意識が戻ってくるとすぐに、背中に冷たさを感じた。
どうやら私は横たわっているらしい。
目を閉じているため良くは分からないが、知らない場所にいるのだろう。
ずっと寝ていても仕方がないので、目を開けて周りを見る。どこから光が入っているのかは定かではないが、真っ暗というわけではないのだ。
真っ先に目に飛び込んだのは、灰色の天井だった。
上半身を起こして首を回す。四方八方、どこを見ても同じ光景。
つまり灰色の壁。それらはコンクリート製のようで、冷たさを帯びていた。
この空間はそれほど広くはなく、まるで独房のようだ。
そして何より重要なのは出入り口が見当たらないということ。脱出ができないのだ。
それを理解した頃には、私は既に絶望していた。
閉じ込められてしまったのだ。何の意味も無く。外に抜け出すことも不可能となれば、一体私はどうしろと言うのだろうか?
絶望の中私は思い出す。眠りに落ちる前の最後の記憶は、仕事帰りに一人歩いていたことだが……うまく思い出せない。
呆然としたままふらりと立ち上がり薄暗い部屋の中を歩く。
四回ほど部屋を回った時だったろうか。
私はあるものを見つけた。
それは一つの穴だった。小さく開けられたもので、指を入れるのが精いっぱいの大きさだ。
無性にその穴が気になり、さっきまでの絶望感などどこかに吹き飛んでしまった。
一番最初にやってみたことは指を入れることである。
人差し指に力を入れて穴にねじ込む。が、特に変わったことはなく穴に指が埋まっただけだった。
次にやることといえば、やはり覗くことだ。穴があれば中に何があるのか確認したくなるのが人間の性というものなのだろう。
腰を屈め頭を突き出して穴に目を当てる。
微調整の末、私が見たものは信じられないものだった。
そこには裸の男がいたのだ。
今私がいるような部屋で男は踊っていた。
踊り、といっても何か規則性があるわけではない。ただただ全身を使って激しく動いているだけだ。
一目で分かる。この動きは正常な精神をもった人間のすることではない、と。
つまり男は狂人だったのだ。
無性に怖くなり穴から目を離す。
男が見えなくなった後も心臓が五月蠅く鳴っていた。
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いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
床は硬く寝心地は悪いが、別段寒かったり暑かったりするわけではない。
寝ぼけた頭を振って体を起こすと、眠る前は無かったものが目に映った。
紛れもなく食料だった。
大きな器に入っているそれはは、固形食のような見た目をしている。
落ち着いて考えれば食べるべきか迷うところだが、空腹感がそれを許してくれない。
私は固形食を手に取り口に運んだ。旨くもなければ不味くもないが、腹は満たしてくれる。
機械的に固形食を食べている間私は考えていた。
ここに閉じ込められたのはなぜか。そして、それをしたのは誰なのか。
一番は、穴を通して見ることのできるあの裸の男は一体何なのか。
固形食が全て無くなった後にも私はそれを考え続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか? 私はいつの間にかあの狂人のことばかり考えていた。
なぜだか思考があの狂人に向かってしまうのだ。
何も刺激が無いこの部屋では、狂人というのは興味を引くものだったのかもしれない。
ふと気が付くと私は例の穴の前に立っていた。
慌ててその穴から離れる。
その時、私の頭にある考えが浮かんだ。
なぜ、狂人を見てはいけないのか?
誰にもその穴を覗くなとは言われていないのにも関わらず、なぜ私は穴を避けえている?
いいではないか、そのくらい。
私の足が少しずつ穴に近づく。
あの男でも見ていない限り、私も狂人になってしまうのではないだろうか?
そうだ。これは私自身の精神を守るためにやっていることなのだ。
だから、それほど悪いことではない。
…………悪いことでは、ない。
私は穴を覗きこんだ。
それからというもの、寝ている以外の時間は私は穴に目を当て続けた。
穴の中の男は常に動き続け、壁を殴り、意味不明なことを呟く。その様子が堪らなく面白いのだった。
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数日後。いつも通り起き上がり、穴に目を近づける。
しかし、男の姿が見えない。ただそこには薄暗い部屋が広がっているだけ。
おかしいと思い穴から目を離すと、あることに気が付いた。
これははいつもの穴ではないことを。いつも私が見ているものは特徴的な傷がついているが、今のにはついていない。
振り返って後ろの壁を見ると、そこには見慣れた穴が開いていた。
私は駆け足でそこに向かい、その頃にはもう一つの穴のことなど完全に忘れていたのだ。
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それから更に数日が経ったある日。
いつも通り私は一人、穴を覗いていた。
だが、その日はいつもとは様子が違う。
男の部屋に縄が吊るされていたのだ。
先端に輪が作ってあり、まるで首つりに使うような……。
男は珍しく動きを止め、縄を見つめていた。
何も動きが無く、退屈になってきたその時だった。
男が縄を掴み、何を思ったか首に通したのだ。それも、ジャンプをして無理やりに。
男の背丈よりも明らかに高いところに吊るされている縄。そこに首を通せば、結果は明らかだ。
男の喉から聞いたことのないような音が漏れる。口からは白い泡が噴き出ていた。
「ヒッ!」
私は悲鳴を上げ、穴から体を離す。
混乱した頭で、とにかくどこかに逃げようとした。
勢い余って右の壁にぶつかり、土煙が上がる。
こんな状態でこんなことを考えるのも変だが、ある疑問が私の頭に浮かぶ。
なぜ、コンクリートの壁にぶつかって土煙が上がる?
何かで気を紛らわせたかったというのもあり、私は必死でその壁を調べた。
それを見つけた時、私は驚きの声すら上げることができなかった。
扉が見つかったのだ。
正確には扉のような切れ込みだが、大きさや直線からしてもそれは明らかに扉だった。
取っては無いがもしかしたら出ることができるかもしれない、という考えが不意に浮かぶ。
微かな期待を胸に、私は扉を押す。
しかし、全く動かない。横に押しても同じように動かない。
つまり、これは向こう側からしか開かないような設定になっているのだ。
瞬間、耐えられない虚無感と絶望、そしてどこにぶつけていいのかも分からない怒りが湧いてきた。
気が付けば私は全力で壁を殴っていた。
土煙が上がるだけで壁はびくともしないのにも関わらず。
拳から血が溢れて来たとき、後ろから何かの視線を感じた。
誰かから見られている。そんなことが何となくだが分かるのだ。
視線は、この間見つけた二つ目の穴から出ていた。
本能的に二つ目の穴に近づき、覗き込む。
そこには、見慣れないものがあった。
それは、目だった。誰かの、目。白目と黒目がくっきりと見える。
その時、私は悟った。
誰かに見られている。私を面白がって見ているような人がいる。
そいつは私と同じようにここに連れてこられた人なのだろう。
狂っていく私を見て、こいつは楽しんでいるのだ。そして、私を見ているそいつもいつかは狂っていく。
ということは、ここに連れてきた奴の目的なんて決まっている。
私たちが狂っていく様を、自分だけ安全な所から鑑賞して喜んでいるのだ。
そうすれば、全て説明が良く。
つまり私も、狂って最後はあの男の様に……。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
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驚いた!
僕は穴を覗いて呟いた。
穴の中にいた中年の男が、急に壁を叩き始めたのだ―――
作者山サン
お久しぶりです