患者が診療所を再び訪れたのは、約束されていた日の午後のことだった。
彼は狼狽していた。
それはそうだろう。一週間前には鎖骨と左胸の間に位置していた人面疽は、今や彼の首筋に上ってきていた。
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shake
「――ああ、これはいけません。すぐに手術をいたします。千里君、急いで支度をして」
桐子はそう僕に命じ、自身は奥の間に引っ込んだ。
僕は、彼を施術の間へと案内し、上半身の衣服を脱がせると、手術台の上に身体を横たわらせ、その四肢を固定した。
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shake
「――ちょ、ちょっと。大丈夫なんですか?こんな、町医者の一室で手術なんて。
誰が執刀するんです?麻酔は?
だいたい、化物相手に手術なんて――」
患者がしきりに文句を口にする。
しかし、僕は言いつけ通り、彼の拘束を緩めたりしない。
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そうこうしているうちに、奥の間から桐子が姿を現す。
白衣に身を包んだ、この医院の主。
女医、江戸桐子。
彼女は患者に近づき、優しく語りかける。
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「お待たせいたしました。これからこの私が、手術を行います。
ご安心ください。私は専門家です。
現に、先日処方したお薬も、よく効いたでしょう?」
患者は目を剥いて反論する。
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shake
「何言ってんだ!見ろ、この人面疽!こないだよりも、上ってきているじゃあないか。
あのインチキな呪符のせいだろう。あれのどこが薬だと云うんだ!」
その言葉に、桐子は平然とした様子で応える。
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「私の言葉に何一つ誤ったところはございませんよ。
先日申し上げた通り、あれは生ける者にはなんの害もありませんが、この世に肉を持たぬモノにとっては毒となる薬。
おそらく、先日ここで飲んだ一口以外、貴方がご自分であの薬を飲まれることはなかったでしょうが――一口でも効果はてきめんだったようですね。
こちらの人面疽が、顔面に近づいて来たのがその証拠。
そうですね――?」
つい、と顔を寄せる。
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「亡くなった――星明人さん」
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その言葉に、患者の顔が引きつった。
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「初めから――あべこべだったのです」
桐子は云う。
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「この千里君に先日、森野陽子さんを訪ねてもらいました。
その際に、彼女の口から貴方の証言とは異なる事実を聞かされた、と報告を受けています。
すなわち――陽子さんは明人さんからの告白を受け入れていなかったこと。
そしてもうひとつ、室井康雄と名乗っていた貴方の『顔』についてです。
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貴方のその『顔』は、崖から落ちた星明人さんのものでした。
しかし貴方はこの医院に、室井康雄さんの健康保険証を持ち、自ら室井康雄を名乗った。
これは何故か――」
手術室に掛けた油絵――先日描いていた夕暮れの人物と影の絵――を見ながら、白衣の女は言葉を紡ぐ。
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「真相はこう云うことではないですか?
貴方、星明人さんは森野陽子さんに思いのたけをぶつけ、結果、断られた。
彼女の意中の相手は、貴方ではなく貴方の幼馴染にして親友である、室井康雄さん――この人面疽の人物――だったのです」
よくある三角関係だ。ここまでは。
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「思いの報われなかった貴方は、康雄さんをふたりだけの登山に誘った。
話がしたかっただけなのか、他に目的があったかは知りようもありませんが、その登山の途中、事故が起こった。
貴方――星明人さんは、崖から転落して亡くなった」
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足を滑らせたんです。
手を伸ばしたんですけど、間に合わなくて。
身体が、崖の下に堕ちていきました。
それが、いやにゆっくり思えたんです。
ずっと目があったままで。
え?なんで俺が?って。
堕ちていくのが信じられなくて。
声も上げられなかった。
そのまま、昏い崖の下に――。
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「貴方はそのまま亡くなった。
しかし、貴方の亡魂(ぼうこん)は、その際近くにいた幼馴染みの親友、そして恋敵である室井康雄さんの身体に憑依した。
私、申しましたでしょう――?
憑依や呪いの類いと云うモノは――」
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それを受ける側に、受け入れるだけの条件が整っていなければ成立しないのです――桐子は人面疽の頬を優しく撫でる。
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貴方の強い執念――いや、妄念でしょうか――と、康雄さんの中の、親友の思い人を奪ってしまったという引け目――罪悪感――が、憑依を許してしまった。
はじめは明人さん、貴方が康雄さんの身体に人面疽という形で現れたはずです。
康雄さんは事故後、一度憔悴した様子で曜子さんの前に姿を見せていますからね。
しかしその後、さらに特異なことが起きた。
主従が――逆転した」
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壁に掛けられた絵画。
桐子が夢に視た光景。
夕暮れの緋色の中、輪郭を失った人物。
存在感を際立たせる影。
桐子の夢はどこかに繋がっている。
この世界の、どこかにある真実に。
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「貴方の顔は康雄さんの胴体から首筋を上り――やがて顔面へとたどり着いた。
最終的に、康雄さんは顔面を奪われ、貴方の顔が主としてその場に収まった。
逆に康雄さんの顔は従――人面疽として、身体に追いやられてしまったのです」
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逆転した主従――あの絵の人物と影のように。
この身体は康雄のものだったのか。
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「こうして貴方は生者に成り代わることに成功した。
恋敵の康雄さんは消え、自身は再び曜子さんの恋を手に入れるチャンスを得た――。
しかし、貴方の本来の身体は深い崖の下です。
貴方の持ち物――保険証をはじめとする、身分証明書の類い――は、一緒に崖下に落下したのでしょう――」
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診察の際に提示された、康雄の保険証。
顔写真のないものだったので、入れ替わりに気が付かなかった。
大学で、あの写真を見るまで。
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『貴女の好きな男性はどちらですか?』
『もちろん、このタオルを頭に巻いた――室井康雄さんです』
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曜子は――僕らが明人だと思っていた――人面疽の顔の男性を指差して、それを康雄だと証言した。
それであっさり魔法が解けた。
あまりにも――陳腐な魔法が。
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「一時身体を支配できたとはいえ、貴方は本来この世に肉を持たぬ存在。
日に日に康雄さんの顔は、顔面へ戻ろうとしたのでしょう。
意識も――戻りかけてきた」
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――か、え、せ
あれは明人が僕らをミスリードすべく語った「恋人ををとるな」、という意味ではなかったのだ。
康雄の意識が、明人の憑依霊に対して「身体をかえせ」と訴えていたのだ。
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「そこで貴方は私のもとを訪れ、憑依の被害者を騙(かた)り、康雄さんの顔を私に排除させようと企んだ。
『明人と曜子が恋仲になった』という説明は、貴方の中の願望を反映したものか、つじつまが合わせやすかったのか――その、両方でしょうか。
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できれば直接的な排除を、と云う貴方の望みに対して、私は長期的な薬を処方しました。
ですが、私が処方した薬は、肉を持たぬ貴方には毒に働き、本来の生者である康雄さんには気付けになった。
主従は――戻ろうとしている」
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明人の顔が歪む。
顔面の輪郭から、目鼻が奇妙にずれ始める。
苦しげだ。
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「ですが、貴方の妄念はあまりに強力です。
まさか、あの札でもすんなり落ちないとは――もはや怨霊の域に足を踏み入れている。
それだけ強い呪符だったのです。
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事ここに至っては、もはや直接的な排除の手段を講じるしかない。
貴方のお望み通りに。もっとも、それを受けるのは康雄さんではなく明人さん、貴方の方ですが」
桐子の手に鋭利なメスが煌めく。
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shake
「――や、やめろ、俺はまだ――。やめてクレ、オレハアイツニ――」
「――これは、神鉄ヒヒイロカネから造られた特別な刃です。
明人さん、私は専門家です。表向きはしがない町医者ですが、この世ならぬモノに通じ、障りを除くことを裏の生業にしている。
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――少し、私のことを語りましょう。
この江戸医院の一族、穢土(えど)氏は代々異能者でした。
身寄りのなかった私は、縁あって先代に養子に迎えられた。
私もまた、生まれながらに業を背負った存在だったのです。
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私の隠し名は――穢土切子(えどきりこ)。
切った張ったは最後の手段。
ですが――」
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私にとっては本分なのです――切子の瞳がすっと細くなる。
獲物を見つめる、捕食者の眼光。
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手術台に身体を固定された明人はガタガタと震えている。
すでにその顔は顔面からずれ落ち、人面疽になっている。
涙を流している。
奥歯を鳴らしている。
嗚咽を漏らしている。
それでも切子は――。
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「さあ――貴方の未練、私が裁ち切って差し上げます。
この現世(うつしよ)から、永遠に――」
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この世ならぬモノの断末魔の絶叫が、部屋中に響き渡った。
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「――桐子さん、珈琲を淹れましたよ」
薄暗い、午後の診療室。
白衣の主はキャンバスに向かっていた。
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「――ああ、ありがとう千里君。
ちょうど切りが良い。いただくよ」
そう云って僕の手からカップを受けとる。
白く、細い指。
筆を取り、刃を取る、その手。
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「そういえば――この間の人面疽の件ですが、桐子さんは初め、明人の霊の憑依には気付いていなかったんですか?
怨霊に成りかかっていたって云っていましたよね。それだけ強い霊なら、すぐにわかったんじゃないですか?」
疑問に思っていたことを口にする。
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「うん。切ってみてわかったんだが、明人と康雄の魂はかなり根深く融合していたよ。
切り分けるのに、予想以上に骨が折れた。
明人の妄念と、康雄の罪悪感――それ以上に彼らの幼馴染みとしての絆が、深かったんだろうね。
だから、初見ではどちらが主従か、見誤ってしまった」
私もまだまだ、先代には遠く及ばないな――そう云って桐子は苦笑した。
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あの後、明人の霊を切り離された康雄の顔面は元に戻り、無事退院していった。
ふたりが登った山の、深く昏い崖下からは、明人の遺体が見つかった。
墜ちた際に、岩にでも激突したのであろう。
顔面は、本人とすぐには見分けがつかないほど、粉砕されていたという。
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僕は胸の中でそっと、彼の冥福を祈った。
桐子と違い、何もできない自分だから、せめて祈るくらいはしたいと思う。
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「ところで、また新しい絵を描いていたんですね。
もしかして――夢の絵ですか?」
桐子の背後のキャンバスを指して問う。
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「ああ、昨夜また、夢を視てね」
白衣の女医は笑う。
僕はため息をつく。
ちょうどその時――。
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カラン――。
医院の入り口のドアベルが鳴る音がした。
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「ほら、また新たな患者が来たようだよ?」
切子は目を細めてそう云った。
【了】
作者綿貫一
こんな噺を。
「【穢土切子の心霊カルテ】ふたつの顔 前編」
http://kowabana.jp/stories/28800/edit