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その日の僕は珍しく、朝から慌ただしく動いていた。
テーブルの上に積み上げられたカップ麺や弁当の空容器なんかを袋に詰め込み、もはやフローリングだったのかも定かでない服の山をかき分けて、それを一つ一つ丁寧に畳んではクローゼットにしまっていく。
運動不足の僕にとって、もうこの時点ですでに頭がフラフラしていたんだけれど、普段やる気のない人間がいざ目標を立てると、どこからか不思議な力が湧いてくるもんだ。
ほら、自殺する前ってみんな身の回りを綺麗にしたり、大事な人に遺書を残したりするっていうじゃない?僕も例に漏れずそうしようかと思ってさ。遺書はメンドくさいから書かないけどね。
普段はまず触る事のない窓を開け放つと、待ってました!とばかりに春特有の生暖かい風が入り込んできて、僕は埃と花粉のせいで三回立て続けにクシャミをした。
窓を拭き上げ、腰の痛みに耐えながらようやくその全貌を現した床までも余す事なく隅々まで拭き上げた。真っ黒になった雑巾はバンバンに膨らんだゴミ袋に無理やり詰め込んでキツく縛った。疲れたよほんと。
だって、たかだか六畳一間の部屋を掃除するのに費やした時間を計算してみると、ざっと三時間を超えていたんだから。
まあ、ここに越してきてから掃除という掃除なんて一度もした事がなかったから、それぐらいはかかっても当然かもしれないけど。
僕はピカピカになった部屋に満足すると、ベランダに出てキャスターに火をつけた。公園ではしゃぐ子供達が楽しそうだ。僕にもあんな頃があったのだろうか。しかしうるさいぐらい元気だな。
人の気もしらないで。
さてと、僕は最後の煙を深く胸に吸い込んで灰皿に擦りつけると、手すりに右足をかけた。
よく考えると2階以上の高さからでも下を見れないくらい臆病者だった僕が、いま6階の高さから身を乗り出しているというのに何も感じていない。人間は生きる意味を失うとこうも変わるものなのか。
さらば僕の22年間。
もう生まれ変わらなくていいや。
… … …
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決してビビってる訳じゃないんだけど、今から飛び降りる予定の駐車場を見ていたら、キュウって腹が鳴ったんだ。
どうやら今から死のうとしている人間でも腹は減るみたいだ。どうせなら何か食ってからでも遅くないような気がして、僕は夜に死ぬ事にした。
コンビニでサンドイッチなんかを買ってマンションに戻ると、エントランスでキチッとした身なりの女性と目があった。第一印象は化粧っ気の少ない美人だ。
女性は「お待ちしておりました」なんて言いながら近づいてきて「失礼ですが、ヤマモトタカオ様ですよね?」と、鞄から一枚の紙を取り出した。
シャンプーのいい匂いがして「そうですが、僕になんか用ですか?」と、もうすぐ死ぬくせに、妙に気取った言い方をしてしまった。
女性はそんな気取った僕に対してにっこりと微笑み「アンケート調査にご協力願えませんでしょうか?」と言ってきた。笑顔も満点だ。
女性は僕の返事を待たずして、慣れた手つきで用紙をボールペン付きの下敷きに挟みこむと、「どうぞ」と僕に差し出してきた。
用紙の一番上の項目には『これから自殺をお考えの皆様へ』と、書かれていた。
女性の名はヒグチさんというらしい。派遣で統計調査のアルバイトをしているのだそうだ。
つらつらと目を通してみると、氏名、住所、家族構成、生い立ち、初恋の相手、将来の夢、過去におこなった一番の善行、過去におかした一番の悪行、成功談、失敗談、自殺を思い立った経緯、自殺の手段、最後に食べたいもの、最後に逢いたい人、最後に行きたい場所、最後に復讐したい人。とあった。
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ヒグチさんは一時間後にまた来ますと言って帰っていった。僕は一旦部屋に戻り、綺麗になったテーブルの上に用紙を置いた。
色々と突っ込みたい所は山積みだが、一番の疑問はなぜ僕が今夜自殺しようとしている事を、見ず知らずの人間が知っているのか?だ。
僕が自殺を思い立ったのは昨日の夜の事で、もちろん誰にも言ってないので知ってるのは僕だけのはずだ。
死にたくなった理由は至ってシンプル。昨日の夕方、長年想い続けてきたカワシマさんに無謀にも告って、みごと撃沈したからさ。
「ごめんなさい、ヤマモト君をそんな目で見た事がないの」だって。
あー、死にたい。
そんな事で自殺するなんて馬鹿じゃないの?と思われるかも知れないが、それはあくまでも踏ん切りをつける為のきっかけであって、僕はもう何年も前から死ぬタイミングを探していたような気がする。僕は子供の頃から何も一人で出来ないクズだったんだ。
勉強もダメ、運動もダメ、風呂がどうも嫌いで今思えば相当不潔だった気がする。いつも窓際で漫画ばっかり読んでるチビで根暗な眼鏡っ子。ついたアダ名はのび太。クラスはもちろん、学年レベルでイジメられた時期もあったさ。
なんとか偏差値底辺の高校に進学したのはいいけど、そこでも恋人どころか友達の一人も出来なかった。そういえば親父の浮気が原因で、一家が離散したのも確かこの頃だった気がする。あんまり覚えてないや。
とにかく、あと10分もしたらまたあの綺麗な子がやってくるんだと思ったら、少しドキドキしている自分がいた。
最後に逢いたい人。
最後に行きたい場所。
最後に復讐したい人。
あとこの三つを埋めたらアンケートも終わりなんだけど、どうも適当な答えが思いつかない。
最後に逢いたい人。もう何年も家族とは会ってないけど、別に今更逢いたいとも思わないし、好きな芸能人の名前でも書こうかと思ったんだけど、やくみつるなんて書いたらあの人に笑われそうなのでやめておいた。
『ヒグチさん』
これでいいか。
最後に行きたい場所。ずいぶんと悩んで『天国』にした。
ヒグチさんが僕の部屋のインターフォンを鳴らしたのは、約束通りの時間だった。
完成したアンケート用紙を持って一階のエントランスに降りると、ヒグチさんはリクルートスーツから、パーカーとデニム姿に変わっていた。
ヒグチさんは僕の書いたアンケート用紙をジッとながめて、少し時間を置いてから「飛び降り自殺はあまりお勧めできませんね」と言った。
僕が「じゃあほかに手っ取り早い死に方を教えてくれますか?」と聞いたらヒグチさんは「さあ?」と答えた。
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僕は今、ヒグチさんが運転する軽自動車の助手席に座っている。
最後に行きたい場所の第二候補をしつこく聞かれたので、映画館と答えたんだ。
「最後に逢いたい人は私で叶いましたね。それでは最後に行きたい場所、映画館に行きましょう」
まさか同行してくれるなんて思わないから適当に言った答えなのに、有無を言わさない彼女の雰囲気と少しの下心が勝り、僕は彼女の言う通りにする事にした。
車の中は彼女と同じ香りが充満していた。色々と聞きたい事もあったのに、元来の口下手と相まって、彼女との二人きりの空間に酔ったのか、満足してしまってすっかりと忘れてしまっていた。
映画館を出るともう日は沈んでいて、街には至る所に明るいネオンが灯っていた。
映画の内容なんて全く覚えていない。黙ってスクリーンを見つめるヒグチさんの横顔だけは覚えているけどね。
もう気づいていると思うけど、僕はヒグチさんに一目惚れしてしまった。昨日カワシマさんにフラれた事なんて、その時の僕にはもうどうでも良い出来事に変わっていたんだ。
車に乗り込むと、ヒグチさんはアンケート用紙を見つめながら「さてと」と言って「最後に復讐したい相手はヤジマさんですね」と、エンジンをかけながら言った。
ヤジマとは中学の頃に僕を虐めていた首謀者だ。ヤジマは体格が良くて頭もキレる。家は金持ちで俳優のような甘いマスクをしていた。まるでジャイアンとスネ夫と出木杉くんの良い所をとってごちゃ混ぜにしたような、何とも羨ましい男だった。
ヤジマの言う事は絶対で、ヤジマが右を向けばみんな右を向くし、白い紙を黒だと言えばその紙は一瞬にして黒くなるのだ。
そんなヤジマに嫌われた僕の末路は想像してくれたら分かると思うけど、それはもうかなりの壮絶を極めた。
「ヤマモト様、それでは、今からヤジマさんに復讐しに参りましょう」
ヒグチさんはスマホからどこかへ電話をかけると、ものの3分程で「ヤジマさんの現在の住所が分かりました」と言った。
僕はもう死ぬ気が失せたから復讐なんてどうでもいいよ、と言いたかったんだけど、それを言ってしまったらヒグチさんとの時間が終わってしまうような気がして言い出せなかった。
新たにヒグチさんから渡されたアンケート用紙には、愛犬をさらうとか、家を燃やすとか、財産を奪うとか、恋人を奪うとか、家族を奪うとかの復讐項目がズラリと並んでいた。
最後の「未来を奪う」についての意味を質問すると、ヒグチさんは僕の予想通りに「ターゲットを殺すという意味です」と答えた。
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ヤジマが住むという街に着いたのはそれから3時間も経ってからだった。ナビも見ないでよく迷わずに来れたなと思わず感心してしまった。
車内ではお互いほとんど無言だったけれど、ヒグチさんがかけてくれた音楽にとても癒されたのをおぼえている。
僕はというと、出された復讐項目の中では一番優しいと思われる『睡眠を妨げる』を選んだ。今日から一週間、ヤジマは謎の頭痛と幻聴によって眠れなくなるらしい。
もちろんヒグチさんの言う事を全て信じた訳ではないが、ヒグチさんが言うのだから多分そうなるのだろう。
ヤジマの帰宅を待って陰から顔を確認すると、確かにヤジマだった。あの顔を見るだけで僕の方こそ頭痛に悩まされそうだと思ったよ。
僕の仕事はそれだけだった。ヤジマの顔を確認して、復讐に承諾しますという念書を一筆書いただけで終わってしまった。
「復讐を見届けてから死にますか?」
帰りの車の中でヒグチさんにそう聞かれたので、僕は自分の今の素直な気持ちを伝える事にした。
「すいません。今更ですが僕はもう死ぬつもりはありません」ヒグチさんは「どういう事ですか?」と前を向いたまま言った。
「僕にはもう死ぬ理由がなくなってしまったからです」僕は思い切ってシフトレバーの上に置いてあるヒグチさんの左手に、自分の手のひらを重ねた。
「好きです。ヒグチさん」
長い沈黙が続き、ヒグチさんは車を安全な路肩にとめた。
肩が小さく震えていたので、てっきり僕の告白に感動してくれているのかと思ったんだけど、ヒグチさんは笑いを噛み殺しているだけだった。
「ヤマモト様、あなたは何か勘違いをされているようですね。あなたはもう既に亡くなってらっしゃるのですよ」
そしてその後ヒグチさんの言った内容は、いまの僕にとってとても衝撃的で、破滅的で、信じたくはないものだった。
まずヒグチさんの勤める会社は『自死専門 走馬燈株式会社 』というらしい。
それは読んで字のごとく、人が死ぬ間際に見る走馬燈を、アンケートを取る事によってより充実したものにし、少しでも現世に残した無念を晴らすお手伝いを目的としているんだそうな。
「ヤマモト様は全国の曰く付き物件の数をご存知ですか? 今の時代、ヤマモト様みたいに簡単に命を落とす若者たちが後を絶ちません。
飛び降り、首吊り、リストカット、服毒自殺に練炭自殺も多いですね。困ったものです。
社会問題になってるんですよ。
実際に毎年もの凄い勢いで、日本中に曰く付き物件が増えていってるんですから」
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そうか、そうだった。
確かにヒグチさんの言う通り、僕はあの時目の前の手すりを乗り越えて、何も掴むものがない向こう側へと飛び降りてしまったんだっけ。
「そうです。ヤマモト様が今見ているこの光景も、この瞬間も全てがあなたの走馬燈の一部なんです」
ぐらりとヒグチさんの綺麗な顔が歪んだ。
「ヤマモト様が自死に至った一番の理由、『失恋』は、私を好きになる事で解消されましたし、あなたが今まで辛く抱いてきた根底でもあるヤジマさんへの『復讐』も、彼を不眠症にする事で無事に成し遂げられます。
これであなたが残した現世に対しての未練、思念は、全て消えた事になります。
本当におめでとうございました。
これでヤマモト様が心置きなく成仏して頂ける事を、私たち会社の人間共々、祈っております。間違ってもあの場所に化けて出たりはしないで下さいね」
僕はその時すぐに「君に対しての未練がまだ残っているんだけどな」と言ったんだけど、残念ながらヒグチさんの耳には届いていなかったようだ。
「それではヤマモト様、最後に『復讐を最後まで見届けない』の部分に、サインをお願いできますか?」
ヒグチさんは本当に仕事熱心な女性だ。
【了】
作者ロビンⓂ︎
アンケート調査2
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