りに動物が描かれているものでした。
(鳥獣戯画に描かれているウサギに似ていました。)
『すごい、かわいいね。箱なの?』
そう聞く私の声は、普通なのですが、
私の口の動きは、とてもゆっくりに感じられます。
私は、また、お婆ちゃんの方に、ゆっくりな感覚の中、目を戻しました。
お婆ちゃんが声を発して、
『これは、箱だよ。』と
言った瞬間、
スローモーションのようなあの感覚が無くなり、
なぜか、耳の中がとても静かに感じました。
カラオケ屋さんから出てきた時、外がとてもとても静かに感じるそれに似ていて、
『あー、音が大きく聞こえてたら、頭がクラクラしたんだ。』と、
妙に納得しました。
『何の箱なの?』と聞く私に、
お婆ちゃんは、
『これはね、蓋のない箱なんですよ。開けられないの。』と言います。
『箱なのに、開けられないの?
じゃあ、何も入れられないね?』
そう言うと、お婆ちゃんは、
『最初に、入れてから、箱を作るんですよ。』
そう言って、着物の裾に、その箱をしまい込みました。
もう少し、その箱の柄を見たかった私は、
『よく見せて?』と頼んだのですが、
お婆ちゃんは優しい笑顔で、
『マガいからダメですよ。お部屋に戻りましょう。
にゃにゃみちゃんが風邪を引いてしまいますよ。』と、
私に手を出してきました。
私は、お婆ちゃんの…、少し暖かくなった手を握って、
納屋を後にしました…。
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次の日、お婆ちゃんは老人ホームに戻ってしまう日だったので、私は学校から戻ると、父と一緒にお婆ちゃんを車で送って行きました。
家を出る時、お婆ちゃんは、
『どうも、長い間、お世話になりまして、ありがとうございました。
私なんかを、こんなに良くして頂いて…。
本当に、ありがとうございました。』
そう言って、頭を下げていました。
ばあちゃんは、
『また、お話ししましょうねぇ。春になったらまた、帰ってくるでしょ?』と背中をさすり、
母も、
『今度帰ってくる時は、重たいもの、持って来ないでいいからね?全部、ここにあるんだから。お婆ちゃんのお家なんだからね?』と言いながら、見送っていました。
ホームにつき、部屋まで送り届け、
『また、帰ってきてね?』という私に、
お婆ちゃんは、
『また、会いましょうね。いい子ね。本当にありがとうございました。』と、
父には、
『こんなにしてくれて、嬉しかったです。
本当にありがとうございます。
お世話様でございました。』
と言い、ベッドの上に、きちんと正座して、
手をついて頭を下げていました。
次の年が来て、春になったらまた、
帰ってくるだろうと思っていたお婆ちゃんは、
暖かくなる少し前に、体調を崩し、そのまま病院に入院、
梅雨が明けた頃…、永眠しました。
私達は、お葬儀に参列し、お婆ちゃんとの別れに悲しみつつも、
ありがとうと見送らせてもらいました。
そして、ふと、
あの箱のことを、思い出したのです…。
その瞬間、また少し頭がクラッとし、
辺りがスローモーションのような動きになりかけたのですが、
『お婆ちゃん、あの箱…、持っていったんだなぁ〜。』と
漠然とそう思った瞬間に、
元に戻り、また耳の中が、
騒々しい場所から出てきた時のように、静かになりました。
あの箱の中に、お婆ちゃんは一体、何を入れていたのでしょうか?
開けられない箱にしまい込み、
長い間、納屋にしまいこんでいたのに、
何処にしまっているのか、ちゃんと覚えていて、
きっと、一緒に持っていったんだろうあの箱…。
優しい、大らかお婆ちゃんが言った…、
『マガいからダメですよ。』
あの言葉が、マガい箱の事が、
未だに忘れられずにいます…。
作者にゃにゃみ
後にばあちゃんに話したところ、
『あー、そら、クラクラしただろ。』と、
少し渋い顔をして、
『早く、それのことは忘れなさい。』と言われました。
でも、未だに忘れられずにいる…、そんなお話です。