24歳の新人巡査田中が、F市の小さな町の
派出所に赴任して、1年が経とうとしていた。
なにぶん小さな町ゆえ、強盗や殺人などが
起こるなどということはなく、
日々起こることといえば、
やれ、隣の家のピアノがうるさいとか、
やれ、飼い猫が側溝に落ちたとか、
そんなことばかりなのだが、生来真面目な彼は、
その一つ一つに対して、きちんと対応していた。
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・・・・・・・・・予兆1・・・・・・・・・
それは蝉の声がまだまだ盛んな、
ある夏の日の午後のこと。
田中が派出所の前に立っていると、
前の屋敷に住んでいる澤田さんの奥さんが、
蒼い顔をして走ってきた。
澤田さんというのは、この町でも有名な
大地主である。
白髪の交じりの長い髪は濡れており、
上には白いガウンを羽織っているだけである。
「どうしたんですか?」
彼が聞くと、
「変な男が庭に……」と息を切らして、言うので、
彼は走って屋敷の大きな門をくぐり、
庭のある裏側に回った。だが、そこには、
きちんと手入れされた広い日本庭園が
あるだけで、人の気配はない。
一応、庭を隈無く歩いて見たが、やはり、
誰もいなかった。
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澤田夫人が言うには、暑いから、
離れの風呂場でシャワーを浴びていると、
細めに開けた窓に、変な男の顔がぬっと現れて、
通り過ぎたのが見えたらしく、
慌てて飛び出したそうだ。
「『変』というのは、どういう風に変だった
んです?」と聞くと、
「チラリとしか見えなかったんですけど、
かなり顔が大きかったんです」
「大きい……。というと、
どれくらいだったんですか?」
夫人はちょっと考えて、
「窓の高さくらいはあった、と思います」
と言った。
その時、田中は風呂場の窓を確認したが、
約50㎝くらいだった。50㎝の長さの顔……。
――そんな大きな顔の人間がいるのだろうか?
彼は怯えている澤田夫人の顔を、
じっと見ていた。
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・・・・・・・・・予兆2・・・・・・・・・
その日の夕方。
田中が派出所のデスクに座って、事務処理を
していると、赤いティーシャツに半ズボン姿の
男の子が、入口に立っている。
「どうしたの?」
声をかけると、男の子は彼の正面まで来て、
「すごいのが、いる」と、ポツリと言った。
「すごいの?」田中が顔をあげると、
男の子は目をパチクリさせて大きく頷く。
「それだけじゃあ、分からないなあ」
そう言うと、男の子は今度は彼の真横まで来て、
「あのね、カメ公園の便所より大きいの」
と、真剣な眼差しで言う。
「カメ公園というのは、亀泳公園のこと?」
田中が聞くと、男の子はまた大きく頷く。
亀泳公園というのは、派出所からすぐの
ところにある小さな公園である。
「大きい、て、何が大きいの?」
尋ねると、男の子は、「おじちゃん」と答えた。
「どんなおじちゃん?」
「あのね、髪が女の人みたいに長くてね、
目と口がすごく大きいの。それでね、ムカデの
ようにお手手がいっぱいあって、裸だった」
「裸?」
「うん、お洋服着てなかったよ。滑り台で
遊んでいたら、便所の向こうからお顔出して
見てたから、恐くなって走って逃げてきた」
この男の子が言うには、亀泳公園に男がいて、
そいつは、便所より大きかった、ということ
だった。亀泳公園の公衆トイレというと、
恐らく、3m以上の高さがあるはずだ。
――この頃の少年特有の夢想だろうか。
男の子はそれだけ言うと、走っていった。
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・・・・・・・・・予兆3・・・・・・・・・
そんなことがあってから、
2日後の曇り空の日に、
あの恐ろしい事件は起こった。
午後3時くらいのこと、派出所に一人の男が
訪ねてきた。
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「じゃあ盗まれたのは、
あんたの飼っている秋田犬だったんだな」
田中は、目の前に座っている男に確認した。
男は力なく微かにうなずく。
年齢は40歳くらいだろうか。
ボサボサの伸び放題の髪に、
だらしない無精ひげ。
寝不足なのか、
始終濁った目をしょぼつかせている。
白いフリースを着ているが、うす汚れていて、
灰色に変色していた。生ゴミのような匂いが
微かに漂っている。
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「盗まれた場所は?」
田中は上目遣いで男を見る。
「ここの近く」
俯いたままで、男はボソッと答えた。
しばらくの間、田中は考えると、
「分かった」と言って、机の上の帳面を
閉じ、「じゃあ今から、そこに行こう」
と言って、立ち上がった。
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男の言う場所は、
何日か前に男の子が怖い男を見たという
亀泳公園だった。
滑り台とブランコがあるだけの小さな公園である。
片隅に公衆トイレがあり、その横に、
畳二枚くらいの大きさの青いビニールシートが
敷かれていた。
鍋や皿、湯呑み茶碗、カセットコンロなどが、
無造作に置かれている。端の方には、
ゴミの入った大きなビニール袋がある。
――こいつ、やっぱり、ホームレスだな。
田中は目の前の情景を見て、思った。
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「ここは、あんたの寝泊まりしているところ
なのか?」
シートの上の食器類を見ながら、田中が聞く。
男は無言で頷いた。
「それで、犬はどこにいたんだ?」
男はビニールシートの端を指さす。
「なるほど……。それで、昨日の夜だったんだな」
男はまた、無言で頷いた。
「それで、あんた、犯人の姿を見たのか?」
途端に男は怯えだし、しばらく頭を抱えると、
何かを思い出したように顔を上げ、
シートの端の方を指さした。
田中が近づいて、そこを見る。
「これが、犯人の足跡なのか?」
男は真剣な表情で何回も頷いた。
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「なんだ、これは……」
田中は思わず声を出した。
青いビニールシートの端には、確かに
泥で縁取られた人の足跡がある。
ただ、その足跡は尋常ではなかった。
サイズは目算でも、軽く50㎝くらいはある。
幅は30㎝くらい。
驚く田中の顔を、男は傍でじっと見ている。
「犯人はどんな奴だったんだ?」
男はまた怯えたような顔をすると、
バンザイするように大きく両手を広げた。
「デカい奴だったんだな」
男は何度も頷いた。
――いや、デカいと言っても、程があるだろう。
プロバスケットのプレーヤーでも、
せいぜい、40㎝だ。だが、これは……。
田中はポケットからデジカメを出して、
写真を撮る。
「分かった。とりあえず、この件は調書に
記録しておく」
そう言って、彼は派出所に戻った。
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田中は一人、派出所の机に座り、考えていた。
――澤田夫人が風呂場の窓で目撃したのは、
50㎝くらいの男の顔。
公園で遊んでいた男の子が見たのは、
公衆トイレより大きな男の姿。
そして今日の、ホームレスの男の寝ぐらに
あった巨大な足跡。
この街のどこかに、巨大な人間が
潜んでいるのだろうか?
彼は、これは少し調べないといけないな、と
思った。
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・・・・・・・・・対決・・・・・・・・・
夕方、田中は亀泳公園に行った。
公園は夕日で朱に染まり、すでに人の姿はない。
あの青いビニールシートのところにも、
ホームレスの姿はなかった。
とりあえず、彼は公園内を歩いてみる。
園の真ん中には滑り台と砂場。
奥にはブランコと公衆トイレが見える。
彼はトイレのところまで歩き、入口辺りに
立ってみた。不快なアンモニア臭が鼻をつく。
男女別に分かれた入口があるだけで、
何の異常もない。それからトイレの横手から
裏側に、回り込もうとしたときだった。
何かが彼の視界の下の方に入った。
よく見ると、それは犬の足だ。
慌てて裏側に行ったとき、
彼は息を飲んだ。
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そこには、トイレの壁に沿って一列に、
手前に犬が、その向こうに男が横たわっていた。
犬は顔の半分とお腹の辺り、そして両足が
もぎ取られたように無くなっており、
そこから血だらけの肉片や内臓の一部が
あちこち飛び出していた。
男は、顔の右上半分がきれいになくなっており、
そこから、血にまみれた白子のような脳味噌が、
見えている。
しかも、左腕の第一関節から上の方も、
もぎ取られるように無くなっており、
肉片や白い骨が覗いていた。
二つの凄惨な骸の周りを、
蠅どもが数十匹、うるさく飛び回っている。
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屍体は、ホームレスの男だった。
田中は横たわる男に近づき、吐きたい気持を
必死に押さえながら、ひざまずき、
右腕から脈を診ていた。すると、どこからか、
変な音が聞こえてくる。それは何かを啜る
ような、噛むような……そう、タラバガニの
足を食べるときのような音だ。
彼は神経を耳に集中させた。
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――パリッ!ジュルッ、ジュルル!ジュルル!
チュー、チュー、チュー……パリッ、パリッ、
ジュルッ、ジュルルル……チュー、チュー……
音は、トイレの壁の向こう側から聞こえてくる
ようだ。
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田中はトイレの入口の方に回り、
耳を澄ませた。
音は、男便所の方から聞こえてきているようだ。
――パリッ!ジュルッ、ジュルル!ジュルル!
チュー、チュー、チュー……
彼はいつの間にか、拳銃を右手に握っていた。
洗面所の方からゆっくり奥を覗く。
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煌々と灯る蛍光灯の下に、『そいつ』はいた。
小便器と個室が両端に並ぶ
タイル調の通路の一番奥に背中をもたれて、
毛むくじゃらの長い足を折り畳んで、
筋立った細い何本かの腕で何かを掴み、
ガツガツと一心不乱に貪っている。
それは、血まみれの人の腕だった。
周りの床には、血だらけの肉片や臓物、
犬の足の一部が散らばっている。
黒々とした髪は肩まであり、耳の辺りまで
裂けた口を大きく開き、千切れた腕の
皮膚を食い千切り、中の生肉や骨を
ガリガリと噛み、ジュルジュル啜っている。
皮膚は爬虫類のように灰色に照かっていた。
しゃがんでいるが、その状態でも、
175㎝の田中と同じくらいある。
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「止めろ!」
田中の声が狭いトイレの中を響き渡った。
すると、『そいつ』はビクリと顔を上げ、
彼の方を見た。
大きな瞳には白目が無く、裂けた口からは
血が滴っている。そして、手に持っていた
ものを床におとすと、胸に並んでいる
たくさんの細い触手のような腕を
ニョロニョロ動かしながら腰を曲げたまま、
ゆっくり田中に近づいてきた。
「止まれ!」
彼は逃げ出したい気持を必死に堪えながら、
叫んだ。だが「そいつ」は全くひるむこと無く、
近づいてくる。
彼は無我夢中で拳銃の引き金を引いた。
弾は「そいつ」の左肩に命中した。
「そいつ」は一瞬動きを止めたが、
再び、彼に襲いかかってきた。
彼は立て続けに数発、撃った。
弾は頭部に一発と、胴体の数カ所に命中した。
「そいつ」は床に崩れ落ち、ブレーキが
軋むような悲痛な声をあげながら、しばらく
床を這いずりまわると、やがて痙攣を
起こしながら、静かになった。
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田中は右手に持った銃を床に落とすと、
全身の力が抜けたかのように、
ヘナヘナとその場に尻もちをついた。
「そいつ」は彼のわずか数十㎝のところで、
その巨大な体を横たえている。
蝉の鳴き声と彼の荒い息遣いだけが、
トイレの中に、響き渡っていた。
作者ねこじろう