俺には4つ年上の姉がいる。
姉の名は玖埜霧御影(クノギリミカゲ)というのだがーーー彼女に出逢ったことによって、玖埜霧欧介の運命は劇的な変化を遂げたことは、まず間違いない。そしてそれは、姉さんにしてみても同じことだろう。姉さんにしてみても、玖埜霧夫妻や玖埜霧欧介と出逢ったことにより、変わったのだと思う。
人生は勿論ーーー運命が。
今のご時世、家族間の闇というものは、誰であれ持ち合わせている。言い様のない闇が犇めき、虐め、嫉妬、嫌悪、憎悪に溢れ、外側はどうにか保ってはいても、内側を覗けばぐちゃぐちゃのどろどろに崩壊されている、なんてことも珍しくはない。家族だからとはいえ、温かく優しく包み込まれるようなものとは限らないのだ。
そんな家族間の闇と言えば、代表例を上げれば虐待だろう。親が子どもに対して暴力を振るったり、育児を放棄するネグレクト、性的行為を強要するなど、近年増加傾向にある家族の深い闇。不快な闇。
玖埜霧御影もまた、家族という闇に囚われた哀れな被害者だった。被害者、というご都合主義な言葉を姉さんはとことん嫌っているし、被害者のつもりもないのだと思うが。しかし、彼女が虐待を受けていたのは、紛れもなく真実なのだ。
だが、誤解しないで頂きたい。姉さんが虐待を受けていたのは、姉さんや俺の両親である玖埜霧夫妻からではない。むしろ玖埜霧夫妻は、姉さんを虐待から守ったのだ。
実際に姉さんを虐待していた人は、姉さんの実母である。本当の母親。実の母親。姉さんを生んだ人。
そう。玖埜霧御影は玖埜霧夫妻の娘であって実子にあらず。玖埜霧夫妻の養子だ。詳細については不明な点が多いため省くが、実際に姉さんに手を上げていたのは、実母ではなく実母の側近らしい。まあ、どちらにしろ同じだ。子どもが身体的に、或いは精神的に苦痛を味わった時点で、虐待は成立したことになるのだから。
姉さんの実家は、とある宗教を信仰しているのだそうだ。これは最近、母親からちらりと話していたのだが、その宗教は明治時代にある1人の教祖により始まったそうだ。所謂カルト宗教というもので、信者はほとんどおらず、表舞台では教団も姿を表すことはなく、名前も流通していない。例え教団の名前が漏れても、そうと分かる人間はいないに等しいのだとか。人間の業は人間自身で祓い浄めるといったコンセプトらしく、贄ーーー生贄として、生きた人間から(変な話だが、この場合、死んだ人間ではだめらしい)臓器を取り出して邪神に捧げていた、とか。どこまで事実なのかは知らないが。
「……狂っているというより、壊れているんですよ。あの教団は」
眉をしかめ、苦々しく吐き捨てるように呟いた母親の言葉に、ゾッとした。母親が何をどこまで知っているのか気になるが、その領分に踏み込んでいいものなのかどうか、こちらとしても迷いがある。なので、結局は聞かず終いなのだが。
幸せというものほど、不確かなものはない。何故なら、幸せとは、人によって求める形が違うからだ。だから、大それたことを言うつもりもなければ、分かったような口を叩くつもりもないけれど。それでも言わせて貰えるのなら……姉さんは、あの教団に陶酔しきっている家庭に身を置いたままでは、幸せにはなれなかった。そう思えてならないのだ。
過去は過去でしかない、なんて綺麗事だ。過去は今まで生きてきた自分の過程を示すものだから。自分の家庭をーーー示すものだから。姉さんにしてみれば、それは忘れてしまいたい忌まわしいものだろうけれど、決して忘れられないのだろう。
こうして今、玖埜霧夫妻の養子として生きている今も、姉さんの心は未だに闇に捉えられたままだ。闇は深く根付き、闇雲に手を伸ばしても、足掻いても。
闇は深い。血の繋がりという闇は、とても深いのだ。
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「高校を卒業したら、玖埜霧家から出たい」
姉さんがそう言い出してから、1ヶ月が経過した。大学受験を控えていて、最近は受験勉強のために自室からあまり出て来ない。俺は姉さんの自室を通り過ぎる度に溜め息が漏れてしまう。
姉さんは、高校卒業と同時に家を出る。それは玖埜霧家を出て祖父母宅から大学に通うという意味合いでもあり、玖埜霧家の養子から外れるということでもある。
玖埜霧夫妻の娘でなくなり。玖埜霧欧介の弟でなくなる。
姉さんはその理由として、「将来的に欧介と結婚したいから」などと言っていたが……誤魔化されているような気がしてならない。玖埜霧夫妻に嫌気が差したとか、玖埜霧欧介の弟でいることに飽きたとか、そんな理由からではないだろうが。姉さんは今でも玖埜霧夫妻のことは崇拝しきっている。あの人達が右と言えば右と言うし、左と言えば左と言う、典型的ないい子ちゃんだ。弟の俺に対しては、扱いがかなり雑だが、未だに一緒にお風呂に入るし、夜はお揃いのパジャマを着て一緒に寝るし、仲良くお医者さんごっこだってする。
他人からすれば、これ以上ないくらい仲が良い家庭である。まあ、姉弟間の深い深い愛情については、あまり露呈すると通報され兼ねないので、ここら辺で止めておこう。風紀を乱すつもりはない。
つまりだ。そんな温かい家庭環境にあるにも関わらず、姉さんは玖埜霧家から出ると言うのだ。わざわざ自宅からでは通えない、県外の大学を選んだのも気になるのだが。確かに姉さんが学びたい学科というのは民族学であり、この辺には民族学が学べる大学はないので、県外に足を伸ばすしかないということになる。それは分かるのだが。
「でも……、養子縁組みを解消するって、唐突だよなあ」
養子縁組みを解消するとはいえ、姉さんはまだ未成年であるし、玖埜霧夫妻は保護者という形で姉さんの生活をサポートしていくとは言っていた。父親にしろ、母親にしろ、養子縁組みを解消するということに納得はいっていないし、疑問も尽きないようだが……俺と違い、姉さんに根掘り葉掘り問い詰めることも問い質すこともしなかった。渋ってはいたが、そこは親の常套句「あなたが思うようにしなさい」と、言っていた。
養子縁組みを解消したとしても、関係性は残したいという姉さんの希望も叶った。今後も玖埜霧夫妻や俺は姉さんの生活をサポートしていくし、付き合っていくつもりだ。父親は姉さんに「玖埜霧家はお前の実家だ。それは変わらない」とも言っていた。姉さんにとって、玖埜霧家は「家族」ではなくなるかもしれないけれど、玖埜霧夫妻が「両親」であることにも、玖埜霧欧介が「弟」であることには変わらない。
変わらないのだけども。
「……複雑だ」
今日は日曜日。休日も祝日も関係なく働く両親は、朝は定時に出勤した。昔は働き過ぎだとか、過労死するんじゃないかと心配したこともあったけれど、最近はそうは思わない。むしろ定年になって職から離れたら、退屈で死んでしまわないかを危惧するようになった。あの人達は、働くことこそが死なないための条件なのかもしれない。
姉さんも朝早くから図書館に出掛けたようで、家の中は俺1人だった。大きくなるにつれ、狭い狭いと思っていたが、1人になると急に家が広く感じるのは何故だろう。
「これからは、ずっとこうなんだよな」
両親は毎日朝が早くて夜は遅い。顔を合わせることは、ほとんどない。だが、姉さんがいたから特別寂しいとか、孤独を感じたことはなかった。そんな姉さんも、春先にはいなくなる。
嫌な気持ちになるのを払拭するかのように頭を振り、パジャマから家着に着替えた。朝食を済ませ、洗濯機を回す。両親がいなければ、今日は姉さんもいないので、必然的に俺が家事をこなさなければならない。
洗い終わった洗濯物を抱え、おっちらえっちら2階に運ぶ。ベランダに出て、洗濯物を干していく。姉さんや母親の下着を干すことにだって、最近は抵抗がなくなってきた。これは男の子としてどうなのだろう……
と。
「いてっ!」
こめかみに何かがぶつかった。こめかみを擦りながら、ふわりと足元に落ちたそれを見る。紙飛行機だ。
「何で紙飛行機が……」
近所の子どもが飛ばしていたんだろうか。うまい具合いに風に乗って、ここまで届いたのか。それにしても迷惑な……。やれやれと思いながら、紙飛行機を拾う。
「ん?」
そこには字が書かれてあった。そのままでは読めないので、そっと紙を広げる。そこにはさらりとした綺麗な字でこう書いてあった。
「心霊研究部からのお知らせ」
ネットで近所の霊感スポットを検索したところ、こちらのお宅がヒットしました。20年くらい前から、何故か取り壊されることなく現存している空き家です。噂によると、その空き家の庭先にある井戸が曰く付きらしい。是非とも、調査を宜しく!心霊研究部部長の岩下君にも、指令書は届けたyo!詳しいことは岩下君に聞いてyo!後は任せたyo!」
「……何だよ、yo!って」
突っ込みどころが満載だyo!
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「朝、2度寝してたら、窓から紙飛行機が飛んできたんだyo!」
変なラップ口調で決めポーズを取る岩下を、俺は冷ややかな視線で見つめる。ここは、紙飛行機に書かれてあった例の空き家前である。あれから俺はすぐに岩下に連絡を入れた。岩下の所にも、妙な紙飛行機は来ていたという情報を受け、取り敢えず例の空き家に集合ということになったのだ。
「おかしいんだyo!昨夜は確かに部屋の窓は閉めて寝たんだyo!でも、朝になったら窓が開いてて、紙飛行機が入って来たんだyo!」
「おい、岩下。いい加減、その妙な口調は止めろ」
「紙飛行機に何か字が書かれてあったんだyo!気になって開いてみたら、地図が書いてあったんだyo!それがここだyo!」
「普通に話せって言ってんだyo!」
あ、つられて変換間違えた。
「普通に話せって言ってんだよ。つまり、お前の所にも、ショコラから指令書(?)が来たんだな?」
「嗚呼、そうだ。間違いない。あいつ、硬筆検定2級だしな。この筆跡は間違いなく日野祥子のものだ」
ようやく口調を改めた岩下が頷く。日野祥子は、俺や岩下のクラスメート。そしてこの3人は、心霊研究部というオカルト部に所属しているメンツだ。
お調子者で、目先のことしか考えないオカルトマニアこと、部長の岩下。そして何故か強制的に副部長に認定されてしまった俺と、部員である日野祥子。
日野祥子は、本名の祥子と、チョコレート類に目がない性格であることから、ショコラという渾名で呼ばれている。
ショコラは見た目こそ、日なたぼっこをしている縁側の猫みたいな外観だが。こいつが意外に曲者で、しょっちゅう問題事を起こす問題児なのだ。オカルトに異様に精通しており、そのテの話を持ってきては、俺や岩下にけしかけるのだ。
ただまあ、そんなショコラも、只今絶賛病気療養中である。厄介な皮膚病を発症し、病院にて入院していたのだ。医者も首を傾げる奇病だったようで、これといった治療法も治療薬もなく、かなり深刻な状態だったらしい。今は何とか退院出来たようだが、自宅療養中だ。
そんなショコラからの指令ということもあり、俺としては警戒せねばと気を引き締めているのだが。
「ほほー。ここは確か、歯無しの井戸がある家だな。噂には聞いたことがあったが、まさかここだとは……」
オカルト通の岩下は、右手を翳して興味深そうに庭先に目をやる。そしてスタスタと無遠慮にも庭先へと足を進めた。
「おいおい、入るのかよ」
仕方なく、岩下の後に続く。空き家と言えども、勝手に入ることは不法侵入に当たるし、今すぐにでもとって帰りたかったが、岩下の阿呆を置いて帰るわけにもいかない。だが、岩下はそんな俺の優しさに露ほども思わず、興奮気味に言葉を続けた。
「ここはな……20年くらい前に実際に殺人事件があった家らしいぞ。ばあちゃんから聞いたから間違いない。この家に住む若い母親が生まれたばかりの赤ん坊を庭先の井戸に落としたらしい」
「何でまた……。育児ノイローゼってやつか?」
「詳しくは知らん。ただ、生まれたばかりの赤ん坊にな、歯が生えてたらしい」
「…、歯が生えてた?そんなことあるのか?」
「そんなことあるわけなかろうが。でも、その赤ん坊には歯が生えていた。小さな口から小さな白い歯がビッシリ生えてたんだ。それを見た母親が発狂してな。挙げ句、我が子を井戸に落とした。でもーーー」
遺体が見つからなかったらしい。
そんなことを話しつつ、俺達は例の井戸の前にいた。古そうな井戸だ。形は丸い筒状。材質はコンクリートだろうか。有名なホラー映画に出てくる井戸に似ている。そっと中を覗く。そんなには深くはない。底にはうっすらと溜まった水がぬらぬらと光っているのが見えた。
「ん?歯無しの井戸って呼ばれてるんだよな、この井戸」
だったらおかしくないか?
「生まれたばかりの赤ん坊に歯が生えてたってんで、母親が発狂して井戸に赤ん坊を棄てたんだろ。じゃあ、歯無しじゃないよな?歯は生えてたんだろ?それとも、何か別の由来があって、歯無しの井戸って呼ばれているのか?」
岩下は首を傾げた。
「さあな。俺も気になって、ばあちゃんに聞いたんだがな。ばあちゃんも詳しくは知らないそうだ。ただ、あの事件が起きてから、井戸は歯無しの井戸って呼ばれるようになったらしい」
「ふうん……」
「玖埜霧。お前はこのまま、庭先を捜索してくれ。他に何か見るかるかもしれないからな」
「……お前は、って。岩下はどうするんだよ」
「決まっとるだろ。俺は家の中を捜索してみる。何しろ、曰く付きの空き家だからな。掘り出し物が見つかるかもしれん」
それだけ言うと、岩下は疾風のように、ひゅんと走り去った。1人ぽつねんと残された俺は、しばらく呆然とその場に突っ立っていた。
捜索って。一体、何を捜索すりゃいいんだよ。
「あ、」
今、気付いた。井戸の傍に女の人がいる。ちょうど俺のすぐ真横だ。井戸のほうを向き、しゃがんでいる。顔は俯き加減でよく見えない。白っぽい寝巻きのような格好に足は裸足だ。一瞬、この家の人かと思ったが、違う。この家の荒れ具合いを見れば分かる。確かに空き家だ。人が住める要素はない。
じゃあ、ホームレスか?ホームレスが空き家をねぐらに使うことがあると聞いたことを思い出す。どちらにしろ、あまり関わってはいけない気がする。
女の人を横目で窺うと、彼女は世話しかなく両手を動かしていた。左手で何かを鷲掴みにし、右手で何かを引っ張るような仕草をしている。
ぶち、ぶち、ぶち、ぶち、ぶち。
ぶち、ぶち、ぶち、ぶち、ぶち。
ぶち、ぶち、ぶち、ぶち、ぶち。
歯だ。
女の人が鷲掴みにしていたのは、生まれたばかりの赤ん坊だった。黄ばんだお包みに包まれた、真っ赤な赤ん坊。目が異様なほど前に飛び出しており、つるんとした頭や顔には、青筋が幾つも浮かんでいる。女の人は、赤ん坊の口の中に指を捻入れ、歯を抜いているのだ。
赤ん坊は当たり前だが、痛いのだろう。顔が真っ赤に染まり、青筋を幾つも浮かべているのは、歯を抜かれる痛さによるものだろう。だが、苦悶の表情は浮かべるものの、泣き声を上げない。声を出せないほどに痛いのか、それとも事切れる寸前だからか。
「…、……、」
よろよろと後ずさる。その瞬間、女の人がゆらりと立ち上がった。赤ん坊を乱暴に持ち上げ、そのまま、宙でぶらんぶらんと揺らす。
……ゲボ。ゴボ。ゲボ。
赤ん坊の口から、血の混じった泡が垂れた。女の人は構わず、そのままぶらんぶらんと揺らし続けていたが、次の瞬間、パッと手を離した。井戸に吸い込まれるように、赤ん坊は見えなくなる。女の人は、しばらく井戸の中を覗き込んでいたが、脱力したように、またしゃがんだ。
女の人の右手は、真っ赤な血で染まっている。彼女は汚い物でも付いたように、血を地面に擦り付けていた。
ア、アアア……アアア…ア……アアア…ア
泣き声。赤ん坊の泣き声がする。女の人は弾かれたように立ち上がり、井戸の底を覗き込む。俺もまたつられて、見たくもないのに、井戸の中を覗いた。覗いてしまった。
ーーー赤ん坊だ。まるで逆立ちしているかのように、頭が下で足が上に来ている。お包みは落ちた時に外れたのだろう。裸だった。首がぐにゃりと変な方向を向いていたが、目はこちらを真っ直ぐ見ていた。
ア、アアア……アアア…ア……アアア…ア
火が付いたように、泣き叫ぶ赤ん坊。手を滅茶苦茶に動かし、助けを求めているかのように、こちらをじっと見てくる。その瞬間、俺は意識を失った。
⚫️⚫️⚫️
どれくらい気絶していたのだろう。ハッと目が覚める。姉さんが無表情で俺を見下ろしていた。
「おはよう」
「え……、お、お、はよう」
体を起こそうとするが、姉さんがそれを止めた。
「急に立つな。頭を打ってるんだから」
そう言われて、初めて後頭部に鈍い痛みを感じた。どうやら気を失って倒れた時に、しこたま頭をぶつけてしまったらしい。
「大したことはなさそうだけどね。ゆっくり起き上がりな」
姉さんに肩を借りながら、ゆっくりと上半身を起こす。ふと見れば、地面に幾つかの白っぽい小石のような物が目に入る。1つや2つではない、かなりの数が散らばっていた。
これは、まさかーーー
「歯だよ」
姉さんがニヤリとした。
⚫️⚫️⚫️
ここからは、姉さんから聞いた話。
今から20年前、ここには年老いた母親と、その娘が住んでいた。母親はある宗教に心酔しており、財産の全てを教団に注ぎ込んだ。そしてあろうことか、教祖を勤めていた男に、自分の娘までもを差し出したのだ。
教祖はレイプ紛いのことをしでかし、娘は妊娠する。しかし、教祖はその後すぐに自殺。自分で自分の歯を抜き、握り拳を口の中に突っ込み、窒息死したそうだ。
娘は堕胎を望んだが、母親に強く窘められ、仕方なく赤ん坊を自宅で生んだ。だが、生んだ子には、歯が生えていた。小さな口の中には、ビッシリと細かな歯で埋め尽くされていたのだ。娘はそれを見て気が触れてしまい、何としてでもこの化け物を始末しなくてはと狼狽えた。そこで閃いたのが、庭先にある井戸の存在だった。
娘はまだ臍の緒が付いたままの我が子を井戸まで連れて行き、我が子の口を抉じ開け、歯を抜いた。1本、また1本と抜いていく。少し引っ張れば、いとも容易く抜けていった。不思議なことに、赤ん坊は金切声1つ、発しなかった。
娘は赤ん坊を井戸に捨てた。これでひとまず大丈夫。そう思った。だが、赤ん坊は生きていた。首の骨が折れ、肩は脱臼し、内臓は破裂していた。だが、生きていたのだ。産声すら上げずに生まれてきた赤ん坊が、井戸に落とされて初めて泣いた。その姿を見た娘は本格的に発狂し、精神病院に今も入院中だそうだ。
そして、井戸に落とされて尚、生きていた赤ん坊の行方だがーーー
「娘の母親が育てていたそうだ」
その育て方というのが、また強烈だった。年老いた母親は、流石に井戸の中から赤ん坊を救出することは出来なかった。だからといって、外に助けを求めることもしなかった。
泣き声が聞こえれば、井戸の近くで子守唄を歌い、残飯や残り物を井戸の中に放った。1日中、井戸の中を覗き込み、井戸の底で歯がない口で残飯を貪る赤ん坊を見つめていたという。
「その赤ん坊……人間なの?」
姉さんは、「さあな」と首を傾げた。
「人間なのか化け物なのか、分からない。人間から生まれれば人間であるとも限らないだろうしね」
「その子、それからどうなったの」
「それも分かっていない。娘の母親のほうは、それからしばらくして家の中で孤独死していたそうだ。死後3週間は経過していて、死臭が近隣にまで臭ってきて、それで発覚したらしい。赤ん坊はーーー今でも見つかっていないんだよ」
姉さんは「遺体が」とは言わなかった。
姉さんは俺をおぶると、最後にちらりと井戸を見た。俺もつられてそちらを見る。小さな白い手が井戸の縁に掴まっているのが見えた気がしたが、あれは気のせいだということにしておこう
⚫️⚫️⚫️
翌日。いつものように中学校に登校すると、待ち構えていたように岩下が詰め寄ってきて、散々怒鳴られた。色々あってすっかり忘れていたが、岩下を家の中に残したまま、帰宅してしまったのだ。
「家から出てきたら玖埜霧はどこにもいないし。心配で、庭中探し回ったんだぞ。帰るなら一言くらい声を掛けたらどうだ。友達甲斐のないヤツめ」
「悪い。転んで頭を打っちゃってさ。しばらく気絶してたところを、図書館帰りの姉さんに助けられたんだ」
「まあ、それなら強くは責められんが……。嗚呼、そうだ。そういえば、家の中で面白い物を見つけたんだ」
岩下は声を潜め、俺の耳元に口を寄せた。
「歯だよ。家中に歯が散らばっていたんだ。それも1人や2人の歯じゃないんだよ。かなりの数の歯が落ちてた。それとなーーー」
家から出て行く時にふと玄関で振り返ったら、赤ん坊がハイハイしながらこっちに近付いてきたんだよ。その赤ん坊、歯が生えてた。口をグワーッと開けてな、小さな白い歯がビッシリ生えてて……滅茶苦茶怖かった」
「……マジで?」
「嗚呼。でも、見間違いだろうな。瞬きした次の瞬間には、見えなくなってたし」
そう言って岩下は快活に笑った。岩下の顔には、歯の生えた赤ん坊がしがみついていた。
歯無しの話は、これでおしまい。
作者まめのすけ。