(※以下に出てくる人や犬の名前は全て仮名です)
世の中には『偶然』なのか『必然』なのか判断のつかないことがある。
俺は小学生のころ、家族とよく親父の田舎へ遊びにいっていた。
絹織物なんかで有名なところで、かなり自然豊かな土地だ。
長い連休ときは祖父母の家へ俺だけ残って数日泊まったりもしていた。
話は俺が小5の春休みのことで、このときは2つ下の妹も一緒に残る予定でいた。
妹はこれが初めてのお泊りだったというのもあり、前日からえらく興奮してた。
そのせいでえらく早起きしてきて、寝不足のくせに向かう車中でもやたらテンション高かったのを覚えている。
祖父母の家に着いてあいさつが済むと、
「タケちゃんとこ行ってくる!」
そういって妹はとびだしていった。
地元で遊ぶメンツは毎度決まっていて、俺と同級のタケってやつの家にまず行ってから、他の人を誘うって流れになっていた。
でもしばらくして妹は一人で戻ってきた。
「タケいなかった?」って俺が訊くと、
「うん、なんかねぇ、ヘンな人いたから」
「えっ、どんな人?」
「知らない人。お庭にいた」
妹は人見知りなところがあり、知らない人を「ヘンな人」といったりする。
なのでお客さんでも来ていたんだろうと、今度は俺も一緒に訪ねていった。
呼び鈴を押しても反応がなく、たしかにタケの家は留守のようだった。
生垣の外から庭も覗いたがやはり誰もいない。
だれもいないじゃんと妹にいうと、
「さっきはいた。なんか細くて背の高い女の人」
「え、どんな顔の?」
「だから知らない。見たときはあっち向いてたから。そんでおうちに入っちゃった。なんかねぇ足が痛そうだった」
タケのおばさんはこの時間は働きに出ているはずで、しかもずんぐりとした人だから見間違えるはずがない。
俺はやはり妹のカン違いだと思った。
とにかく仕方ないので、俺は妹と、祖父母宅で飼っている犬のクロを連れ、家から10分ほど歩いたとこにある神社にいった。
誰もいなかったが、大体遊ぶときは皆ここに集まるので、少し待つことにした。
妹がリュックに入れてきたラムネやサキイカをつまんだりして時間をつぶしていると、わりとすぐタケたちがやってきた。
「来るっていうから、先に準備しとこうと思ってさぁ」
日焼けした笑顔でタケはそう言った。
やはりいつものメンツである男勝りのルミと、一つ下のソウちゃんも一緒だ。
三人は釣竿とバケツを持っていて、俺と妹の分も貸してくれると、
「最近は釣りがブームなんだよ。この先ですげー釣れるとこ見つけてさ」
と神社の裏手のほうへ入っていった。
それで俺は「あっ」て思い出し、
「え、でもそっちって……”アシキリ”じゃない?」と訊いた。
それは”アシキリ”とか”アシキリ道”とか言われている、神社の裏てからずっといった林から入る山道のことで、
「山は必ず表の道から入れ。アシキリには絶対に近づくな」と祖父母からもよく注意されていたのだ。
「あーそうだけど大丈夫、ギリセーフの場所だから」
タケはそう言い、俺たちはとりあえず後についていった。
目的地までは思っていた以上にかかって、また10分くらい歩いた。
そして着いた場所は、ほんとに山の斜面のすぐ下ってとこにある野池だった。
二十畳ほどの楕円がふたつ並んだようなひょうたん池で、ギンブナやタナゴが釣れるという。
池の縁にある岩場に陣取って皆で釣り糸をたらした。
でも妹は、最初から釣りにノリ気じゃなかったらしくすぐやめてしまった。
そして日当たりのいい、黄色い花の咲いた近くの野原で、またお菓子をつまんだり、クロと転げまわってはしゃいだりし始めた。
たしかに魚はよく釣れ、どれくらい時間が経ったかわからなくなったころ、
「なんかさぁ……変な声きこえた?」
急に背後から声をかけられ俺はビクッとした。
振り返ると妹がきていたので、「知らん」と返すと、
「なんかねえ女の人がいるみたい。だって女の人が笑ってたから」
なんだそりゃ……と思いながら、妹がさっきいた黄色い花のほうをみると、クロが繁みのほうをむいていた。
近くの枝に綱が結ばれているので動くことはなかったが、低い声でうなっていて、やがて激しく吠え始めたので俺はびっくりした。
普段はとてもおとなしいので、クロのそんな様子をみるのは初めてだったからだ。
俺は竿をおいて眼を凝らしたが、特にあやしいものは見つからない。
異変を察したタケたちも「どうした?」とよってきたが、
「え、大丈夫?」とルミが妹に声をかけたので、みると妹はその場にくたっとしゃがみこんでしまっている。
なんだかボーっとした表情で、力なくうなだれていた。
(寝不足ではしゃいだから疲れたんだ――)と俺は思いかけたが、妹の足をみてぞっとした。
短パンから出た両脚が、異様なまでに赤く変色している。
どうしたのかと訊いても「知らない」と首をふるばかりで、額に手をあてると熱っぽい。
とにかく一度引き上げようということになり、俺たちは荷物をまとめ始めた。
すると……
「ききききききききききききききききききききききききききき」
甲高い声が横の林のほうから聴こえ、俺たちはその場に固まってしまった。
「……ね、いるでしょ。女の人、笑ってるの」
妹がぼうっとした顔をあげて言った。
俺たちは思わず顔を見合わせ、クロが狂ったように吠えている方へ改めて目を凝らしたが、やはり姿はみえない。
妹のリュックを適当に肩にかついで持ってやり、俺たちはその場から離れた。
帰る間も時々クロは立ち止まり、後ろに向かって吠えていた。
「さっきのってなんかの動物だよな?」俺が不安になって訊くと、
「聴いたことない」とタケたちも落ち着かない表情で首をふった。
神社まで戻るともう昼を回っていたので、とりあえず昼飯に帰ることになった。
タケとは方向が同じなので途中まで一緒に帰り、先にタケの家に着いたのでそこで別れたが、しかし少し行ってからすぐに大声で呼び止められた。
サキチさんというタケのおじいさんが追ってきたかと思うと、
「おまえたちもあの場所に行ったのか!?」
って怖い顔で訊かれた。
家でバケツの魚の事を訊かれたら、別の場所で釣ったと言う約束にはなっていた。
しかしサキチさんの後ろにいるタケが「スマン」というような表情をしていたので、俺は察して正直にうなずいた。
「来い!」とサキチさんに腕をつかまれたので説教が始まるのだと思った。
なので一応具合の悪い妹は帰してもらおうと、熱っぽいことや脚のことを伝えた。
するとサキチさんからみるみる怒りが失せていき、子供でもはっきりわかるくらい動揺した表情になると、
「いや……とりあえず二人とも、タケと一緒に部屋で待ってなさい。いいか、絶対にこの子をひとりにしちゃいかんよ」
と、急に穏やかに言われた。
俺たちはタケの家にいき、庭の物干し台にクロをつながせてもらうと、いつものように玄関ではなく縁側からあがりこんだ。
そこからあがるとすぐ左にタケの部屋があるからで、靴を脱いでいると、サキチさんがどこかへ電話している声が聴こえてきた。
タケの部屋へ入るとサキチさんも来て、俺たちに一枚ずつ長い御札を渡し、すぐもどると言って出かけて行った。
「あーあ……」
妹がリュックを広げて声をもらした。
覗いてみると、俺がひっくり返るのも気にせず乱暴にかついできたため、リュックにあったサキイカ等の菓子がかなりこぼれてしまっていたらしい。
「菓子くらいガマンしろよ……」
そう言いつつも皆腹が減っていたので、タケが菓子とジュースを持ってきてくれると、飲み食いしながら改めてあのアシキリについて俺は訊ねた。
「なんか昔、山で悪さした人が使った道なんだって。でも捕まったから、その人はまた逃げないように足を切り落とされたとかそんな感じ」
「逃げるって、どこから?」
「悪いことしたんだから牢屋とかじゃない。何人か逃げて、全員切られたんだよ」
「なんでそんなとこで釣りなんかしたんだよ」
「いやあ、”アシキリ”ってのは山道のことだからさー、その前のとこなら絶対大丈夫なはずだったんだよな。だからもう何回もいってるし」
そんな話をしているうち、俺はトイレに行きたくなった。
トイレは部屋を出て、日本家屋の廊下、台所を抜けた玄関近くにある。
用を済ませ、すぐに戻ろうとしたとき、突然庭でクロが吠え始めた。
さっきと同じでやはり異常に興奮している。
台所を抜けて戻りつつ、縁側のガラス戸越しに庭をみると、クロは激しく動きながらも明らかにこっちの方に向かって吠えていた。
「え?」と思った瞬間、音が聴こえてくる。
ドッ……
ドッ……
ドッ……
ドッ……
それは足音のように思えた。
しかも自分が今いたトイレ前の廊下のほうでしている。
サキチさんが帰ってきたのだろうか……しかしそれなら音は玄関側からするはずだ。
それに、音は妙な間のあるリズムで聴こえている。
ふと、足の悪い人が片足に力をいれて歩くとこんな音がするな……と思ったとき、
「ききききききききききききききききききききききききききききききききき」
狂ったようなあの笑い声が、明らかに家の中で響いた。
俺はダッシュでタケの部屋にもどりドアのカギをかけた。
「今なんかいた? 見たっ?」
声は部屋とどいていたようで、タケは完全にパニくり妹もベソをかいていた。
「なんも見てない、大丈夫大丈夫……」
半分自分に言い聞かせるようにしながら、俺は隣りに座り妹の背中をなでた。
しかしいつ、ドアが叩かれ、得体の知れないものが入ってくるかも知れないことを想像すると、俺も泣きだしたい気持ちでいっぱいになった。
それからしばらくして玄関のほうが騒がしくなり、
「帰ったぞ!」とサキチさんの声がした。
複数の足音にまじり、クロの親しげな鳴き声も聴こえたのでドアを開けると、そこにサキチさん、酒屋のおじさん、後で自治会長さんだと知ったおじさんと、そしてルミもいた。
酒屋さんはかがんで妹の両脚を確認すると、サキチさんに言った。
「……やはり魅入られてるようです。他の子たちも危険かもしれません」
日本間に移動し、俺たち子供四人は横並びに座らされた。
目の前の座卓に白いシーツがかけられると、酒屋さんが自分のボストンバッグから盃とお札をとりだした。そして盃にお酒を注ぎ、お札は四枚(子供と同じ数?)を並べ置き、即席の神棚のようなものを作ったみたいだった。
俺が待っている間に聴いた”足音”や”笑い声”のことを話すと、サキチさんは、
「追ってきたか……」とつぶやき、そして”アシキリ”について語ってくれた。
「明治の頃、あの山には大きな養蚕場があったんだ。だがそこの持ち主がひどい男で、働かせているのは証文もなしに買ってきた女工さんばかりだった。ろくな食事も与えられずに奴隷同然の毎日で、耐えかねて山を逃げたもんが捕まれば、脚を切られてまた引き戻された。それだからあの山道は『アシキリの道』なんだ」
「でもオレら、山には入ってないのに……」タケは言ったが、サキチさんは首をふった。
「逃げたもんはあくまでも他へのみせしめに戻されたんだ。当然ろくな手当てもされないまま、死んだらゴミみたいに捨てられた……おまえたちの行ったあの池の底にな」
俺たちはもう震えあがってしまい、それでこの場にいないソウちゃんのことを訊ねると、ルミと同じく連れてくるはずだったが、すでに出かけていて捕まらなかったという。
「ソウタのことも後で必ずなんとかする」とだけ言われた。
「準備が整いました」
隣りの部屋で着替えてきたらしく、酒屋さんは白の衣に蒼い袴姿になっていた。
「ここからはけっして声をたてちゃいかんぞ。大丈夫、この人の家には強い神様がついとる、あとは任せるんだ」
サキチさんは酒屋さんを信じるように言うと、俺たちの後ろへ自治会長さんと並び座った。
酒屋さんは、先端に白い紙が柳のように垂れている棒を手にしていおり、それへお酒をかけると、本物の神主さんのように強く振りながら、
「オオー、オオー――ッ!」
と、腹の底からうなるような大声を発し始めた。
俺は緊張で体が震えてきたが、ギュッと握りしめた拳を膝の上において耐える。
一分としないうちに異変が起きた。
それはこの場にいる誰もが予想していなかった形だと思う。
いきなり背後の障子が、バン! と強く開いた音がすると、
「うるさいよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
突然だれかが部屋へ踏み込んできた。
ビックリして振り向くと、そこには細身ながら長身のおばあさんが立っていて、鬼のような形相で俺たちをにらみつけていた。
「さっきからガタガタガチャガチャうるさいってんだよ!!! こっちゃ疲れてるってのに昼寝もろくにさせてくれないのかい!!!!!」
「い、いやばあさん、すまんがこれから大事なところで――」
サキチさんが立ちあがり、ボソボソと状況を説明をし始めた。
おばあさんは、ところどころで「はあ?」「はあああっ?」と、まったく怒りが収まらない様子を示し、ついには、
「まだそんな与太ごとほざいてるのかい!!!!!」
パーーーーーーーーン!!!!
声と共に、サキチさんの左頬へおばあさんのビンタが飛んだ。
サキチさんはフラっとなり、とっさに自治会長さんに支えられて座り直すと、それからはすっかり静かになってしまう。
俺は少し前屈みになり、妹をはさんだ向こう側にいるタケに目線を送ると、
(ばーちゃん、うちのばーちゃん)と声を出さず口の形で伝えてきた。
「ああいやキンさん、誠に申し訳ないけど、本当にこれからハライの儀を行わないと、ここにいる子たちは……」
今度は酒屋さんが、とても穏やかな調子で、”キンさん”を静めようと近づく。
しかしキンさんは、酒屋さんからお祓いの棒をとりあげると、バキっとふたつにブチ折ってしまった。
そして充血した目でギロリとにらみ、酒屋さんをどかすと、妹の前で片膝をつき、
「アンタかい。足だしてみな」とドスの利いた声で言う。
妹は目を見開いてキンさんをみていたが、素直に座ったまま両脚を突きだした。
脚はやはり赤く変色したままだったが、キンさんはそれをひと目見るなり、
「ふん、アンタこの格好でどっかの草むらにでも入らなかったかい? 例えば黄色い花が咲いているようなところに座ってたとか」
俺がハッとしてさっき妹が遊んでいた場所を思いだすと、妹もまたうなずいた。
「こらぁね、ウマノアシガタっていう植物のせいだよ。下手にそいつに触ると毒で皮膚が赤くなっちまう。ま、きれいな水で洗って、薬ぬっときゃじきに治るもんだがね」
キンさんが言うと、室内には一瞬しんとなった。
自治会長さんが首をかしげながら言った。
「だがそんな植物、このあたりじゃ見たことも聞いたことも……」
「そりゃあどっかから種が運ばれて咲き始めたのは、ちょうど一昨年の今頃だったからね。あんたらみたいな迷信好きの連中は、あのアシキリのあたりにゃ近づかないんだから知るわけないだろうさ。ったく、あんたらで遊んでるだけならまだいいが、こんな子供を脅かして恥ずかしくないのかね……ほれタケ坊、ぼさっとしてないで薬箱もっといでっ。それからあんた! この子少し熱があるようだからね、奥に布団しいといてやんなっ」
言われるやいなやタケとサキチさんはさっと立ちあがり、それに従った。
薬をぬった脚の上に包帯がまかれ、妹が別の部屋に寝かされると、
「あーあーあーせっかく干したシーツも汚しちまって」
キンさんに”祭壇”を片づけるよう言われ、サキチさんたちはやはり黙って従った。
終わると酒屋さんと自治会長さんは速やかに帰された。あとでこの大人たち四人は幼馴染だと知り、未だにその力関係が根強くあるのだなと俺は妙に納得した。
しかし正直、あの池に行った俺たちにはまだ不安が残っていたので、タケが、
「でもさぁばあちゃん、俺たち変な女の人に追いかけられたんだよ。たぶん池のところからさぁ。それってやっぱアシキリの呪いじゃね?」
「女ってどんな人だい」
「見てはないけど、なんか『キキキキー』って気持ち悪い声で笑ってて……な?」
タケに言われて俺もうなずいた。
「ほんとです……クロの様子もおかしくなったし、なんかいるみたいなんです」
そこで俺がさっき声を聴いたところに移動することにした。
皆で廊下に出ると、
ドッ……ドッ……ドッ……ドッ……
というあの音がした。
俺は一瞬ドキッとしたが、みると音の主は、足を引きずっているキンさんだった。
「昨日ばあちゃん掃除機に足おもいっきりぶつけてさ……小指ねんざしちゃったんだよ。おっかないわりに、たまにそそっかしいとこあるんだよなぁ」
横からタケが小声で言うのを聴きながら、あーさっきの足音はこれだ……完全にこれだ……と思った。
先ほど声を聴いた廊下までくると、キンさんはぐるりと周囲を見回した。
そして庭でクロが落ち着かない様子でいるのをみると、キンさんはガラス戸を開けて外へ出て、痛めた右足をかばいつつ低い姿勢になった。
しばらくして地面から何かつまみあげ、じっと見る仕草を何度かすると、
「大体わかったよ。しょうもないね」
そういってポケットから意外なものというか、スマホを取り出すと、片手持ちの慣れた指さばきで操作し、俺たちのほうへ向けた。
「きききききききききききききききききききききききききき」
庭にあの『笑い声』が響いた。
「『声』ってのはこれじゃないのかい?」
「「「それ!」」」
そろって答えると、俺たちも庭へ出て駆け寄った。
スマホは動画の再生画面になっていて、そこには犬とも猫ともつかない、茶毛の生き物が映し出されていた。
「ばあちゃんなにこれ?」
「ミンクだよ。ほれ、こんなもんが庭のそこいらに落ちてる」
と出された手のひらには、確かに動物のものっぽい毛が乗っている。
「ミンクって……お金持ちが着たりするやつのあれ? 日本にそんなのいるの?」
「そらあいるよ、こいつは世界中に生息してるんだからね。大体は養殖してたのが逃げ出して野生化したやつらさ。特にここいらのは、近ごろお隣のN県から広がってきたやつさ。こいつは基本、水のなかのもんをエサにするが、実際なんだって食っちまう。チョコレートやスナック菓子、特にこんなのは好むとこなのかもしれないねえ」
とまた何か拾い上げたが、それは見覚えのあるよれた形状……”サキイカ”だった。
俺が乱暴にかついだリュックから、こぼれたサキイカをミンクが追ってきたということらしい。しかしまだ疑問は残っていたので、
「でもクロは、普段はネコにもやさしいのに、変になったのはどうして?」
と訊ねると、キンさんはなんでもないような顔でクロのほうを見て、
「ミンクが肛門から出す強い臭いにゃ、犬を野生化させちまう効果があるんだよ。特にありゃ鼻のきく甲斐犬だからね。実際イギリスの方じゃ、同じミンク臭いで興奮した飼い犬が崖から落ちてったって事例があったが、それも狩猟犬の類だったからね」
ムスッとした表情だが、このおばあさんはなんなんだろう……という思いの方が強くなり、このときにはもうすっかり自分の中から恐怖は消えていた。
「なんでもこわいこわいと思ってりゃ、枯れすすきも幽霊に化けるし、動物の声も人の笑いに変わっちまう。ささいな思い込みが目の前にバケモンを作り出すのさ。そもそも『女の人』がどうのとか、最初に言い出したのはだれなんだい?」
このときは答えられなかったが、あとあと確認してみると言い出したのは妹だった。
確かに俺たちにもあの鳴き声は女の人の笑い声に聴こえた。しかし妹にはまず、朝に後姿だけ見た謎の女――これはもうキンさんのことだとわかったが、そのイメージが強く残っていての言葉だったのだろう。そしてその妹のイメージに、俺たちもまた引っ張られ、あの声を女の人の笑い声だと思い込んだのだ。
「ウオン!」とクロが家のほうへ向かって吠えると、縁の下から小さなものが飛び出し、生垣の向こうへ走り去った。たしかに縁の下からの鳴き声なら家の中にも響くのだ。
結局はっきり姿はみえなかったが、道路のほうからあの声がまた聴こえてくる。
それは同じ音なのだろうが、このときは「チチチチチチチチ」といった感じに聴こえ、もう人の笑い声とは思えなくなっていた。
なんとなく気が抜けて、ふと妹の寝ているであろう部屋のほうを振り返ると、キンさんが俺の肩に手をおいて言った。
「脚が赤くなったのは自然毒による皮膚炎、笑い声は小動物の鳴き声。それじゃ、あの子の具合が悪くなったのはどうしてだと思うね?」
「……昨日、あんまり寝てなかったから、たぶん普通に疲れたんだと思う」
「そんなところだろうね。あとであの子にもそう説明してやんな」
そういってキンさんは廊下の向こうへ行ってしまった。
俺たちはそのままタケの家でお昼をごちそうになった。
そしてタケに、キンさんは博物学の博士だということを聴いて納得した。
普段は忙しくてあまり家にいないが、国からの依頼で定期的にこの地の生態も調査しているらしく、ここにずっといる人より土地のことに詳しかったりもするらしい。
妹は目が覚めるとすっかり元気になり、脚も翌日には元通りになっていた
と、話もここで終わっていれば、幼き頃の平和な思い出にすぎなかったと思う。
でもその日の夜、俺はソウちゃんが入院したことを知らされた。
ちょうど俺たちがタケの家に集まっていた頃、ソウちゃんは家族で外食に出かけていたのだが、その店先で車にはねられたらしい。
翌日お見舞いにいくと、病院のベッドにソウちゃんが横になっていて、その両脚はギブスで固めて吊られていた。
他は軽傷ということで命にも別状ないということだったが、その表情は大分暗く、
「複雑骨折だって……もうあそこにはいかないよ……さっきもじいちゃんにもめちゃくちゃ怒られたし。やっぱり『アシキリの呪い』なんだよ。午後からおハライの人も呼んできてくれるって」
このとき俺の頭に、昨日のキンさんの言葉がよぎった。
でも結局、この場でそれを口に出すことはどうしてもできなかった。
その後は特別何か起きるわけでもなく、俺たちはそれぞれ普通に生活している。
ソウちゃんも幸いこれといった後遺症もなく回復したが、しかし他の地元の人たちと同様、あの場所には絶対近づかなくなった。というかそれに関してはタケたちもまた同じだった。
唯一の例外はキンさんだけで、お構いなしに例の場所でもその先の山道でも調査を続けていたらしいが、今は仕事を辞めてあの家にいて、たま会っても変わらず元気でいる。
作者ラズ
ある場面のためだけに書きました。
一応創作じゃない感じにしたつもりですけど創作です。