あれは今から20年ほど前の事でした。
当時私は小さいながらも店を構えていて、常連さんも抱え、忙しい毎日を過ごしていました。
カウンター7席の小さなお店は、普段でも多い時で5回転ほどする時もあり、それなりに繁盛していました。
暮れも押し迫った、ある夜の事です。
その日は珍しく、開店して一時間を過ぎても一人のお客様もお見えになっていませんでした。
年末のこの時期に、珍しい事もあるものねと、その時はまだ呑気に構えていたんです。
カラオケもなく、ボックス席もありませんから、団体のお客様は入れませんので、そのせいかもね、と思いながら、棚のボトルなどを拭いたりして過ごしていました。
開店から、もうすぐで2時間、という頃だったと思います。
カランカラン。。。
と、扉に付けてあるカウベルが鳴り、私は拭いていたボトルを棚になおし、「いらっしゃいませ」と声をかけながら入り口へ向き直りました。
そこには、珍しく一見さんが立っておられました。
忘年会シーズンのこの時期にガラガラの店内に気後れしたのか、遠慮がちにこちらを見ながら、
「あの、初めてなんですけど。。。」
と仰って、コートを脱ぐ仕草をはじめました。
私は、
「どうぞ、お好きなお席に」
そう言いながらカウンターを出て、お客様の脱いだコートを受け取ると、入り口横のクローゼットへ仕舞い込みました。
オーダーを取り、飲み物をお出しした後付け出しなどを出しながら他愛もない会話をふり、共通の話題やお客様の好きそうな話題を探ります。
ところがお客様は、どの話題にも興味なさ気で、返ってくる言葉もどこかうわの空な様子でした。
お客様の中には、黙ってお酒を楽しみたいだけの方もいらっしゃいますので、あまり会話が弾まない時には、お客様の方から話してくださるまで待つ事もあります。
その時も、人見知りなのかもしれませんし、お客様の話したいタイミングもあるかもしれないと、様子を見る事にしました。
2杯目のグラスを注ぎたそうと手を伸ばした時でした。
ぼうっとしていたら聞きこぼしてしまいそうなほど小さな声で、
「今日は、娘の誕生日なんです」
と仰いました。
「まあ、そうなんですか、それはおめでとうございます」
それだけ言って、私はお酒を作ってさしあげました。
娘さんの誕生日に、こんな時間まで飲みに出ているなんて、色々と事情がおありなのかもしれません。
それなのに、根掘り葉掘り訊いたりこちらから会話を広げるような事は、あまり良い結果を生まない事が多いからなんです。
話したければ、お客様の方から自然と会話を広げてくださいます。
その時にお話に乗る方が良いんです。
「娘が小学校2年生の時に離婚しましてね」
やはりこのお客様も、ご自分からぽつりぽつりと話しはじめました。
「女の子ってのは子供の頃から口が達者でね、生意気な口をきくんですよ」
おそらくは、その別れる直前までの娘さんの様子を話しておられるのでしょう。
「それでも、男親にとっては娘ってのはかわいいんですよね。どんなに小生意気な口をきかれても、何とも思いませんでしたよ」
お客様は ふふっ、と小さく笑いを漏らすと、グラスに口をつけ唇を潤しました。
「突然、離婚を切りだされましてね」
コトッ、とカウンターにグラスを置きながら、グラスの中の氷をジッと見つめておられました。
「理由を訊いても、別れてくれの一転張りで。結局、私が仕事に行っている間に、妻が娘を連れて出て行っていました。
帰宅した部屋には、記入済みの離婚届と、今後一切連絡もしないでくれ、娘にも会わせない、という書き置きだけが残されていました」
お客様の傾けたグラスから、カラン、と氷のぶつかる音が響きました。
「それが、10年前の今日、なんですよ」
また、お客様は自嘲気味に ふふっ、と笑いを漏らされました。
「もう、18歳になるのかぁ」
そう呟くと、お客様はグイッと一気に飲み干されました。
「お代わりされますか?」
私がそう訊くと、カウンターを見つめたまま小さく頷かれました。
新しいグラスにお酒を作りながら、
「会いに、行かれないんですか?」
そう、訊いてしまったんです。
居場所も知らされていないから、今まで会いに行けなかったのかもしれないのに。
それに、「娘にも会わせない」と手紙に書かれていたから、会いたくても会いにいけない真面目な方なのかもしれないのに。
訊いてしまった瞬間後悔しましたが、出してしまった言葉を無かったことにはできません。
余計な事を訊いてしまった事を謝ろうとした時でした。
「会いには、もう行けないんですよ」
今度はしっかりと、私の目を見据えて仰いました。
その目を見た瞬間に、私はすべてを悟りました。
「後悔、していらっしゃるんですね」
私がそう言うと、お客様は小さく頷かれました。
「もう何もかもがどうでも良くなってしまいましてね。置き手紙を読んですぐでした。もう、なんの意味も成さない気がしたんです。恐怖とか、そんなものも感じませんでした」
再びカウンターへ視線を落としたお客様は、まるで独り言のように呟かれておられました。
「まだ、遅くはないんじゃないですか」
私がそう言うと、ゆっくりと顔を上げ、こぼれ落ちてしまいそうな程に目を見開いて私を見つめながら、言葉を失っておられました。
「最後のご挨拶だと思って、娘さんの18歳のお誕生日、ひと目だけでも会いに行ってらっしゃったら」
私は努めて微笑みながら、そう付け加えました。
「勇気が出ないなら、もう一杯だけ飲んで行かれると良いですわ。今日は、私からのささやかなお祝いに、奢りますから」
私はもう一杯、少し濃い目に作ったお酒のグラスを、お客様の前に並べました。
大粒の涙をポロポロとこぼしながら、お客様は2つのグラスを一気にあおると、
「ありがとうございます。ごちそうさまでした。これから、会いに行ってきます」
そう言って、コートを羽織り出て行かれました。
もう、扉に付けたカウベルは鳴りませんでした。
カウンターには、お客様にお出しした4杯のグラスが、手付かずで置かれていました。
作者まりか