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12月29日午後10時00分、僕の乗った寝台特急サンライズは、東京駅の9番ホームを発車した。
仕事の関係で、東京で一人暮らしをしている僕は、盆や暮れ、実家のある岡山に帰省する際、よくこの夜行列車を利用する。
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岡山に到着するのは翌朝6時27分。約8時間半の鉄道旅行だ。
飛行機や新幹線よりも遅い時刻に東京を出発して、どんな交通手段よりも早い時刻に岡山に着ける。そして、その間ゆっくり寝ていられる。
時間を有効に使うことができる、そこが夜行列車の長所である。
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そして何より、たった一晩でも旅行気分を満喫できるところが、僕は気に入っていた。
東京駅のホームに、クリーム色と臙脂(えんじ)色のツートンカラーの車体が入ってくる姿を見ると、僕の胸はいまでも、学生時代のようにわくわくと高まってしまう。
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サンライズの客車は2階建てになっている。
僕は、B寝台シングルというクラスの、2階の部屋を手配した。
このタイプは鍵のかかる一人用の個室で、部屋のスペースのほぼすべてがベッドで占められている。
部屋自体は狭いが、大きな窓が天井までカーブを描くように作られていて、展望は最高だ。
2階の方が、より見晴らしが良い。
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列車が動き始めると、東京駅で買っておいた駅弁と缶ビールを取り出す。
これも鉄道旅行の醍醐味のひとつだ。このためにわざわざ夕食を遅らせていたのだ。
腹ごしらえを済ませて人心地つくと、僕は部屋の明かりを消した。
そしてベッドに寝転がったまま、ぼんやりと車窓を眺めた。
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繁華街のネオン。
住宅地の家々の明かり。
真っ暗な田畑。
河川に架かる鉄橋。
そして、終電を過ぎて無人になった駅のホーム。
さまざまな夜の景色が車窓を通り過ぎていく。
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sound:38
部屋の中は暖房が効いて暖かく、かすかな車体の揺れが眠気を誘う。
備え付けのオーディオからは、ゆるやかな洋楽が流れていた。曲名はわからない。
夜が、静かに深まっていく。
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………
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………
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………
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午前1時半を過ぎた。愛知県に入った頃だ。
間もなくこの列車は、豊橋駅に運転停車する。
運転停車とは客の乗降なしで列車が駅に停車することだ。乗務員の交代や荷物の積み下ろしなどが行われる。
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暗闇の向こうから駅舎の明かりが近付いてくる。
それとともに、列車はゆるやかに速度を落としていった。
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不意に、開かないはずの窓から、外の冷気が吹き込んできたように感じた。
背筋にゾクリと寒気が走ったからだ。
それは悪寒だった。
sound:5
オーディオの音楽に、ザリザリと耳障りなノイズが混じり始める。
厭な感じがした。
暖かで静かで穏やかだった個室の空気が、暗くて冷たいものに侵されていく。
その感覚は駅に近付くにつれ、いや増していった。
空気がネットリと重くなって、部屋の明かりをつけるべき腕さえ動かない。
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僕が道を歩いていたのなら、立ち止まるなり引き返すなりできただろうし、そうしただろう。
だが今、列車はただ実直に、レールに沿って僕を駅へと運んでいった。
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進行方向を恐る恐る覗く。
無人のはずのホーム。
無機的な電灯の明かるさの下、
女が、
いや、
女のようなものが立っていた。
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年の瀬のしんしんと冷え込むホームに、夏物のヒラヒラした薄いワンピースを着て、裾(すそ)や袖(そで)から蟲のように細く長い手足を生やし、
ゆらり。
ホームに立っていた。
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2メートル……、いや2メートル50センチ……?
猫背でありながら、駅舎の天井に頭が届くほど、その背は高かった。
顔は、長い髪の毛と陰に覆われて表情を伺うことができない。
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厭なものだった。
近づきたくなかった。
しかし無情にも、列車はゆるゆると速度を落とし、ついに僕の個室が女の位置に横付けされたところでピタリと停まった。
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ちょうど、窓の外に女の顔があった。
二階のこの部屋の窓に顔が映るとは、やはり高さが尋常ではない。異常だ。
うつむいていて、表情はわからない。
オーディオはすでにノイズにしか発しなくなっている。
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僕は、ベッドの上にへたり込んだまま、後ろ手に背後のドアのノブを握って、廊下に逃げ出そうとしていた。
しかし、ドアは外から鍵をかけられたように開かない。
逃げ場のない密室の中、厚いガラスを隔てて、1メートルも離れていないところに、女の顔がある。
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厭だ。
女の顔が、幽霊のようにガラスを透けて部屋の中に、なんてことはなかった。
ただ黙って、向かい合っている。
それがたまらなく厭だった。
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不意に列車が揺れた。
どうやら停車を終えて、動き出したらしい。
女の姿が徐々に窓の外に移動していく。
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助かった。
身体から張り詰めていた力が抜けていく。
と、
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shake
――バン!
女の姿が見えなくなった直後、窓ガラスに何かがぶつかった大きな音がした。
僕は反射的に身をちぢこませる。
ゆっくり、音のした方を見る。
窓ガラスの上部、天井に向かってカーブを描いている部分に、白い跡が付いていた。
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手のひらの跡だった。
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………
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………
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………
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sound:38
いつの間にか、オーディオの音は元に戻っていた。
ドアも何事もなかったかのように開いた。
僕は手形が残った窓のある個室に、朝までいることはどうしてもできなくて、ミニサロンという展望車に移動した。
この車両は2階建てにはなっていなくて、窓の高さは他の普通の電車と変わらない。
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誰か、他の乗客がいてくれればよかったのだが、自分以外利用者はいなかった。
窓の前にカウンター式の席があり、そこに腰を下ろして僕は震えていた。
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厭なものを視てしまった。
あれは、自分しか視ていなかったのだろうか。
同じように部屋から飛び出してきた人間がいない以上、そうなのかもしれない。
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目の錯覚ということにしたかったが、部屋を出る際に振り返った窓ガラスには、やはり手形が残っていた。
列車の外側から、二階のあの部屋の窓ガラスに向かって、
――バン!
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僕は目を閉じるのが恐ろしく、ただ流れる夜景を眺めていた。
窓ガラスに映った自分の姿。
その背後に、背が異常に高い女が、腰を折って窮屈そうに立っている、
そんな想像に、僕は震えた。
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夜が長かった。
朝は来るのか。この列車は岡山に着くのか。
そんなことを、とりとめもなく思った。
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………
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………
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………
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気が付くと、時刻は午前3時を回っていた。
いつの間に1時間半も時間が過ぎたのだろう。
感覚がおかしい。
時間が、濁った池の水の中に棲むアメーバのように、気味悪く伸びたり縮んだりしている。
やはり、この夜はおかしい。
いや、おかしいのは自分の方なのか。
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間もなく、列車は滋賀県米原に運転停車する。
列車がゆっくりと速度を落とす。
駅の明かりが近づいてくる。
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ああ、この夜行列車のいいところは、東京を飛行機や新幹線より遅い時間に出発して、どんな交通手段よりも早い時刻に着けるところだ。
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ミニサロンの照明がパチパチとまばたきをする。
開かないはずの窓から、冷風が吹き込んできたかのような寒気。
悪寒。
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僕があれを見たのは1時間半前、愛知県だ。
今は滋賀県。
列車は、ゆうに100キロは走っている。
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だから、いるわけがない。
いては、いけない。
ゆっくりと無人のホームに滑り込む列車。
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僕の乗る展望車の窓の外に、
細い、
長い、
女の脚がフレームインしてくる。
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女の脚がちょうど正面に来たところで、列車はピタリと停車した。
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ああーー、厭だ。
作者綿貫一
こんな噺を。