目が覚めた。ここは、俺の部屋だ。
「しぐ、おはよ」
隣から声がした。聞き慣れた、安心できる声だ。
「おはよう、鈴那」
「今日もいいお天気だよ」
鈴那がそう言ってベッドから降りると仄かに甘い香りがした。
「そっか」
俺は怠い身体を起こして時計を見た。
「8時か」
時刻を確認すると、それを声に出して言った。
「今日、ゼロからお仕事の手伝いしてほしいって声掛かってるけど、しぐはどうする?」
仕事か、いつもなら行くところだが・・・今日は何もしたくない気分だ。それを察してか、鈴那もそのような訊ね方をしてきてくれた。
「ちょっと、休みたい」
「わかった、ゼロに言っとくね」
鈴那はスマホを開きゼロにメッセージを送った。
「しぐ、大丈夫?」
鈴那が心配そうに言った。
「一応。鈴那、ありがとう」
俺がそう言うと鈴那は優しく微笑んだ。
「朝ごはん、食べに行こ」
「うん」
居間へ行くと、一匹の黒い蛇がテーブルの上で丸まっているのが目に入った。
「おはよう、サキ」
俺の言葉にサキは「おう」とだけ返した。昨日に引き続き元気が無いように見えるが、大丈夫だろうか。
「あ、おはようございます。朝ごはんもうちょっとで出来ますー」
露が台所から顔を出して言った。最近は鈴那も手伝っていることもあるらしいが、今日は俺に気を使って起きるまで傍に居てくれたようだ。
朝食の準備が出来ると、俺達はテレビのニュースを観ながら食べ始めた。
「今日、あたしはゼロのお手伝い行ってくるね」
鈴那はそう言って麦茶を一口飲んだ。
「ごめんな、ゼロによろしく」
俺が申し訳なさそうに言うと彼女は優しい口調で「大丈夫だよ」と言った。
「今回は大したのじゃ無さそうだし、しぐは家でゆっくり休んでてね。あ、てゆーか露ちゃん毎日のように泊まっちゃってごめんね!」
「いえ、鈴那さんが居たほうが楽しいです!ね、兄さん」
「え、うん。楽しいよ」
この感覚は何なのだろう。鈴那はこれからゼロの手伝いに行ってしまう。それが少し寂しい。鈴那が傍に居ないのが不安に感じてしまう。こんなふうに思ったのは初めてだ。
「兄さん、大丈夫ですか?」
露が不安そうに訊いてきた。大丈夫なはずだ。鈴那は出掛けても家には露がいる。一人では無いのだ。
「うん」
俺はそう言うとコップの麦茶を飲み干した。
「食欲、無いのですか?」
そう言われてみると、露の作ってくれたサンドイッチは一口ぐらいしか食べていなかった。
「だ、大丈夫。ごめん」
俺はサンドイッチを食べ始めた。食欲が無いわけではない気がする。ただ、あまり食べる元気が無い。
「露ちゃん、今日はしぐのことよろしくね」
鈴那がそう言うと露は「はい」と言って微笑んだ。俺は・・・今日、どう過ごせばいいのだろうか?
○
鈴那がバイトに行ってから少し経った頃、俺が居間のソファで横になりボーっとしていると、朝の家事を終えた露がサキを頭に乗せて部屋へ入って来た。
「兄さん、もしお話したいことがあったら、私でよければいつでもお聞きしますよ。いつでもいいので」
露は俺の顔の前にしゃがんで言った。
「ありがとう・・・ちょっと散歩してくる」
俺はそう言ってソファから立ち上がった。
「・・・そうですか、いってらっしゃい」
先程まで一人が寂しかったのに、今はなぜか一人になりたい。俺は準備を済ませると、一言「行ってきます」とだけ言い、家を出た。ああ、今日も相変わらず暑い。
○
兄さんの元気が無い。私が話しかけても、まるで上の空だった。私は先程まで兄さんが寝そべっていたソファに腰を下ろし、頭の上の黒い蛇を摘まんで横に置いた。
「露ちゃん、今のちょっと乱暴じゃ・・・」
黒い蛇の妖怪、サキさんは少し悲しそうな声で私に言った。
「私じゃ駄目なのかな・・・」
こんな気持ちになったのは初めてだ。私がこの家に来て間もない頃の兄さんは確かに元気が無かった。それでも、私の声が届かないなんてことは一度も無かった。しかし今は違う。兄さんが、私のことを見ていない。
「しぐるは今、自分の過去と戦ってる真っ最中なんだろうな。まぁ、俺様の知ったことじゃねーけど・・・露ちゃんだって、しぐるの心の支えになってると思うぜ」
サキさんは私の横で丸まったまま言った。そんなことは分かっている。でもどうしてなのだろう。どうして私は、こんな気持ちになってしまっているのだろうか。
「鈴那さんは兄さんの彼女さんですから、兄さんにとって特別な存在なのは分かってます。でも、私だって今まで兄さんと一緒に暮らしてきたんです。悔しいわけじゃないですけど・・・私が兄さんにとっての特別になりたいなんて言うのは、ワガママでしょうか」
「露ちゃん・・・鈴那ちゃんに嫉妬してる?」
「嫉妬じゃありません!」
恥ずかしさを隠すためか、少し怒鳴ってしまった。
「あ、だよね。いや、ごめんマジで」
「すみません、怒鳴るつもりは無かったんです。ただ、私にとって兄さんは特別なんです」
私が幼い頃にお父さんは家を出て行ってしまい、お母さんは病気で死んでしまった。それからはずっとおばあちゃんに育てられたが、おばあちゃんもこの世を去ってしまうと、その後は親戚中をたらい回しにされ、挙句の果てに施設へ入所させられた。
私とおばあちゃんは少し変わった力を持っており、そのせいで親戚からは嫌われていたのだ。だから私の話をちゃんと聞いてくれる人なんて、今までおばあちゃん以外に居なかった。
しかしある時、この家に引き取られたのだ。最初は兄さんを少し怖そうな人だと思ったけれど、話をしているうちにとても穏やかで優しい人だと気付いた。お父様は海外で仕事をしており、顔も一度しか見たことは無いのでどんな人なのかはよく知らない。それでも、兄さんはいい人で、私の話もちゃんと聞いてくれた。
兄さんには元々、ひなちゃんという私と同じ歳の妹さんが居たらしいけれど、私が来る一年ほど前に亡くなられたそうだ。ひなちゃんは強い霊能力を持っていたらしく、私は自分以外にも特殊な力を持った人が居るということに少しだけ安心した。
それでも、当時の兄さんには霊感があっても霊能力は無かったので、私はこの力については隠していたのだ。
「なので、兄さんは私にとっておばあちゃんと同じくらい特別な人なんです。ちょっと変わってる人だとは思ったけど、私のことを大切にしてくれました。だから・・・ちょっと寂しいんですよ」
「露ちゃん、そんな過去があったのか」
「同情とかはやめてください。私、そういうことされるの苦手なんです。ごめんなさい、勝手に話しておいて同情するなだなんて・・・迷惑ですよね」
私がそう言うとサキさんは少し動揺しながらこちらを見た。
「い、いやぁ、同情するつもりはねーけど・・・露ちゃん、しぐるにはそのこと全部話したのか?」
「一応話しましたよ、能力のこともこの前知られましたし。もう隠してることはありません」
「いや、あるだろうよ露ちゃん」
その言葉を聞いて、私はサキさんの目を見た。サキさんも私を見ている。
「じゃあ私が何を隠してるっていうんですか?サキさんは何か分かるんですか?」
「まぁ落ち着け。確かにしぐるは露ちゃんみたいなしっかり者の子がいて嬉しいと思う。でもなぁ露ちゃん、本当はもっと甘えたいんじゃねーのか?義理だか何だか知らねーけど妹なんだから、しぐるもそうして欲しいと思うぜ?」
ハッとした。確かに、私から兄さんに甘えたことは少ないかもしれない。本当は優しい兄さんに甘えたい。もっと沢山撫でてもらいたい。それなのに私は、その気持ちを隠したまま兄さんと接していた。
「露ちゃんが気持ちを隠したままなら、しぐるだって本音は言ってくれないぜ。まぁ、ぶっちゃけ今のしぐるに甘えたところでどうなるかは知らんが・・・」
「じゃあどうすればいいんですか!」
私はサキさんの言葉を遮るように言った。胸の辺りが熱い。こんな気持ちになったのは初めてだ。
「ど・・・どうすればって、とりあえず気持ちだけでも伝えりゃ」
「そんな簡単に気持ちを伝えられたら、苦労しませんよ」
私はそう言ってソファから立ち上がり、バッグを肩に掛けて玄関へと向かった。
「露ちゃん、どっか行くのか?」
「散歩です。サキさんは来ないでください」
「・・・おう」
私は振り返らずに戸を閉めた。今は、一人で考える時間が欲しい。
○
小さな神社の隅、石のベンチに座りながら海を眺めている。俺は、こんなところで何をしているのだろう。
何気なく、空と海の境界線を指でなぞってみた。青い、呑まれてしまいそうなほど青い。
「ひな・・・どこにいるんだ」
どこにいるかなんて、死んでしまった人間の居場所が分かるはずもない。それでも零れてしまった言葉は、きっと心のどこかでまた会いたいと思ってしまっていることの表れなのだろう。
ふと、誰かの視線を感じて振り返った。
「雨宮じゃーん、何してんの?」
視線の相手はそう言うと手を振って笑った。
「春原・・・っ!?」
俺は思わず身構えた。春原は以前、呪術師連盟T支部を潰された時にゼロと超能力で戦っていたところを見たことあるが途轍もなく強い。確か、ゼロとはライバル同士的な関係で、呪術師連盟本部の人間だ。
「まぁまぁ、そんな警戒すんなって。別にお前に何かしようってんじゃねーよ。偶然見かけただけ」
春原はヘラヘラと笑いながら先程まで俺が座っていたベンチに腰を下ろした。
「本当に・・・何もしないんだな」
「しねーって!ほら、お前も座れば」
春原はベンチの空いているスペースをポンポンとして俺に座るよう促した。
「あ・・・うん」
俺はまだ少し警戒していたが、とりあえず春原の隣に座った。
「大丈夫かぁ?元気無いように見えたけど」
「う・・・い、色々あって」
「色々なぁ・・・大変だもんなぁ。俺んちも会長がめんどくさくてさぁ、特に今は本部に人が増えたから俺もだりぃ・・・人多いの苦手だからさ~」
「なぁ、なんでT支部を潰したんだ?」
「お?消したのは全支部だぜ。そんで各支部の長は全員本部に連れてった。ぶっちゃけゼロの手も借りたいんだけどさぁ、アイツめっちゃピリピリしてんじゃん。なんか、会長のことが気に喰わないらしくて、本部を毛嫌いしてんだよなぁ」
「会長って、どんな人なんだ?なんで、有力者達を招集するほど大事なことがあるのか?」
「おう、大事なことだな。あ、会長は人じゃねーぜ。なんだったかなぁ、妖怪だか・・・なんかそれっぽいこと言ってたけど」
人ではないのか。それならゼロが嫌うのも頷ける。
「なるほど。じゃあ、なんで支部を潰すなんてことしたんだ?普通に集めればいいのに」
「会長の指示だよ・・・外部に洩らしたくないことだからこういう手が一番だとか言ってさ。ほんとめんどくせーことするよなぁ」
春原は欠伸をしながら言った。
「あのさ、訊いていいことなのか分かんないけど、それってこの町で起きてる現象と関係あるのか?」
俺の問いに彼は「あるぜ~」と伸びをしながら答えた。
「だからゼロも本部で活動すりゃいいのに、アイツ頑固だからな。まぁ、どうせ親父さんに伝わった情報が琴羽経由で入ってきてるだろうけどよ」
「琴羽ちゃんの能力か。俺、よく知らないんだけど」
「ああー、なんかぁ予知とかしたり、残留思念を読み取ったり、あと自分から相手に念波を発信することで記憶のやり取りができるらしいぜ。サイコメトラーにしちゃ芸が達者だよな~、すげーと思うぜ」
春原はそう言って笑った。記憶のやり取りまで出来るのか。流石は神原家の人間である。
「でも、ゼロの親父さんって本部だから東京とかに居るんだろ?それでも念波って届くのかな」
「相手の顔と名前とオーラが分かれば出来るとか言ってたなぁ。だから出来てるんじゃね?あ、呪術師連盟の本部は東京じゃなくて神奈川だぜ。温泉で有名なとこのすぐ近くだよぉ。だから俺もこっちの方にはよく遊びに来るんだよな~」
「そんな近かったのか・・・まぁ、T支部も森の中にあったし、本部もそういう場所にひっそりとある感じなのかな。え、春原ってここまで何で来たの?電車?」
「いや、超能力」
「・・・うん?」
「冗談だってー!!電車でこっちの駅まで来て、あとは念動力で高速移動すればバスなんか使わなくったって余裕でこの町観光できるぜ!」
「だよな・・・いくら超能力があっても県境一つ跨いで移動するのは無理があるよ」
「一応できるぜ」
できるのか・・・確かに春原はすごい超能力者だ。念動推進力の高速移動、おそらく彼はそれを使って移動しているのだろう。
「でも、いくら速く移動してても目立たないか?」
「あぁ、俺って普段は使ってないけど認識阻害の能力もあるから、そういう時は一般人には見えないようにしてるぜ」
「認識阻害か、便利な能力だな」
だからあの時、幽霊のように消えることが出来たのか。俺は納得した。
不意に春原のズボンのポケットから携帯の着信音が鳴りだした。彼はその電話に出ると、面倒くさそうに相手と話し始めた。
「もしもーし・・・あ?今そっちに居ねーんだけど。わかったよ、すぐ戻りまーす。うい」
春原は電話を切ると俺を見て苦笑した。
「わりぃ、本部から呼び出されちまったわ。またな~」
「あ、おう。また」
俺の返事に彼は手を振りながら姿を消した。ここから飛んで帰るつもりなのだろうか。春原、少し不良っぽいところ以外は普通にいいヤツそうだ。初めて会ったときとは一気に印象が変わった。
スマホの画面を開くと、そこそこの時間が経過していることに気付いた。春原と会う前まで、ずっとここでボーっとしていたのか。本当に俺は何をしているのだろう。そろそろ家に帰らないと露も心配するかもしれない。そう思い、神社の階段を下りて海沿いの土手へ続く道を歩き出した。
作者mahiru
こんにちは、最近は暑すぎてあまり体調の優れない日々が続いております。皆様も熱中症等にはお気を付けください。
後編→ http://kowabana.jp/stories/29558