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「ねえ、この部屋、どうして女の人がいるの?」
玄関先に招き入れた友人が、私越しに部屋を覗きこんでそう言った。
私は思わず背後を振り返った。
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私が越してきたのは、アパートの1Kの部屋だった。
玄関のドアを開けるとすぐに狭いキッチンがあり、その奥に洋室がある。
友人は私の身体越しに、洋室の中に女の姿を見たと言っているのだ。
私は一人暮らしなのに。
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見ると、玄関に向きあう形で姿見が立ててあった。
「なあんだ――」
私はほっと息をついた。
友人は鏡に映った私の後ろ姿を見て、奥の部屋に人がいると錯覚したのだろう。
そう言うと、
「――違うよ」
友人は応えた。
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「そこには姿見があったんだね。さっきはこっちを向いた女の人が立ってたから見えなかったよ。
――今?
あんたが振り返ると同時に消えちゃったから、今はいないよ。
まあ、部屋に入れてもらえるかな?
雨がひどくてさ。傘さしてても濡れちゃったよ」
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――これ、引っ越し祝いのお土産。
友人は近所のケーキ屋の包みを渡しながら、立ったまま濡れた靴を脱ぎ始めた。
9月の頭の、雨の夜のことだった。
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大学2回生の私は、8月下旬という実に中途半端な時期に引っ越しを決めた。
それまで住んでいた部屋の近くでビルの解体工事が始まり、住みづらくなったためだった。
静かな環境を好む私は、新居を山手線の東側――東京の下町――に求めることにした。
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不動産屋をはしごして、何軒かの賃貸物件を内覧した。
気に入ったいくつかの物件については、後日、その部屋の周りをブラブラ散策してみて、環境が自分に合っているかを吟味してから決めることにした。
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最終的に選んだ部屋は最寄りの駅から徒歩7分、大通りから小路を3本ほど住宅街に入った所にある、2階建てのアパートだった。
アパート自体は特段新しくも古くもない。部屋は2階の南向きで日当たりが良かった。
ベランダからは、小路を挟んで木の塀に囲まれた昔ながらの木造住宅と、そこそこの広さの駐車場が見えた。
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アパートの周りは昔からの古い家が多く立ち並んでいた。
その家々の間を細く入り組んだ路地が縦横に走っている。
ともすれば圧迫感のある眺めにもなりかねないが、その部屋は目の前の駐車場がある種の開放感を演出しており、私の気に入ったのだ。
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アパートの前を通る小路は、そのまま隣町まで続いている。
この道は、右に折れたと思ったらすぐまた左に折れて、そうかと思うとまた右に折れる。それを延々繰り返す。
蛇行しているのだ。くねくねと。
区画整備される前の古い道らしく、道沿いに立ち並ぶ家々も木造のものが多かった。
この道は私の良い散歩コースとなった。
ぼんやり考え事をしながら歩くのにちょうどいい。
不意に路地からひょっこり野良猫が顔を出すのも、下町の趣きがあって気に入っていた。
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今年の9月は雨が多かった。
真夏を過ぎてから次々に生まれる台風と、日本全体を覆った秋雨前線の影響だと、テレビの気象予報士は告げていた。
実に、月の半分は雨降りだったように記憶している。
洗濯ものが干せずに非常に困った。
部屋干しするにしても、今度は部屋が湿っぽくなるし、臭いも気になる。
近所にコインランドリーを見つけて、そこに設置されている乾燥機を使ってなんとかしのいだ。
予想外の出費になったのが痛かった。
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雨とともに私を困らせていたのは、友人が見たと言った怪しいものの存在だった。
この部屋にはどうやら何かある――。
そう思わざるを得ない出来事が、私の身の回りで起こるようになった。
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それは大抵夜中だ。
――ザアザア
夢の中で、水の流れる音が聞こえる。
私は眠りながら、これは夢だと気が付いている。
目の前は真っ暗で、何も見えない。
(ああ――お風呂場の水が溢れているのかな。バスタブにお湯を張っていて、そのまま眠ってしまったのかな?水道代がもったいない)
そんな生活感あふれる焦りを感じながら、ベッドの中で目を覚ます。
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ザアザアという音はいつの間にか止んでいる。
代わりに耳に届くのは、シトシトという窓の外を降る雨の音だ。
目を開けると、夢の続きのような暗闇が部屋を満たしている。
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ため息をついて、再び眠りにつこうと布団の中で寝がえりを打つ。
と、
shake
――ピチャン
風呂場の方から水の滴る音がする。
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shake
――ピチャン、ピチャン
蛇口をしっかり閉めていなかったのだろうか。微かな水音は一度気にし出すと――ピントが合ってしまったかのように――耳について離れない。
shake
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――ピチャン、ピチャン、ピチャン
起き上がって止めに行くのは面倒だ。さりとて音が気になって眠気が頭から引いていくのがわかる。
どうしようか布団の中で逡巡していると、
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shake
shake
――ズルドタビシャッ
バスタブの中で濡れた何かがバスタブの縁を掴んで身体を起こそうとして、滑って倒れこんだような音、
とでも表現するべきだろうか。
とにかくそんな正体不明な物音が暗闇に響いた。
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私は布団の中で悲鳴を上げそうになり、なんとかそれを抑え込んだ。
ジェットコースターで高所から一気に突き落とされた時のような、胸の辺りにぽっかりと穴が開いたかのような喪失感。
そして全身に冷たい汗が流れた。
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――なんだろう、今の音は?
ベッドの上で身体を固くして考える。
――誰か部屋の中に、風呂場にいる?
侵入者の可能性を否定しようと、私は必死に、玄関のドアを施錠したかを思い出そうとする。
帰宅時に手荷物を玄関に置いて、後ろ手にドアの鍵を――閉めたっけ?
習慣化した動作は、こんな時に確実な記憶として私を安心させてはくれなかった。
それでもきっと閉めたはず、と無理やり自分を納得させる。
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耳をすます。
何者かの息遣いを確認するために。
自分の心臓の鼓動がやけに五月蠅い。
風呂場からはその後、物音ひとつしない。
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どれくらいそうしていただろう。大きなため息とともに、私は緊張を解いた。
知らないうちに呼吸を止めていたらしい。
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おもむろに起き上がり、部屋の電気を点けると風呂場に向かう。
灯りを点けて風呂場を覗くと、
shake
――ピチョン
水道の蛇口から水滴がぽたりぽたりと垂れていた他は、異常は見当たらない。
バスタブはすっかり乾燥しており、濡れた何かが這った形跡などどこにもなかった。
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こんなこともあった。
雨の音を聞きながら眠りについた私は、
――ザアザア
夢の中で水の流れる音を聞いて目を覚ます。
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再び眠ろうとしたところで、自分の身に違和感を感じる。
就寝前に風呂に入り、頭を洗って乾かした髪。
肩まである私の髪。
今は枕の上に投げ出された髪に――重さを感じる。
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――濡れていた。
――しっとりと。
寝る前に確かにきちんと乾かしたはずなのに。
部屋の明かりを点けて、姿見で自分の姿を確認する。
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shake
――女が
寝間着姿の私の背後に見知らぬ女が立っている。
全身ぐっしょりと水に濡れた、まるでこの雨の中を今まで歩いてきたかのような――。
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shake
「ひっ――!」
詰まったような短い悲鳴を上げて背後を振り返る。
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そこに女の姿はない。
再び覗いた鏡の中の自分の髪は、やはりしっとりと濡れていた。
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「あの部屋ですか?
お客さんがご心配されているような物件なんかじゃありませんよ。
お客さんの前の借主の方も、その前の方も、近くの大学に通う学生さんでした。
どちらも卒業のタイミングで引っ越されたんですよ。断じて、変なことなど起こってませんよ」
不動産屋の男性は、笑いながら私に言った。
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部屋で起こる不可解な事柄に不安を持った私は、不動産屋に問い合わせのだ。
以前あの部屋でなにか――事件や事故など――起こってはいないか。
いわゆる「事故物件」ではないのか、と。
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なにかで聞いたことがあるのだが、ある部屋で人が亡くなるような事件や事故が起こったとして、その次最初にその部屋を貸し出すことになった客に対して、不動産屋はそのことを告げなければいけない義務がある。
そういうことが起こった部屋です、と。
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一方で、次の次の客に対しては、そのような情報の告知義務はない――らしい。
私は、今借りているあの部屋がそうような忌まわしい過去を持った部屋であり、前の借主も私が現在見舞われているような出来事を体験して、それが原因で引っ越していったのではないか、と予想して不動産屋に問うたのだった。
あっさり否定されたが。
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しかし、そうは言われても、私は自分が身をもって体験した出来事をあっさり否定することなどできなかった。
新聞やネットを使い、過去にあの部屋の周辺で事件や事故が起こっていないかを調べた。
だが、これは空振りに終わる。
昔から極々平和な町なようだ。結構なことだが。
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唯一、今年の8月下旬、隣町で30代の女性が行方不明になっていたことだけが、それらしい事件だった。
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引っ越し直後に遊びに来た、例の友人――彼女はいわゆる視える人だ――も、原因がこの部屋にあるかどうかは、判断できないとのことだった。
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「視えたのはあの雨の晩だけだったからなあ。
その後、あんたの部屋に遊びに行ったことあったでしょ?あの日は何にも感じなかったし……。
あんたの体験した話も踏まえて考えると、その怪現象やら女のお化けってのは、雨の日限定なんじゃない?」
――ザアザア言うのも、雨の音なのよ、きっと。
キャンパスのカフェで、テーブルに頬杖をつきながら、友人が言う。
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確かに、おかしな出来事は雨の日に多く起こっているように思われる。
ただ、実際、雨の晩以外にも女の影を見たり、おかしな音を聞いたりすることはあった。
最近は雨の日が多かったから、結果として怪現象の発生したタイミングと被っただけなような気もする。
それに――、
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あのザアザアという水の音は、雨音なんかじゃない。
どこか、暗い場所を流れる川の音。
あのびしょ濡れの女が聞いている音なんだ――と、私は訳もなく確信するようになっていた。
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それは大学近くの古本屋街をぶらぶら散策していた時のことだった。
ふと気になるものを見つけて足を止めた。
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それは東京の古地図だった。
江戸時代から、明治、大正、昭和と移り行く街並みが描かれている。
筆で描かれた江戸時代の古地図などは、味があって面白かった。
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興味をひかれたのは、自分が現在住んでいる場所は、大昔はどうなっていたのか、ということだった。
中心に描かれた江戸城を目印に大体の方角を調べ、さらに目を凝らす。
そして、今も近所にある歴史ある神社の名前を地図の中に見つけ出した。
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大きな四角で囲まれた大名・旗本の屋敷の他は、民家を表す小さな四角がまばらに点在するだけであった。
どうやらあまり栄えた場所ではないらしかった。
村はずれ、町はずれとでも言うのだろうか。
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そこに、南北に青い筋が引かれているのを見つけた。
ちょうど自分の住んでいる町と、隣町を抜けて、近くの大きな池につながっている。
川だ。
蛇行している。くねくねと。
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頭の中に、アパートの前の小路が浮かぶ。
あの曲がりくねった道。
区画整理前の、古い木造の家々が立ち並ぶ、あの小路。
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あそこは昔――、
川だったんだ。
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調べてみると、古地図に記されていた川は、昔は人々の生活に役立っていたが、反面水はけが悪くよく氾濫をしたために、大正時代から暗渠(あんきょ)工事が行われたのだそうだ。
つまり、蓋をされ、地下を流れる川になったのだ。
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今でもあの曲がりくねった道の下には――たとえ地上が晴れていようが、雨が降っていようが――水が流れているのだ。
ザアザアと。
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東京の下町からも古い木造の家々は徐々に姿を消している。
マンションやビルなど、新しい高層建築がそれらにとって代わり、私たちの意識は上へ上へと向けられていく。
しかしその足元では。
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光の刺さない真っ暗な地の底では、昔から変わらないものが――ひっそりと――そして確かに息づいている。
人の生活とともにあった、ある時には――大雨で氾濫した際などには――人を飲みこみ、流したかもしれない、私の見たことのない川の流れが。
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隣町の大きな池で、行方不明になっていた30代女性の他殺体が発見されたのは、年末のことだった。
遺体は長く水の中にあったようで損傷が激しく、発見された場所が犯行現場になったのか、それとも別の場所から移動させられたのか、まだわからないそうだ。
作者綿貫一
こんな噺を。