男は、独り身だった。
60歳を過ぎた頃から身体が不自由になり、
70歳を前にして、自力ではほとんど外出することが出来なかった。
nextpage
しかし、週に3回は若いホームヘルパーが訪問介護に来るので、
細々とだが、それなりに悠々と暮らせている。
nextpage
そんな男だが、もちろん家族はいる。
・
・
いや、「いた」と言った方が正しいか…。
nextpage
妻は男が50歳の時、45歳の若さで亡くなった。
・
・
自殺だった。
nextpage
家族を顧みず、
愛人や酒、ギャンブルにうつつを抜かし、
さらには家庭内暴力にまで及んだ男との結婚生活に、
耐えきれなくなっての結末だった。
nextpage
一人娘もいたが、
母親の自殺の原因が
父であると悟り、
母の四十九日を過ぎたある日、
突然家を出ていった。
nextpage
しかし、家庭崩壊の悲劇も、
男にとっては好都合であり、
より一層、酒と女とギャンブルにのめり込むようになっていった。
nextpage
そんな不摂生な日々が祟り、
身体を悪くしてしまい、
今のような生活に陥ることになってしまったのだが…。
nextpage
いつものように自宅でテレビを観ながら
ベッドに横たわっていたある日、
不意にインターホンが鳴った。
nextpage
不自由な身体を引きずり、玄関へ行くと、
一人の女性が立っていた。
年の頃は40歳を過ぎたあたりだろうか…。
nextpage
しかしそこに、かすかな面影を感じた。
・
・
娘だった。
20年振りの再会だった。
娘は言った。
nextpage
「お母さんを失ったあと、あなたを怨み、
家を出ていった私は、
見ず知らずの街で、懸命に生きてきました。
nextpage
どうにか仕事を見つけ、
心の傷が癒えた頃、
運命的な出会いをし、
結婚をしました。
子どもも一人います」
nextpage
親の助けを受けず、逞しく生き、
孫まで産んでいた一人娘…。
普通の親なら、
涙を流して再会を喜ぶ場面だ。
nextpage
だが男は、再会の喜びを微塵も見せず、
懐疑的な目を向けて言い放った。
「私に怨みでも晴らしに来たのかっ!!」
nextpage
娘はそんな反応も想定していたのか、
不機嫌な表情ひとつ見せず、
こう言った。
nextpage
「もちろん、あなたを怨み、呪った時期もありました。
しかし、私も成長し、人並みの幸せを手に入れ、
大人になりました。
そんな時の流れとともに
恨みの念は薄れていきました」
娘は優しげな笑みを浮かべている。
nextpage
「あるとき、年老いたあなたが、
不自由な身体で老後を過ごしているとの
噂を耳にしました。
ちょうどその時、夫の転勤で
偶然にも、近くに住むことになりました。
nextpage
そんなきっかけでもなければ、
このように実家に再び足を踏み入れることも
なかったかもしれませんが…」
そう語る娘の表情には、
家を出ていった頃の娘の面影と、
亡くした妻の面影とが浮かんでいる。
nextpage
娘はさらに続けた。
「全てを水に流して、一人の娘として
親孝行をさせてください。
迷惑を承知で、これからは毎日私がお世話をしに来ます」
娘の目からは強い意思が感じられた。
nextpage
しかし男は、
娘の好意をすぐに受け入れる気にはなれなかった。
妻を自殺に追いやったばかりか、
娘には虐待同然のことをしていたと
自覚していたからだ。
nextpage
相当深く恨まれていることはわかっていたからこそ、
この娘の変わり様に、
なにか裏があるに違いない、と
疑ったからだ。
nextpage
しかし、娘はその言葉通り、
毎日毎日家に足を運んでは、
嫌な顔色ひとつせず、
献身的に男の身の回りの世話をこなしていた。
そんな娘の姿に、
いつしか懐疑的な気持ちも薄れていった。
nextpage
ホームヘルパーを断ったことで、
金銭的な不安もやわらいだことも、
男をより一層安心させた。
nextpage
「家族の絆というものは、
どんな怨みよりも
勝るものなんだなぁ」
nextpage
男は、この歳になって初めて、
家族の「ありがたみ」「大切さ」「愛」を
実感したのだった。
男の目には、知らず知らずのうちに
涙が溢れていた。
nextpage
そんな男に、さらなる喜びの出来事が待っていた。
ある日、娘が男に
とあるプレゼントを贈ったのだ。
それは、長寿の願いが込められたエンジュの木だった。
nextpage
エンジュは本来の漢字とは別に、
その読みに当て字をした「延寿」と表記されることが多い。
読んで字のごとく、寿命が延びる「縁起の良い木」として、
昔から重宝されてきた。
ピカピカに磨き上げられ、仏間の床柱に使われることで知られる。
nextpage
エンジュは、ベランダから見える庭の一角に植えられた。
わざわざお金をかけて、
長寿を望んで縁起を担いでくれた娘の優しさに、
男は心の底から感謝したのだった。
nextpage
しかし、エンジュが植えられた、その日を境に、
男の幸福な余生が一変することとなった。
あれほど毎日献身的に世話をしてくれた娘が、
全く姿を現さなくなったのだ。
nextpage
献身的な介護にすっかり慣れきっていた男は、
気付けば、自力で起き上がることすら困難な
体力低下に陥っていた。
nextpage
家の異変を感じた男は、
娘に連絡を取ろうと、
なんとか自力でベッドから這い出した。
そして、電話にたどり着き、受話器を手にした。
nextpage
が、何かがおかしい。
よく見ると、電話線が刃物で切断されていた。
さらに、家の中を見渡すと、
いつの間にか電気、ガス、水道の供給も止まっているようだった。
nextpage
「どういうことだ?
とにかく、家の外へ出て、
助けを呼ばなければ…」
ベランダから出ようとしたが、
全く開けることができない。
nextpage
ロックを解除しようにも、
男の手の届かない高さにあり、
窓を割ろうにも、
強化ガラスと強化プラスチックで出来た窓を破ることは、
今の非力な男の力では到底無理だ。
nextpage
娘の助言により、
防犯と断熱効率を考え、
家中の窓は全部、
丈夫な二重サッシと、
頑丈なロックに取り替えていたことを思い出した。
nextpage
季節は夏。
ここは一日の寒暖の差が激しい
北海道の内陸の町だ。
nextpage
男は、ベッドに這い上がることもできず、
カーペットの上に寝転んだまま、
日に日に弱り果てていった。
nextpage
食事も取れず、
日中は熱中症、
夜は凍える寒さと戦った。
nextpage
トイレに行くこともできず、
汗と糞尿にまみれた身体には、
四六時中、ハエがまとわりついてくる。
nextpage
「孤独死」という言葉が、
頭に浮かんで離れない。
そんな生き地獄のような日々は、
一週間ほど続いた。
nextpage
朦朧とする意識の中、
男は、娘が企てた
おぞましく恐ろしい計画の全てを理解した。
たが、不思議と怒りは感じなかった。
nextpage
「エンジュの木も、
縁起担ぎの「延」と「寿」ではなく、
私と娘との関係では、
「怨」と「呪」であったのだろう…」
それは、娘からのメッセージだったのだ。
nextpage
しかし、男には
娘を恨む感情は、一かけらも存在しなかった。
たとえ、無様な死を強いられようとも、
たった一瞬でも「家族の愛」を感じさせてくれた娘に
心から感謝していたからだ。
nextpage
人生最期の涙が一滴、男の頬を濡らした。
その時だった。
・・
・
nextpage
ベランダの窓が、すーっと開いた。
心地よい夏の風が、
男の身体を包み込んだ。
nextpage
男は最期の力を振り絞って、
ベランダの方へ目をやった。
・・・
娘が立っていた。
・
・
nextpage
手には妻の遺影と位牌を抱えている。
娘の表情…
・・・
それは、
複雑な感情を全て圧し殺すため、
心を鬼にしたのであろう…
nextpage
まさしく「鬼の形相」のような泣き顔だった。
・・
・
エンジュに寄り添い、
鬼の形相で涙を浮かべる娘の姿…。
nextpage
その光景を見て、
男は思い出した。
「あぁ、
そうだったな、
・・
・
nextpage
本来は一文字で
『槐』
って書くんだったな…」
・・
・
nextpage
男は、穏やかな笑みを浮かべたまま、
娘の目の前で、静かに息を引き取った。
・・・
・・
・
作者とっつ
ジャンルとしてはサイコホラーかな?