人が多くてがやがやした所は苦手だったので、都会育ちの夫を説得して、閑静な郊外に住むことにしました。
人が少ない、とまでは言いませんが、ふと視線を上げれば、人間より田んぼや畑、山の緑が印象に残る、そんな地域でした。
それでも車を走らせれば、スーパーやコンビニもそう遠くはないので、生活には不自由ありませんでした。
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娘は保育園の年長さんになりました。
私たちに代わって、立派に娘を育ててくれたこの園には、本当に感謝です。土地柄、園児は少ないですが、その分、歳上や歳下と接する機会が多く、娘の感性を大きく広げる、良い環境だったと思います。
いつの間にか、お姉さんになったね。
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緑の景色が枯れ始め、卒園が近づいてきたこの頃。お迎えのとき、娘が、園からある案内を貰って帰ってきました。
『おもいできんちゃくん』
モノクロ印刷のプリントの上部に、こうタイトルが付いていました。そして、可愛らしい、顔がついた水色の小さい巾着袋も一緒に受け取りました。
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プリントはこの巾着袋の説明でした。
それによると、この巾着袋に、自分の得意なものや大事なものと、ネームカードを入れて、年長のお友達同士で交換するそうです。
ネームカードの裏には、子どもたちが自分でメッセージを書いて入れるらしいです。
当時の楽しかった記憶、園で過ごした日々に想いを馳せるきっかけに、と、毎年この時期の恒例になっている行事とのことです。
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「きんちゃくん、何入れるの?」
娘に聞いてみましたが
「私たちだけのひーみーつ!」
と、小悪魔感たっぷりの笑顔で返事されました。
「えー、じゃあ、誰とかえっこするの?」
「マミちゃん!」
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娘には笑って相槌を打ちましたが、内心は、顔に落ちたであろう影に気づかれないよう、平静を装っていました。
マミちゃんは、年少の頃から娘とよく一緒にいる子です。
染めているのか、地毛なのかは分かりませんが、明るい茶色の長い髪を、いつも二つ括りにしている女の子です。
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二人で楽しそうに遊んでいる姿も、お迎えのとき何度か見ています。
ただ、私はあまりマミちゃんを良く思ってはいませんでした。
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ある日、迎えに行くと、砂場で娘とマミちゃんがしゃがみ込んで、何やら遊んでいました。
普段は私が迎えに来たことに気づくと、娘から駆け寄ってくるのですが、自分たちで作ったものでしょうか、じっと砂を見下ろしていたので、この日は私から娘に近づきました。
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「何見てるのー?」
「あ、ママ!お池作ったの、ありんこ池!」
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うっ、と声が漏れるのを堪え切れませんでした。
2人が掘ったと思われる広めの穴に、水が入っていました。
その中には、どこでこんなに見つけてきたのか、夥しい数の蟻…
そして、マミちゃんは陸を求め這い上がってきたものを、なんの表情も浮かべず、ただ作業的に、指で弾いて池に戻していました。
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「だ…だめじゃない!ありさんたち、いやだよーって言ってるよ。やめてあげて、ね?帰るよ」
娘に、というより、ほとんどマミちゃんに向かって言っていました。
そのあと、帰りの車の中で娘と何を話したのかはよく覚えていませんが、『ありんこ池』には一切触れないように努めたのは鮮明に覚えています。
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しばらくは、お迎えのとき注意深くマミちゃんと娘の様子を見ていましたが、とくに気になることは見つからなかったため、次第に警戒心は薄れていきました。
とはいっても、あの一件以来、出来ればあまりマミちゃんとは関わりを持たせたくない、という気持ちはありました。ただ、娘と仲良くしてくれるお友達を、ぞんざいに扱う気にもなれず、2人の仲を黙認してきました。
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卒園すれば疎遠になるだろうと思い込んでいたので、それ以上、巾着袋についてとくに確認することもなく、気がつけば卒園式当日を迎えていました。
お休みだったのか、マミちゃんも、マミちゃんの保護者の方もいませんでした。といっても、直接マミちゃんのご家族を見たことはありませんでしたが。
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「マミちゃん、お休みだったね」
「うん…きんちゃくん、私のはあげれたけど、マミちゃん今日くれるって言ってたのになぁ」
「きんちゃくんがなくても、2人は仲良し、でしょ?」
「うん!悲しいけど泣かないよ、お姉さんだもん!」
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娘は残念そうでしたが、力強く言ってくれました。
式が終わり、先生方へのお礼を終え、娘の荷物を持って帰るため整理しました。娘が使っていたクレヨンやスケッチブック、その他細々とした物を一通りまとめ、最後に上履きを取るため、下駄箱に行きました。
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木製の、そこそこ年季が入った下駄箱。娘の名前シールが貼られているスペースに、つま先をこちらに向ける格好で、上履きは入れられていました。
取り出したとき、上履きの後ろに、何かが入っているのが見えました。
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「これって…」
顔がついた、巾着袋です。
しかし、いつからそこに置いてあったのかを疑うくらい、汚れていました。
すすや泥で所どころ黒ずんでいて、見た目には、洗わずに放置した雑巾のようでした。
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そのまま手に取る気にならなかったので、ハンカチで手を覆い、取り出しました。
予感が当たらないことを祈りながら、巾着袋の口を開きました。
私は悪寒に全身を支配され、その場に凍りつきました。
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中身は、明るい茶色の髪の毛で一杯でした。
いたずらにしては、度を超えています。
身体の硬直は、愛しい娘を思うゆえの怒りが溶かしてくれました。
ネームカードがあるはずです。
相手をより明確にしておこうと、中身を下駄箱の上でひっくり返し、それを探しました。
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髪の毛と一緒に、丸まった画用紙が出てきました。
それを広げたとき、目を疑いました。
そこに名前は無く、代わりに、鉛筆でぐちゃぐちゃと雑に塗り潰された背景に、赤のクレヨンで書き殴ったような文字で、こう綴られていました。
「と も だ ち」
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相手と、きちんと話をつけなければならない、マミちゃんの今後のためにも。
そう思い、園長先生に報告することにしました。
巾着袋と画用紙を持って行きました。
すると、状況はさらに深刻に、奇妙になりました。
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まず、園長先生が巾着袋を見たときの反応が、こうでした。
「あら、懐かしいものをお持ちですね。どこかに落ちてたんですか?」
あまりに予想していない対応だったため、怒りは引っ込みました。ひとまず、詳細を園長先生に伺いました。
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園長先生によれば、この『おもいできんちゃくん』は、もう15年ほど前に廃止になった行事だそうです。生ゴミや虫の死骸を面白半分で入れる悪童がいて、保護者から苦情が出たらしいのです。もちろん、本年度もやっていないと。
…そんな馬鹿な。
確かに、娘は巾着袋と案内のお便りを持って帰ってきましたし、現に、娘はマミちゃんに「渡した」と言っていました。
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それを伝えると、とんでもない答えが返ってきました。
「マミちゃん、ですか?今回の卒園児に、マミちゃんという名前はいないような…」
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結局、巾着袋と画用紙は、当時の誰かのいたずらだろう、ということになったので、私は娘の下駄箱の中に入っていたことは告げず、園長先生にそれらを渡しました。もう、手放せるのであれば、なんでもよかったのです。
娘が遊んでいた、そして、それを私も見ていたはずの、マミちゃんとは、何だったのか。考えるだけ気味が悪いです。
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帰り道、あまり蒸し返すのも気が引けましたが、これだけ聞いたら忘れようと思って、娘に尋ねました。
「ねぇ、きんちゃくん、何入れたの?」
「ひみつなのー、言えないんだよ」
「んー?なんで?」
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「言ったらね、死んじゃうの。ひみつだから」
秘密を喋ったら、死ぬ。
子ども同士の、よくある設定です。
ただ、私にはそれ以上、この話題を広げる勇気はありませんでした。
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子どもたちの世界は、本当に不思議です。
私たち大人は、かつて自分もそうだったはずなのに、歳を取るにつれ、視野が狭くなるのかもしれません。
皆さんのお子様には、不思議なお友達、いらっしゃいますか?
作者Иas brosba