培養液の中で蠢く胎児を見つめる。
被検体8976番、それが培養液の中に浮かぶ胎児の名前だ。
白衣を羽織った男は、その胎児を瞬きを終えた後にまた見つめた。
かわいそうにという同情心も、
わたしのこどもという父性も湧かずに、
なんの感情も込めずに、パソコンのENTERキーを打った。
ブルーライトに照らされた大画面に、胎児の心拍数
が表示されると同時に、音声が流れた。
[GDF投与しました]
胎児の入った培養管から、胎児の口の中に入れられた管を伝い、赤い液体の何かが胎児の身体に入っていく。
胎児は、その瞬間声にならない悲鳴をあげた。
目も開かない、外の世界の景色も、空の色も何も分からない無知な子供でも、
それが恐ろしいものであると分かるらしい。
ボコボコと泡を立てて、必死に蠢くが、
胎児が培養管から出る事は叶わなかった。
胎児の腹はだんだんと膨らみ、開いたことのない黒目が開くと血が溢れ、胎児の腹が破裂した。
透明な培養液は赤黒く染まり、胎児の中から溢れた臓物が胎児の代わりに浮いている。
「やっと、見つけた」
白衣の男はそう声を漏らすと、画面を食い入るように見ている要人達に告げた。
「皆さん、ご覧いただけましたか」
「あれが複合変異型狂犬ウイルスに耐性をもった胎児の抗原抗体反応です。」
【生存者 残り6454873956名】
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黒いドレスを着た女性が、白衣の男に声を掛ける。
「少しは遊んでいったら?」
「上の会場にいるご要人は貴方の話題であんなにも羽目を外しているのに」
「貴方は世界を救った素晴らしい人よ。これで誰もあの悪魔に脅かされる必要なんてないのだから」
女性は艶やかに着飾った顔を優雅に歪ませ笑みを零すと、男にロゼの入ったグラスを差し出した。
「あと10分後に貴方は演説をするの。貴方の偉業を世界中に広めて、あの胎児から見つかった抗体を薬に変えて、苦しむ人々の下に届けるの」
「きっとうまくいく。これで世界中の皆が誰も傷つかずに幸せになれるのよ。」
演説楽しみにまっているわ、
そう言って、女性は去っていく。
高いヒールを履いた女性の足の甲には青い血管が浮き出ている。いくらアンチエイジングが進化した現代においても彼女の老いは隠せない。
いくら顔の皮膚を整えても、骨を削っても、化粧を施しても、老いは隠せない。
男もいくら薬で身体の不調を整えても、それはごまかしに過ぎない。サプリメントも与えられなくなればまた老化が始まる。
病人であれば、なおさらだ。
「あの悪魔はお前たちから生まれたものなのに」
男はそう呟くとグラスを床に落とす。
硝子の音を鳴らし砕けると、中の液体がレッドカーペットに染みる。
まるで血のようだ。
培養液に浮く中身の無い胎児が脳裏に浮かぶ。
「もう少し、もう少しだ」
「もう少しで、」
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ピリリリリリ、と電子音が鳴った。
自動送信メールが画面に表示される。
【生存者 残り6454872456名】
男は携帯端末の画面の設定を切り替え、エレベーターの前に立つ。エレベーターの回数が下がり、上の階に向かうエレベーターに乗ると、まだ研修中の名札を下げたエレベーターガールが緊張気味の笑顔で迎えた。
エレベーターに乗り、4Fをエレベーターガールに告げると彼女は教えられた通りの対応で男に笑顔を向ける。
「あの、この度は、ほんとうに、おめでとうございます。」
エレベーターガールがまだ緊張しているような声色で男に声をかけた。
新人特有の空気とあまりのぎごちなさに、
その他、会話を盛り上げる為に何かを言っていた気がするが、エレベーターの階数が近づくと自然と彼女は推し黙った。
違和感に気がついたのだろう。
だが、それも遅かった。
扉が開き、男が降りると同時に無差別捕食型の感染者が乗り込み彼女を押し倒した。
次々に群がる捕食者。
泣き叫ぶエレベーターガールの絶叫。
エレベーターの店員オーバーの警告音が鳴り響くが、入る捕食者の群れは止まらない。
エレベーターのドアは捕食者達によって、開閉を繰り返している。
「ああぎああああ」
「いた、いだい、だただ」
「かま、ないで、ころざ、なじで」
エレベーターガールの血が飛び散り、腕が飛び男の靴の近くに飛ぶ。
その腕を追って、ドレスを着た女が飛びつく。
ガリガリガリと歯をたてて肉を引き千切り咀嚼していたその女性は、先程の婦人だった。
病的に白い肌、白濁した目、足の青い血管が全身に張り巡らされていた。
自慢の豊満な胸もどこかの感染者が喰い荒らしたせいか、見る影すらない。
乳房の代わりに残された二つの肺が苦しそうに顔を見せて、痙攣しているだけた。
骨を砕いて咀嚼しようとするが、同時に歯も砕け、美しい姿とはかけ放されているが、一心不乱に貪り食う婦人。
男はその婦人の髪を掴み、エレベーターガールの腕から引き離すと婦人は狂ったようにヒステリーを起こした。
男はその様子を見て、笑い
そして、こう言った。
「馬鹿な女」
「お前は体内に入ってるのは抗体ではない。胎児が排除出来損ねた悪魔だよ」
「せいぜい苦しみながら死ね」
婦人は言葉を聞き、白濁した目から涙を流した。そして金切り声をあげると男に襲いかかる。
だが、他の感染者の群れが婦人を踏み潰して、エレベーターに集る。
婦人はうめき声を上げるが誰も助けようとはしない。婦人は人知れず肉絨毯になっていった。
男はその様子を腹を抱えて笑いながら、こう言った。
「苦しむ人々の為に、だって?」
「わたしの娘はお前たちに殺された」
「赦さない、絶対に」
「私の生きる幸せを奪ったお前たちに」
「娘の幸せを奪ったお前たちに」
「安らぎが訪れると思うな」
【生存者 残り6324073755名】
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GDFウイルスの説明が入った音声がひび割れた画面越しに流れている。
画面に映っているのは白衣の男だ。
「複合変異型狂犬ウイルスの基盤となったGDFウイルスとは、もとは人間の不老不死の実現の一歩として造られた人造ウイルスでね。」
「疲労を感じさせない体、年をとらない若々しく美しい肉体。それを実現させるためのものだった」
「ヒトの体内にあるミトコンドリアはもとは細菌だ。胎児の胎盤の形成にもヒト内在性レトロウイルスが関係している。人体に対して有用なウイルスもいるものでね」
「その有用GDFウイルスを人間の体内に入れて、細胞共生させる事によって不老不死が得られるというのが、机上で考えられた説で彼はそれを叶えようとした」
「実験は成功したよ。実験体の女性の体内でGDFウイルスはミトコンドリアの中で共生した」
「だが、願った通りの不老不死にはならなかった」
「それもそうだ。ミトコンドリアは多数の遺伝子があってそれに変異が生じれば、自然排除が行われる。でも、彼女の体はそれが出来ない。GDFウイルスと共生してしまったからね。GDFウイルスは彼女のミトコンドリア内の多数の遺伝子を変異させ続けた」
「ミトコンドリアは変異の自動排除が行われなければ、ミトコンドリア病という病にかかる」
「彼女はその病で見るにも耐えない姿に変貌してしまった。そして、共生は一ヶ月後に完全に失敗に終わった」
「彼女の身体の中でミトコンドリアは死に、代わりにミトコンドリアの死骸にGDFウイルスが居付いた。これで彼女の体内の中でアポトーシスが始まった」
「細胞の自殺だ」
「GDFは変異を繰り返し、彼女の身体を変えていった。肉が丸出しの化け物のような身体、不老の命。それでも不死に近づける為にGDFウイルスは変異を起こし続けた」
「それは机上で考えられていた人間の進化によって会得した不老不死ではなく、【ウイルスによる強制変異によってもたらされた呪い】だった」
「そして、彼女は生きながら死に続け、やがて彼女の残骸の一部は彼女の父親によって取り上げられた」
そして、悪魔が生まれた。
そう白衣の男が話すと、画面はブラックアウトして、電源が落ちる。誰が何のためにこの動画をつくったのかは誰もしらない。
画面を見ていた男も、もういない。
【生存者あと 14名】
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【生存者 残り0名】
研究所の地下に足を運ぶ。
誰かが燃やしたのか、焦げ臭い匂いが漂う。
黒い灰と塵だらけの薬品庫の奥に、
ドアが半開きになった部屋があった。
何かに抑えつけられているのかドアがまともに開かない。
近くの鉄パイプを使ってこじ開けると、
中から泣き声が聞こえた。
しにたくない、しにたくない
しにたくない、しにたくない
しにたくない、しにたくない
しにたくない、しにたくない
何者かの声が聞こえた。
まるで蚊の泣くような声色だが、
生存者だろうか。
そんな馬鹿な。
生存者は全て死んだ事になっている筈だ。
ならば、一体誰が。
感染者の声ではない。
ならば、これは誰の声だ。
ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい
また蚊の泣くような声がする。
この声の主は息をしているのだろうか?
しにたくないしにたくない
ごめんなさいしにたくない
しにたくないごめんなさい
ごめんなさいしにたくない
しにたくないごめんなさい
ごめんなさいしにたくない
生存者であれば保護しろと命令されている。
あのウイルスへの抗体をもっているかもしれない。生存者は一人でも多ければありがたい。
逃げ延びた生存者達の救いになる。
でも、この声は、
嫌な汗が頬を伝う。
この声の主は生きている。
だが、なんだこの嫌な予感は。
しにたくないしにたくない
しにたくないしにたくない
しにたくないしにたくない
しにたくないしにたくない
ごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさい
ごめんなさいごめんなさい
ちがう、ちがう
そうしたかったんじゃない
わたしのせいじゃない
たすけて、だれかたすけて、
その言葉を聞いた瞬間に、生存者だと確認しドアをこじ開けようとした時に無線から連絡が入った。
《研究所近くの隊員に告ぐ、研究所をはなれろ》
《生存者探索にただちに向かえ》
おい、なにを言っている。
生存者はここに
《研究所警戒指定区域設定 緊急待避命令》
《研究所地下最奥最後の生存者携帯端末ハッキング成功》
《現場の動画を送る 待避せよ》
無線からの雑音がうるさくてあまり聞き取れない。
《研究所近くの隊員直ちに待避せよ》
《研究所近くの男女の死体にGDFウイルスの新型が確認された》
《研究所近くの隊員直ちに待避せよ》
くそっ、聞きとれない。
一体どうなって。
ふと、視線を外せば、
半開きになっていた筈の扉が開いていた。
部屋の中の腐臭が辺りに漂う。
部屋を覗けば、正面には腐乱した犬の死体があった。食い荒らされたような跡がある。
だが、この犬はどう考えても感染した犬の死体だ。感染した犬を喰っていたのか?
一体誰が。
どうして、そんな、まさか。
あの声の主は、まさか。
その時、誰かに足を掴まれた。
部屋が暗くて気付かなかったのだろう。
そいつは足元にいて、這っていた。
そいつの首に変色した首輪がついている。
だが、そいつには顔が無かった。
しにたくないしにたくない
作者退会会員
終わる世界の続編です。
主人公がクリーチャーになって帰ってきました。
短編のような感じですが、
怖さが伝われば幸いです。