music:4
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sound:11
「おい、このドア、鍵がかかってないぜ?」
裕也(ゆうや)が取っ手を引くと、ドアはきしんだ音をさせながら開いた。
そして、親指を立てて、くいくいと建物の内側を指し示す。
「でも……まずいよ。いくら誰もいそうにないからって、他人の家に勝手に入るなんて……」
春奈(はるな)が両手で自分の身体を抱いたまま、裕也に向かって言う。
「でも春奈、状況が状況だ。
三人とも全身ずぶ濡れだし、俺たちはともかく、お前、唇が真っ青じゃないか。寒いんだろ?
一時的に避難させてもらう分には問題ないさ」
俺の言葉に、「明(あきら)君がそう言うなら」と春奈も頷く。
そして、俺たちは各々の荷物を持って真っ暗な建物の中へと足を踏み入れた。
山の中に建つ、洋風の古びた黒い家へと――。
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俺と裕也と春奈の三人は、大学で同じサークルに所属する友人同士である。
三人とも学年も同じだし、入部当初から気が合ったのでよくつるんでいた。
それは、半年ほどして裕也と春奈が付き合うようになってからも変わらず続いていた。
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ある夏の日の週末、俺たちは東京近郊の山へと登山に来ていた。
予定では早朝から山へ登り始め、頂上で昼食を食べ、午後早い時間に下山、麓の温泉施設で汗を流して帰ってくるという流れになっていた。
ところが、予定通りに流れたのは昼までで、下山の途中雲行きが怪しくなってきたと思った矢先、大粒の雨が降りだした。
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sound:11
shake
sound:9
雨と風はみるみる強まり、雷まで鳴りだした。
俺たちは慌てて木陰で逃げ込んだが、まったくしのげそうになかった。
午後も早い時間だというのに辺りは暗くなり、ひやりとした冷気が濡れた身体を包み込んだ。
遭難の文字が頭を俺の脳裏をよぎった。
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「おい、あれ、家じゃねえか?」
裕也の声に振り返ると、登山道から外れた山の中に、まるで木々に隠れるかのように黒い外壁が見えた。
けもの道のような細い小路を辿って近づくと、果たしてそれは洋風な外観をした二階建ての建物だった。
こんな山中にあることを考えると、誰かの別荘なのかもしれない。
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sound:11
ひとまず玄関の軒先を借りて雨を避ける。
全身はぐっしょりと濡れ、体温が際限なく奪われていく。
いい加減な気持ちで臨んだ登山だった。さすがに登山靴は履いているが背負ったリュックの中にはろくな装備が入っていない。
春奈が青白い顔をして歯をカチカチ鳴らしていると、背後でドアをいじっていた裕也が声を上げた。「鍵が開いている」と。
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俺は、室内に上がり込むに当たって、登山口を脱ぐべきか否かを逡巡したが、その迷いはすぐさま消し飛ぶことになった。
shake
パキ、ペキ、ジャリ――
足元からなにかを踏み砕く音がした。
それは三和土(たたき)から玄関先の床にまで、無数に広がった鏡の破片であった。
見ると、玄関先の壁にわずかに残骸を残した鏡の額が掛かっていた。
これでは素足で歩き回るわけにいかない。
胸の中で非礼を詫びながら、土足のまま上がらせてもらうことにする。
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建物は普通より少し大きめの民家といったところだった。
広めの玄関スペースには二階へと続く階段と、一階の奥へ通じる廊下があった。
俺たちは裕也を先頭に、携帯電話を懐中電灯代わりにかざしながら、廊下を奥へと進んだ。
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左手のドアを開けると、広い洋間に出た。
窓は厚いカーテンで覆われていたが、かすかな隙間から弱々しい外の光が差し込んで、室内をぼんやり浮かび上がらせている。
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テーブルを挟んで両側に置かれた大きなソファ。
アンティークな棚に納められた皿やティーカップ。
ドア横の棚には鳥のはく製と、瀟洒(しょうしゃ)な置時計が飾られていた。
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「やっぱり金持ちの別荘って感じだな」
裕也が無遠慮に辺りを物色しながら感嘆の声を上げる。
俺と春奈は入り口付近にリュックから出したタオルを広げ、その上に荷物や濡れた上着などを置いた。室内を荒らすわけにはいかない。
「おい、裕也も濡れた格好のまま歩き回るなよ。こっちに荷物置け」
へいへい、と軽口をたたきながら戻ってきた裕也だったが、棚の置時計の横に倒れた写真立てを見つけると、再びはしゃぎ始めた。
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「お、これがこの家の持ち主か?父親と母親と真ん中に娘……、着物着てるってことは成人式の写真かな?
おい見ろよ、この家族全員そっくりだぜ?みんな揃って丸顔で狸みたいだな。
遺伝って恐ろしいな、ここまで似るもんかよ」
裕也が差し出してきた写真立てを覗きこむ。確かに皆よく似ている。
だが、俺が一目見て印象に残ったのは、笑顔の両親に挟まれた娘の表情が、正反対に虚ろで暗かったこと。
それに写真自体が大層古いもののようだったことだ。足元の部分など、色が褪せて白っぽくなってしまっている。
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消耗が激しい春奈をソファに座らせて、持ち合わせのタオルで髪や身体を拭かせる。
身体震えている。歯の根が合っていない。このままでは風邪をひいてしまう。
エアコンのリモコンがあったので電源を入れてみるが、当然ながら電気は通っていないようで作動しなかった。
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携帯の画面を見ると、時間は午後の2時半。
カーテンの隙間から覗く屋外は、激しい雨に白く染まっている。
電話で外に助けを呼ぶべきだろうか。
ただ、予報では今日雨が降るとは言っていなかった。これは一時的な通り雨かもしれない。それで救助を呼ぶのは大げさが過ぎるか。
裕也と対応を話し合っている、その時だった。
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shake
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バタンッ――!
ドアを叩きつけるような大きな音。それが突如頭上から響いた。
三人とも、思わず肩を震わせ身体を縮こませる。
「――ねえ、今の音、なに?」
「知るかよ。ドアが閉まった音――だろ?」
「わからない。確かにそんな風に聞こえたけど、何か積んであったものが落ちた音かもしれないし――」
俺たちは自然と小声になって囁きあう。
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shake
ギイ――、
ギッ――、
ギィ――、
ギッ――
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次いで、床が軋むような、規則的な音。
まるで誰かが二階を歩き回っているような――。
こんな電気も通っていない、古びた家で?
音はすぐに止んだ。
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「やだっ!ねえ今のなに?この家、誰かいるの?」
春奈が甲高い声を上げる。
「うるせえな!しらねえよ!」
「家鳴りかもしれない、古そうな建物だし。
ただ、あんな風に――」
あんな風に、まるで重いものが歩き回るかのように、移動する家鳴りなどあるだろうか。
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カーテンの隙間を見る。雨は弱まっていない。
次いで春奈の顔を見る。恐怖もあるだろうが、あいかわらず血色がよくない。
今、この家の外に出ることはできない。
「――確かめてくる」
俺が言うと、裕也が腕を掴んでくる。
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「待てよ!それなら俺が行く。お前みたいなヒョロい奴が行ってもしょうがねえ」
「やだよ!行くなら皆で行こう!誰か一人で行くなんてダメだよ!」
春奈が泣きそうな顔で訴える。
俺と裕也は顔を見合わせ、頷いてから立ち上がる。
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洋間を出て、玄関に向かう。
先頭に裕也、次いで俺、春奈という順番だ。春奈は震えながら、俺の背中にべったりと身体を寄せている。
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二階に向かう階段を登る。
shake
ジャリリ――
二階にたどり着いたところで、先ほど玄関で聞いたのと同じ、固いものを踏んだ音が足元から響いた。
「――また、鏡が割れてる。足滑らせないように気をつけろ」
一度携帯の液晶で足元を照らした裕也が、前を向いたまま固い声で言う。
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二階の廊下は一階よりも一層暗かった。
廊下に面して閉じているドアが三つほどある。
裕也は一番手前のドアの前に立つと、俺をちらりと振り返り自分の携帯を手渡してきた。何かに遭遇した際、両手を空けておきたいということか。
そして、小さく深呼吸をしてから、勢いよくドアを開け放った。
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「うわあっ――!!」
裕也が悲鳴を上げ、バランスを崩して尻餅をついた。
背後で春奈が爪を立てて肩を掴んでくる。
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「どうした!」
俺は裕也の顔をちらりと覗いて、その視線の先を見る。
洋間と同じく、分厚いカーテンが閉められた部屋。
ただ、隙間から射す外の光で、薄暗い程度の光度。
その薄闇の中、奇妙な形の人影が立っていた。
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music:3
昆虫のように細長い手足。
砂時計のようにくびれた胴体。
奇妙に間延びし細くなっているのに、右側だけ不格好に飛び出した頭部。
顔面に至っては失敗した福笑いのようである。
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釣りあがった左目。
パーツを間違えたかのような大きな右目。
不格好に左に曲がった鼻。
唇は左が上に釣りあがり、反対に右は下に引っ張られている。
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厭な人影。
しかしどこか見覚えのある人影。
形は違えど、服の色と模様は俺が身に着けている――、
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music:4
「――なんだ、鏡じゃないか」
俺はほっと息を吐き出し、肩の力を抜く。
俺の前に立つもの――それは奇妙に歪んだ鏡に映し出された、俺自身の姿だった。
俺が鏡に向かって手を振ると、鏡の中の俺もゆわんゆわんと像を歪ませながら、手を振り返す。
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「なんだよ、驚かせやがって!」
裕也は尻餅をついたまま悪態をつく。
「しかし、なんだってこの鏡はこんなに歪んで映るんだ?」
俺は部屋の中に踏み込んで、鏡に近づき表面を撫でる。
――デコボコした感触。ある場所はへこみ、ある場所は張り出している。
火事――でもあったのだろうか?
鏡の素材はよくわからないが、熱によって表面が歪んでしまった様を想像する。
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「――ここ、娘さんの部屋だったのかな?」
春奈が室内を見渡しながらつぶやく。
大きなクローゼット、窓際に置かれた机、小物が置かれた棚、洒落た柄の掛布団が掛かったベッドなど、それぞれに若い女性が好みそうなデザインが取り入れられたものばかりが揃えられていた。
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部屋自体はきれいに整理されていた。
ただ一か所、机の上だけは乱雑に物が置かれて散らかっていた。
分厚い紙の束を無理やり詰め込んだクリアファイル、複数の錠剤のパッケージ、包帯の束、業務用かと思われる大きな消毒液、そして小さな写真立て――。
見るともなしに覗きこむと、写真立てには一人の女性が映っていた。
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美しい女性だった。
モデルのように整った身体のライン。
白い肌に黒く長い髪。
ややつりあがった瞳と、すっと真っすぐに通った鼻すじ、小さな蕾のような唇。
狐のような――という感想は、先ほど洋間で見た狸顔の娘と対比して自然に連想されてものかもしれない。
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「さっきの子のお姉さんの部屋――なのかもしれないね」
春奈の言葉にうなづきながら、ずいぶん対照的な姉妹だな、と思った。
暗い表情で背を丸めていた先ほどの娘に比べると、こちらの女性は自信が顔にあふれていた。
服装も露出の高いもので、細い身体のラインの中、胸だけが男の視線を吸い寄せる圧倒的な存在感を出している。
これだけ美しい姉がいたとしたら、その妹は容姿に大層コンプレックスを抱いただろうな、とぼんやり思った。
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「どうでもいいよ、ここには誰もいなかったんだし、次いこうぜ、次――」
sound:32
shake
ジリリリリリリリリリ――
突如、古い電話のベルが鳴り響いた。
「きゃあああああああああああッ!」
春奈が悲鳴を上げて部屋を飛び出していく。
慌てて裕也がその後を追う。
二人が慌ただしく階段を降りていく音。
shake
ズッ――ダダダダダ――バタン!
「あああああああああああッ!」
「春奈――!」
続けざまに階下から物音と悲鳴が聞こえてきた。
俺も部屋を飛び出す。
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手探りで壁を伝いながら、慎重に階段を降りる。
階下では手首を抑えてうずくまる春奈と、その脇で彼女の肩をゆする裕也の姿があった。
「どうした!」
「こいつが足を滑らせて階段から落ちたんだ!それで床に散らばった破片で手首を――」
見ると、彼女の右手首からはドクドクとおびただしい量の血が流れていた。
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「――痛、い」
「おい、春奈!しっかりしろ、おい!」
ガクガクと春奈の肩をゆする裕也。いけない、取り乱している。
「裕也!春奈を洋間のソファまで連れていけ!
タオルで腕の動脈を縛って止血しろ!救急に連絡を!
俺はさっきの部屋にあった、包帯と消毒液を持ってくる!」
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俺は急いで階段を駆け上がり、元いた部屋に走り込む。
机の上の包帯と消毒液の瓶を掴み取ると、瓶が重しの代わりになっていたのか、クリアファイルが床に滑り落ちた。
バサア――
中に挟まれていた大量の紙が床中に広がる。
一枚一枚はポストカードくらいのサイズである。――写真だった。
それが何十枚も、床の上に。
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机の上に、二枚だけ写真が残っていた。
一枚は表を向いており、もう一枚は裏を向いている。
表向きの写真を見ると、洋間の写真立ての中の人物と同じ、あの娘だった。
上半身だけが映った、証明写真のような写真。
写真の下半分が折れて、裏側が覗いている。
裏側に文字が書かれているのが目に入る。
数字――。
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『1987/10/5』
87年というと、今からちょうど30年ほど前か。
あの写真立ても、ずいぶん古い写真だと思ったのだ。
裏返ったもう一枚には、『1988/5/3』の文字。
写真をめくる。
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そこにはあの娘が映っていた。
しかし、その面影は微妙に変化していた。
垂れて細かった目が、ぱっちりと切れ長になっている。
ひと回り目が大きくなったような印象を受けた。
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俺は予感がしてその場にしゃがみこむ。
床に散らばった写真の数々。
あるものは表になっていて、あるものは裏返っている。
裏返ってものには全て、手書きで日付が記されている。
表の写真には――様々な女の上半身が映っている。
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様々な――そう思わせるほどに様変わりしていく、同一の女の顔が。
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俺はとり憑かれたように写真をかき集めた。
そして裏返し、年代と日付を揃えていく。
一つの分厚い束が出来上がった。
表にして、下部分に親指を添え、一気にめくる。
そう――パラパラ漫画のように。
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『丸顔で狸みたいだな――』
裕也がそう言った少女の顔が、みるみる変わっていく。
目が大きく切れ長になり、鼻筋が通り、唇が小さくなり、頬をこけ、顎が細くなり――。
まるで引き伸ばされるように顔の輪郭が細くなっていく。
いつしか俺が狐みたいだと思った、あの机の写真立ての女に変わっている。
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だが、変化はまだ終わらない。
女の目はさらに微妙に大きさを増し、鼻は高くなり、唇はふくよかになり、頬はますますこけ、顎はとがっていく――。
女の髪に、白いものが混じり始める。
目の下や口元にも、小さなしわが寄り始めた。
それでも女の変化は止まらない。
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女の髪はある時から急に、不自然に黒く、長くなった。顔の輪郭を隠すかのような長髪。
目はさらに大きくなり、吊りあがり、顔じゅうのしわは全く見えなくなった。
頬が蝋人形のように白い。
唇が血のように赤い。
女の顔が作り物めいていく。
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これは、この女の整形の記録だ。
顔じゅうを切り裂き、拡げ、削り、足し、引っ張り、吊り上げる。
変わっていない部分など、もはやどこにもない。
はじめのあの少女の面影はどこにもなかった。
それでも――。
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女の顔の部位が悲鳴を上げていくのがわかる。
たるんで垂れ下がった左目。
肉に埋もれて小さくなった右目。
不格好に右に曲がった鼻。
唇は左が下に垂れ、反対に右は釣り針でもかかっているかのように上に引っ張られている。
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女の顔は――壊れてしまっていた。
まるで失敗した福笑いのように。
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どれくらいの間、俺はそうして床にしゃがみこんでいたのだろう。
背後――ドアを開け放った部屋の入口で、ギィ――と床が軋む音がした。
その音に、はっとして顔を上げる。
俺の目の前にはちょうどあの鏡が立っていた。
奇妙に細長くなった俺の顔がそこに映る。
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その俺の背後。
女が立っていた。
長い黒髪に白い肌。
白いネグリジェのようなヒラヒラした服を着ている。
そこからすらりと伸びる、健康的な細い手足。
そしてなによりその顔は、絵画のように整っている。
美しい――女だった。
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鏡の中で、視線が交差する。
歪んだ鏡に映ったその美しい女は、俺の背後でニコリと微笑んだ。
作者綿貫一
皆様、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年一発目、書初めですね。
それでは、こんな噺を。
※珍味様のお許しをいただいて改題いたしました。
「歪んだ鏡」→「メデューサ」