高校最後の夏休み。
僕は、ばあちゃんの家に泊まりに来ていた。
ばあちゃん家のあるところは、超がつく程の田舎だった。
周りに民家は数えるほどしかなく、昼はセミ、夜は蛙が大合唱する、そんな典型的な田舎に毎年一週間、親が無理やり僕を連れてくるのが恒例だった。
今日で三日目、周りに遊んでくれる友達などもちろんおらず、僕は三日目にして既に暇を極めていた。
縁側に腰かけ、セミと風鈴の音を聞きながら、ただ空を眺めていた。
「健太郎~、なんもやることないならこっち手伝ってくれー。」
後ろの台所からばあちゃんの呼ぶ声が聞こえた。
暇は暇だったが、この暑い中、どうもばあちゃんを手伝う気にはなれなかった。
「ちょっと出かけてくる!」
僕は台所に向かって叫ぶと玄関へと向かった。
途中、じいちゃんの寝ている和室を通る。
じいちゃんはもうここ数年、歳のせいかずっと寝たきりだ。
「じいちゃん、ちょっと散歩してくるよ。」
じいちゃんは返事を返すこともなく、じいっと僕の顔を布団の中から見つめるだけだった。
もう頭もぼけて喋ることもほとんどない。
靴下を履くのも面倒くさくて、僕は裸足のままスニーカーに足を入れ外に出た。
真夏の日差しがギラギラと僕の顔を照り付ける。
散歩とは言っても、こんなど田舎じゃ辺り一面田んぼなだけである。
人とすれ違うこともほとんどなく、たまに出会ったとしてもみんな年寄りばかりだった。
杖をついた、麦藁帽のおじいさんとすれ違う。
「おう健太郎、どこ行くんだ。」
「こんちわおっちゃん。ちょっと向こうの山登ってみようと思って。」
僕はすぐ向こうに見える小さな山を指さした。
「あっこの山登るんか?あんまり奥さ登るんじゃねえぞ。」
「うんちょっと見てみるだけ。」
おじいさんに手を振り僕は山の方へ駆けた。
田んぼに面した山肌を登り始めると、背の高い木々に太陽が遮られ、途端にひんやりとした空気に包まれた。
ジワジワと辺り一面に響くセミの声と、ザックザックと僕の足が枯葉と枝を踏み分ける音を聞きながら、20メートルほど進んだ。
一度足を止め、後ろを振り返ると、少し下の木の間から登ってきた入り口の田んぼが見える。
まだそんなもんしか登って来てないのかと安心して、また足を進めた。
また10メートルほど登ったころ、前方の木に何か黒いものがとまっているのが見えた。
「クワガタじゃん!」
僕は足音を立てないようにゆっくりとその木に近づいた。
クワガタを脅かさないようにそっと手を伸ばす。
が、すんでのところでクワガタは木から離れ、山の奥へと飛んで行ってしまった。
僕は夢中になってクワガタを追いかけた。
何度捕まえようとしてもギリギリのところでクワガタは手をすり抜けていってしまう。
必死に追いかけていた僕は、いつの間にか自分がどのくらい山を登ってきたのか、後ろを振り返ることを忘れてしまっていた。
「あ・・・」
ふと我に返った時には前も後ろもすっかり木々に囲まれていた。
いつの間にか急な斜面から平面の場所へと入って来ていたのか、どちらに向かえば下に降りられるか見当もつかなかった。
日もだいぶ傾いてきており、先ほどまで五月蠅かったセミの声に混じり、ひぐらしの鳴く声が響いていた。
とりあえず僕は勘を頼りにひたすら歩いた。
まだこのときはどうせすぐに山の斜面に差し掛かるだろうと甘く見ていたのかもしれない。
しかしいくら歩けど、平面な道から抜けることができなかった。
日ももう沈みかけ、辺りが薄暗い。
さすがに僕も焦りを感じだした。
たかが30分ほど山に入っただけでこんなにも道が分からなくなるなんて・・・。
途方に暮れている中ふと顔を上げると、木々の隙間からなにかが見えた。
それ以外に目指すものもない僕は、そのなにかに向かって木々をかき分け進んでいった。
それはトンネルだった。
トンネルとはいっても、想像するような大きなトンネルではなく、高校生の僕がギリギリ立って歩けるくらいの高さの、古いレンガ造りのトンネルだった。
トンネルの奥に目を移すと、一度完全な闇に覆われた先に、小さく向こうの景色が見えた。
そんなに長いトンネルでもないようだった。
ここに来るまでにトンネルを通った記憶はない。
間違いなくこのトンネルは帰り道とは違う道だった。
しかし、あてもなく歩いていたあ最中に偶然見つけたこのトンネルに僕は大きな好奇心を抱いていた。
別に出口が見えない程深い穴でもない。
日が完全に沈む前に、少しだけトンネルの向こうを見てみようと、僕はトンネルに足を踏み入れた。
トンネルの中はまた更にひんやりとした空気が流れていた。
歩みを進めるごとにジャリジャリとスニーカーが砂利を踏みしめる音が響く。
「あー」
トンネルの奥に向かって試しに声を出した。
「あー・・・」
口から出た声がだんだん小さくなりながらトンネルの奥へと吸い込まれていく。
完全に僕の声が奥へと抜けていったその時だった。
オオオオオオオオオオ
ゾッとするような低い音ですさまじい追い風が僕の後ろから吹いてきた。
あまりの強さに僕は背中を押され、そのままトンネルの向こう側へと押し出された。
「おっとっと・・・」
トンネルから出た途端止んだ風に僕は思わずバランスを崩した。
何とか態勢を持ち直し、顔を上げた僕の目に入ったのは、小さな祠だった。
石造りの自分の背よりも小さな祠が、視界の奥にぽつんと立っている。
祠とその一帯を囲むように木々が生い茂っているが、不思議なことに、祠のすぐ周りには草一本生えていない。
相当古い物なのか、いたるところが欠けており、少しでも触れればボロボロと崩れてしまうような、そんな感じがした。
見た目は祠なのだが、そもそもこんなトンネルの先に一体なにを祀っているというのだろうか。
もしかしたら祠とは違う目的で建てられたものなのか。
気付けば先ほどまで鬱陶しいほどに鳴いていたセミやひぐらしの声が全くしなくなっていた。
風も一切なく、周りの木々もカサリとも音を立てない。
祠の周りはなんともいえない、異様な雰囲気に包まれていた。
何の祠かはわからないが、僕はとりあえず気持ちだけでも拝んで帰ることにした。
祠に何歩か近づくと僕は目をつむり、胸の前で手を叩いた。
パンッパンッ
生ぬるい風が僕の頬を撫でた。
少しだけ気味悪くなった僕は踵を返し、トンネルへと足を向けた。
その時、
パンッーーーパンッーーーーー
すぐ後ろでゆっくりと何かが手を叩く音がした。
「!?」
僕は思わず振り返った。
辺りが薄暗く、なんとか目先の祠をとらえることしかできない。
そんな視界の悪い中でも、何か祠に違和感を感じる。
「ひっ」
僕は思わず声を上げた。
視界にとらえた祠の上から男の顔が覗いていたのだ。
顔とはいっても、鼻の真ん中から上だけが祠からこちらを覗いており、その顔は恐ろしいほどに青白く、目は何の感情も宿っていない、まるで人形のように無機質なものだった。
僕はあまりの恐ろしさにその場から動くことができなかった。
男の顔的に、自分の一回り以上は年上の者の顔だろう。
しかし、そんな大人が隠れられるほど、祠は大きいものではなかった。
ではなぜ祠から除く頭半分以外に何も見えないのだろうか。
祠の後ろに大人一人がいる程の密度の気配も感じられない。
まるで本当に祠の後ろに、男の頭上半分しか存在していないような・・・
「うわああああ」
僕は固まった体に全力で力をこめ、トンネルの中を駆け抜けた。
トンネルの真ん中まで差し掛かった時、思わず足が絡まり、ズシャッと膝から崩れ落ちた。
膝が砂利で擦り剝け、血が流れだすが、恐怖で痛みも感じなかった。
ばっと後ろを振り返ったとき、トンネルの先の祠の後ろから何かが木々をかき分けてこちらに向かってくるのが見えた。
両腕を振り回しながら全力でこちらに走ってくるそれは、鼻半分から上が切り取られたかのように無くなっていた。
「アアアアアアア」
トンネルの中にこだまするそれは明らかに男の声だった。
「ぎゃああああ」
僕は絶叫しながら立ち上がり、信じられない速さでトンネルを走った。
「アアアアアアァァァァ・・・」
男の声が段々と小さくなっていく。
トンネルを抜けてからはどれだけ走ったかわからない。
気付けばあの山の入り口の田んぼを僕は駆け抜けていた。
心臓がはちきれそうになり、思わず足を止める。
後ろを振り返ったが、あの頭上半分がない男の姿は消えていた。
はぁはぁと息を切らしながら膝に手をつき、呼吸を整える。
日は完全に沈み、真っ暗な中に虫の鳴く声だけが響いていた。
逃げる時にほとんどの力を使い果たした僕は、ふらふらとばあちゃんの家へと歩き出した。
「一体なんだったんだ・・・」
しばらく歩いた先にばあちゃん家の明かりが見えた。
途端に安堵感が僕を包み、ずっと我慢していた涙が込み上げてきた。
足を上げる気力もなく、じゃりじゃりと足を引きずるように玄関まで歩き、引き戸に手をかけた。
ガラガラガラ
「ただいまぁ・・ばあちゃん・・」
僕はそのまま玄関の段差に倒れこんだ。
「遅かったなぁ健太郎、どこ行ってたんだー。」
奥からばあちゃんの声とこちらに歩いてくる足音がする。
僕はゆっくりとその場に立ち上がり、泥だらけになったスニーカーを脱いだ。
「もうご飯さできて・・・」
廊下の角から出てきたばあちゃんが僕を見るなりぎょっと目を開けて黙り込んだ。
次の瞬間
「ひいいいいいいいぃぃぃ」
ばあちゃんは恐怖に歪ませた顔を手で覆いながら床に崩れ落ちた。
「えっどうしたんだよばあちゃん・・」
「けんたろぉ・・お前・・何を連れてきたんだああああ」
ばあちゃんは僕の肩を見ながら泣き崩れる。
「顔・・顔があああああ」
泣きわめく婆ちゃんの後ろの鏡に写った自分の姿を見た俺はその場に凍り付いた。
僕の肩の後ろから、さっき祠で見た男の顔半分がこちらを覗いていたのだ。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・」
ばあちゃんが泣きながら手をすり合わせてお経を唱え始める。
僕は恐怖でその場から動くことができなかった。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ぅぅ・・」
必死にお経を唱えるばあちゃんの後ろでゆっくりと何かが立ち上がった。
僕の顔から血の気が引いていく。
さっき僕を追いかけてきたあの鼻から下の男だった。
それは完全に立ち上がると、ばあちゃんの背中にぐうっと伸し掛かった。
「ひいいいい・・・南無阿弥陀仏ああ・・」
目の前でばあちゃんがそいつに押しつぶされていくのに、僕の体はコンクリートで固められたかのように動くことができない。
その時、何かの糸が切れたかのように体に自由が戻った。
「ばあちゃ・・」
僕が叫んだ時には、男の姿も、そしてばあちゃんの姿も消えていた。
僕は家中を探し回った。
台所にも、風呂場にも、トイレの中にも、ばあちゃんを見つけることはできなかった。
和室の襖をあけ、じいちゃんに飛びついた。
「じいちゃん!!ばあちゃんが連れてかれた!いないんだ!!」
大きく何度もじいちゃんを揺さぶったが、じいちゃんは目を開けたまま声を発することはなかった。
「くそっ僕のせいだ‥僕が山なんか登ったから・・」
もう僕はなにをしていいのかもわからず、頭の中は真っ白になっていた。
その時、「あ・・あぁ・・」
じいちゃんからかすれた声が漏れた。
驚いてじいちゃんに目を向けると、口を大きく開け、何やら仏壇の方を指さしている。
恐る恐る振り返ると、
仏壇の前のちゃぶ台から頭半分だけのばあちゃんが無機質な目でこちらを覗いていた。
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気を失ってしまった僕が目を覚ました時には、またばあちゃんの姿は消えており、結局それから見つかることもなかった。
じいちゃんは寿命だったのか、また別の理由があったのか、ばあちゃんの後を追うようにその後すぐに他界した。
興味本位であの祠に近づき、このような恐ろしい結果を引き起こしてしまった自責の念から僕はまだ立ち直れていない。
あの日、祠から僕は何を連れてきてしまったのか、誰に聞いても答えてくれなかった。
もう一度あのトンネルに近づく気にもなれないが、風の噂であのトンネルがコンクリートブロックで封鎖されたことを聞いた。
それでもたまにブロックの隙間から、男の顔が覗いているとか、トンネルの奥から手拍子が聞こえるだとか、噂は絶えない。
もしそれが本当なら、あの男をトンネルの向こうに閉じ込めることができたということになるが、
しかしもしこれらが文字通りただの噂だったなら、あの男はまだこちらの世界を徘徊しているのかもしれない。
もうこれ以上、僕に起きたようなことが他の人にも起きないことを願うばかりである。
作者籠月
最近家の中での怪奇物が多かったので、ちょっと外へと舞台を移してみました。