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一瞬意味が分からなかったのですが、私は慌てて鍵を開け、ドアを開きます。
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そこには、上下黒のスエット姿の父が立っていました。今年七十歳になる父は、すぐ近くの一軒家に、一人で暮らしています。母は五年前に癌を患い、病院に入院しているのです。
白髪混じりの頭はボサボサで、少し無精ひげを生やしており、なにやら険しい顔をしています。
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「どうしたの、こんな時間に?」
私が尋ねると、
「すまんな。実はさっき病院から電話があって、母さんの容態が急変したらしいんだ。それで、お前に教えてあげようと思ってな」
とんちんかんな父の行動に怒りがこみ上げた私は、
「何言ってんのよ!私のことなんかより、早く病院に行ってあげなさいよ!」
と、つい怒鳴ってしまいました。
慌てて奥の部屋に走り、コートを羽織ると、玄関に戻ったのですが、そこには既に父の姿はありませんでした。
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祈るような思いでハンドルを握りながら、私は車で郊外にある母の入院している病院に向かいました。
「まったく、お父さんって、肝心な時にいつもこうなんだから」
イラつきながら運転していると、途中、けたたましいサイレン音を鳴らしながら走る救急車にすれ違い、いやな予感が心をよぎります。
病院の広い駐車場に車を停めると、夜間出入口まで走り、守衛の人に事情を告げると、エレベーターホールに続く廊下を走りました。
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四階で降り、母の入院している四〇五号室に向かいます。
ノックをしてドアを開けると、ベッドの傍らに立つ、白衣の医者と看護師の背中が目に飛び込んできました。
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「娘ですが、父から聞きまして……」と言って私は、医師に対面する母の枕元に立ちます。父はまだ来ていないようです。
元気なころよりひと回り小さくなり痩せた母は、酸素注入器を付けられ、右腕に点滴を打たれていました。
静かな病室内に、無機質な信号音が低く鳴っています。
五十過ぎくらいの白髪の医師が母の胸元から聴診器を外すと、重々しい雰囲気で言います。
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「本人からナースコールが鳴ったのが、2:22でした。
駆けつけると、急激に血圧が上昇しており、かなり苦しがっておられたので、すぐに緊急な処置を施しました。
しばらくして容態が安定したのですが、また、ナースコールが鳴りました。
それが、ええっと……」
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「3:33です。」
隣の看護師が冷静に答えます。
「そう、その時間に再び駆けつけたところ、今度は数分間意識を失う危ない場面もあったのですが再び緊急処置を施し、なんとか持ち直して、現在は通常の状態に戻っておられます。確かに今は落ち着いておりますが、まだまだ予断の許さない状態は変わりありませんので、こちらとしても、細心の注意を払って様子をみていきたい、と思っています」
続けて、看護師が、
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「お父様には四時頃に、こちらからお電話いたしました」
と、付け加えました。
そこまで説明すると、医師と看護師は部屋を出て行った。
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一人、病室に残った私は、横たわる母の横顔を眺めながら、今回の奇妙な偶然に思いを巡らしていました。
すると、
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─ピピピピ!ピピピピ!……
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携帯の呼び出し音が鳴ります。コートのポケットから取り出して画面を見ると、それは父からでした。
気持ちが高ぶっていた私が、
「もう、いったい何してんの?私、もう来てるよ!」と怒鳴ると、父とは違う男の声が聞こえます。
「あ、すみません。武田正人さんのお身内の方ですか?」
「は……はい、そうですけど」
ただならぬ気配に、私の体は固くなりました。
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「突然すみません。私、F警察の者なんですが、実は四時過ぎころなんですが、武田さんの乗った車がF市S町二丁目の交差点で右折中に、大型トラックと正面衝突しまして、近くの病院に搬送されましたが、頭部をかなり強くぶつけられたようで、あの……三十分ほど前に、お亡くなりになりました」
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一瞬、目の前の光景が歪みだし、軽いめまいを感じた。無意識に、母の手を握りしめる。
「……」
「もしもし!もしもし!大丈夫ですか?ショックかと思いますが、もしよろしければ、ご遺体の確認にお越しいただけませんでしょうか?」
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私は軽く深呼吸をし、
「分かりました。どこに行ったらいいのでしょうか?」と、言った。
「S町にある、T慈恵病院地下一階の遺体安置室です。場所はお分かりですか?」
「分かります。実は私、今、その病院にいますから」
「は?」
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私は携帯を切ると、病室を出ました。
父が……さっき、あんな元気だった父が……なんで?
私はエレベーターの壁に頭を押し付け、一人泣きながら呟く。
地下一階まで降りると、廊下の突き当りにある「遺体安置室」のドアをゆっくり開けました。
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ひんやりとした空気が頬に触ります。
薄暗い十畳くらいの部屋の右側には、遺体を保管しているであろう引き出しタイプの四角い容器が、駅のロッカーのようにズラリと奥まで並んでいます。
磨き上げたリノリウムの床の中央にストレッチャーがあり、その上には、白い布を被せられた遺体らしきものが横たわっていました。
天井に並ぶ蛍光灯が、ジージーと鳴っています
傍らに、ヨレヨレのコートを着た中年の男が立っています。
寝不足なのか、疲れ切った顔をしています。
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私は入口で男に一礼をすると、ストレッチャーのところまで歩きました。
男は胸元から黒い手帳を出すと、
「F警察の田中と申します。わざわざ来ていただき、ありがとうございます」
と、軽く一礼します。
「先ほどまで、医師の方が来られていて、死体の検案が終わったところです。早速ですが……」
田中は、遺体に被せられた白い布を、頭部の方からゆっくりめくります。
私は思わず目を逸らす。
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白髪混じりの頭髪に無精ひげを生やし、黒いスエットを着た父は、五時前にマンションで会ったときと全く同じでした。ただ、頭部を激しくぶつけたのか、額の辺りが少し歪んでおり、簡単な縫合処置が施されています。
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「はい、父です」
私の言葉を聞くと、田中は白い布を元に戻しました。
「救急隊から警察に通報が入ったのが、四時十分ころでした。お父さん、かなりスピードを出しておられたようで、恐らく、八十㌔くらいで交差点を右折しようとしていた、と思われます。そこで、トラックと正面から衝突し……」
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「ちょっと、待って下さい」
話を遮られた田中が怪訝な顔で、私の顔を見ます。
「事故が起こったのは、四時十分なんですか?」
「はあ、まあ、その辺りです。それが何か?」
「それはない、と思うんですが」
「ほう、それはどうして?」
「父は私のマンションに来たんです」
「お父さんがあなたのマンションに来たんですか。
それはいつ頃なんでしょう?」
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「四時四十四分過ぎです」
「よく、そんな正確に憶えてられますね」
「だって私、その時、デジタル時計を見たんです」
田中は脇に挟んだ紙を目前に持ってくると一瞥し、
「いや、それはあり得ないですな。その時間、四時四十四分は正に、この病院で正人さんの死亡が確認された時間です」と、言った。
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背中に、冷たいものが走った。
父は、……父は来てくれたんだ。私に、母のことを知らせに……。
胸に熱いものがこみ上げてきて、次々にポロポロと涙がこぼれてきて、
私はその場にうずくまりました。
作者ねこじろう
前編はこちらです。
http://kowabana.jp/stories/30514