私は彼に昨晩プロポーズされました。
交際3年目を迎える間際の思いがけない展開…
在り来たりではありますが、( 今日は何だか世界が違って見える… )そんな気分で清々しく目覚めたのです。
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2階の寝室から、1階リビングに降りると彼はテレビを見たまま寝落ちしてしまった様で、ソファーで大の字になっていました。
( やっぱこの人にロマンティックは似合わない。 )と思い、私はクスッと笑いました。
無理にムードや口説き文句を考え、悩む彼よりも自然体の彼が愛おしい…
私は彼が居れば、何事もどうとでもなると思っていました。
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この日、彼は仕事が休みでしたが、私は朝から仕事に行かなくてはなりません。
ソファーで豪快に寝ている彼を脇目に、出勤支度を済ませ小声で「いってきます。」と伝えました。彼は寝惚けながら、無意識だったのかもしれませんが『ん~…』と相槌の様な声をモゾモゾしながら漏らしていました。
また私はクスッと笑い、彼に布団を掛け、家を後にしたのです。
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私の職場は家から徒歩の距離にあります。近いという事は時に便利ではありますが、状況によっては不便にも成り得ました。
通勤はとても楽です。ですが、緊急事態の時は真っ先に声が掛かります。
仕方がないとは言え、あまり喜べた事ではありません。
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でも、ギリギリまで寝ていられる・忘れ物がすぐに取りに帰れる、という環境は最高でした。そして今日もその利点にあやかりました。
どうしてそうなったのかは、今でも謎です。
【虫の知らせ】だったのでしょうか…?
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昼休憩の時、普段は食後に珈琲で一服するのですが、何故かこの日は紅茶の気分でした。
気分というと軽いですが、この時は禁断症状の様に猛烈に欲したのです。
悩みに悩んだ末、仲の良い主任に「すみません、すぐ戻りますんで!」と言い放ち、脱兎の如く自宅に向かいました。
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家に着き、息を荒げながら鍵を開けました。
呼吸を整え、しかし急ぎ足でリビングを通り抜けキッチンへ向かう時に、彼がまだソファーで寝ている姿が目に入りました。
( どんだけ寝るねん… )と呆れたものです。
シンクの上の棚にしまっていた紅茶を手に取り、職場に戻ろうとしましたが、彼に何か…得も知れない違和感を覚えました。
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普段から良く寝る人ではありました。でも何と言いますか…いつもと寝ている時の仕草が違うと言うのか…長い時間、一緒に居るから解かる様な違和感に襲われたのです。
恐る恐る、その違和感を確認する為に彼に近付きました。
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「【彼】…そろそろ起きや…?」そう小さく問い掛けながら、私は彼の肩を割れ物でも触るかの様に、軽く揺すりました。
反応はありません。
私はさっきより強めに「【彼】ってば!起きぃな!!」と少し声を荒げならがら揺すりました。
やはり反応はありません。
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私は怖くなり「なぁ!起きてってばっ!!なぁ!!!」と今度は強く叩きました。
全く動きません…
混乱しながらも、彼をしっかりと見ると違和感の正体が解かってしまいました。
呼吸をしていない…
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彼は【寝てる】のではなく、【意識が無かった】のです。
人間の脳とは面白いもので、絶望と焦りと緊張と否定と責任感を入り混ぜると大量の涙や冷や汗が一気に溢れ出る事を体感しました。
でも、私は彼の現状が理解出来ませんでした。
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彼は昨晩、『肩甲骨の辺りが痛い』と帰ってから訴えていました。
ですが、「長時間の運転と日頃の運動不足のせいじゃ?」と笑って済ませたのです。
それ以外は何も無い。普段通りの彼でした。でも、今はどうでしょう?普段の面影など何処にもありません。
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私は泣き叫んでいたのだと思います。
涙と鼻水と冷や汗を大量に垂らしながら、「息してっ!!」と彼の体を揺さぶっていました。
私は医療関連施設で働いているので、救命処置などに対しては多少の知識を持ち得ていました。ですが、それらが活用出来るのは【当の本人がある程度、冷静である事】が条件なのだと思い知らされました。
私は彼に何もしてあげれなかった…
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彼の異変に気付いてから、時間にすればものの2・3分だったと思います。
ふと、我に返り急いで彼の携帯を借りて119番に電話をしました。
その間、ままならないながらも心臓マッサージを行いました。しかし、電話を片手に、ソファーという不安定な場所の上での心マなど意味がある訳もありません…
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それでも、私は自身の体液でグズグズになった顔を気にかける事無く、延々と反復したのです。
数コール鳴るとオペレーターに繋がりました。
《119番消b…》「家に帰ったら彼氏が息してないんです!救急車…救急車をお願いしますっ!!」私はオペレーターの方の問いを遮り、そう喚きました。
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けれど、やはりオペレーターの方は慣れてると言いますか、優しく諭す様に、状況を尋ねてくれたのです。
私はどう仕様もない程に取り乱していた…と自覚し、ほんの少しですが、その方のお蔭で正気を取り戻せたのだと思います。
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《既に救急車を向かわせています!それまでマッサージを続けていて下さい!!》
オペレーターのお姉さんが電話を切る間際に《頑張って!》と励まして下さいました…
私は救急車がどれだけ時間がかかるか正確には解からないでいましたが、兎に角、心臓マッサージもどきを続けようとしたのです。
その時でした。
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足の踏ん張る場所が悪かったのか、私は勢い良く後ろ向きに転倒してしまいました。
咄嗟の事で受け身が取れず、右肩と後頭部を床にぶつけ、部屋にけたたましい音を響かせたのです。
ですが、アドレナリンか何かが出ているのか痛みはそれ程無く、すぐに彼の心臓へと手を伸ばそうとしました。
手を伸ばし、体勢を整え立ち上がろうとした時に今度は前のめりに足を滑らせ倒れました。
何故…?
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理由は簡単でした。
不快な話で申し訳ありませんが、人間は死が近付くと体から液体が漏れるものなのです…
私は彼の足元に滴って出来たであろう【水溜り】に足を取られていたのです。その瞬間、痛い程に悟ってしまいました。
( 助からない… )
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もうマッサージを続ける事が出来ずにいました。己の心の折れる音をハッキリと聞いてしまったのです。
僅かでも良い…脈が取れたり、瞳孔反射がほんの少しでもあれば私の心は折れる事はなかったかもしれません…
でも、今私の前にいる彼は【私の知っている彼】では無くなってしまったのです…
それは本当に呆気無いものでした。
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職場で幾度となく死に直面してきました。親族も見送りました。
私はどこかネジがズレていると良く言われるので、この様な状況に直面しても動揺する事はないと高を括っていたのです。
どこかで【私は大丈夫】と思い込んでいました。
その結果がコレです…
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まだ助ける事は出来たのかもしれません。
でも私が冷静に判断し、正しい処置を行えなかったから…行わなかったから彼が【彼】ではなくなってしまった。
私は彼の前で【水溜り】に浸かる事も気にせず、力無く座り込んでしまいました…
もう【彼】は何処にも居ない…
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私が絶望に打ちひしがれていると、遠くでサイレンの音がしていた様に思います。いえ、していました。それはすぐに近付き、隊員の方々が《【私さーん】!入りますよー!!》と大きく声を掛けながらリビングに入ってきました。
私は項垂れたままゆっくりと振り向き、無言で涙だけを流していました。
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その時はそう思っていたのです。
ですが、僅かではありますが、力無く彼の心臓に触れていました。
私は彼がまだ、【彼】であると思い込みたい一心で、現実逃避をした上で体が勝手にマッサージをしようとしていたのかもしれません…
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その時の私の記憶は【絶望】とだけ記してあります。
それ以外の事は瞬く間に終わった様に思います…
私は気が付くと、抜け殻になっていました。
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いつの間にか私は彼の両親と、自身の職場に電話を入れていました。人間何が起こっても、無駄にそういう事は出来る様に備わっている様です。連絡を受け、彼の両親はすぐにこちらに向かってくれました。
私は何故か、帰宅する時に必要だからと彼の保険証を手に持って救急車に乗り込んだのです。
認めない事とは、とても愚かで虚しいばかりの行為ですね…
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救急隊員の方が彼を色々な装置に手際良く繋げていました。
心電図モニターらしいモノに繋ぐと、医療系ドラマで良く耳にする、微弱ながらも脈拍を感知した音が聞こえたのです。
( まさか…まだ望みはある? )また私の涙が滝の様に溢れ出しました。
「【彼】…頑張って…生きて…」私は彼の手を握りました。
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冷たい…
彼の手は思っていた以上に冷たくなっていました。良く見ると指は完全にチアノーゼが出ており、ほんの少し硬直がある様な…
( 気のせい!気のせい!気のせい! )
私は必死でそう思い込み、より一層力を籠めて彼の手を包んだのです…
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病院に担ぎ込まれた彼は直ぐに処置台に移され、心肺蘇生が施されている様でした。
《ここに居て下さい!》私は病院で待機していた看護婦さんにそう言われ、処置室の前でただ茫然と佇んでいました。
扉は開いたままで、大きな部屋の奥に運ばれた彼の足だけがカーテンの端から見えていました。医師たちの専門用語と、時折大きな機械音が鳴り響きました。その都度、彼の足先は小刻みに跳ね上がりました。
私はただ、それを無心で眺めていました…
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すると、彼の両親が到着し、私を見つけるなり必死に事情の説明を求めました。
「職場から中抜けして、一旦家に戻ったら彼が倒れてました…寝てると思ったんです…でも彼…」と言葉に詰まりました。
彼の母親がまるで激痛を耐えているかの様に歪んだ表情で私を見た事を覚えています。
そして《一緒に祈りましょう…それしか出来ないから…》と、私を待合室のベンチに誘導し、指示されるがままに手を握り合い、強く、必死に神頼みをしました。
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でも、私は神様の存在は信じていません。
というより、【私の都合を聞き入れてくれる神様は存在しない】と思っています。
そんな都合の良いものだとしたら、神様は多分耐え切れずに耳を閉ざすだろうから…
だから、私のこの願いは神様には届かない。
( 神様には届かなくて良い。彼にさえ届いてくれれば… )
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もうどれだけ蘇生術を行っているのだろう…?時間の感覚など到底ありません。
突如、背後に人の気配を感じたので、振り向いてみるとそこには警察官が居ました。
《こんな時にすみませんが…》と話し出したところで、彼の父親が《私が伺います。》と私との間に立ち、遮りました。
その時の私は話せる様な精神状態ではなかったので、本当に助かりました。
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暫くすると彼の元から1人の医師がこちらに向かって歩き出しました。下を向き、軽く肩を落とす様な…そう、落胆している時の姿勢に似ていました。
その医師はこう述べました。《息子さんには可能な限りの蘇生を行いましたが、見込みはありません…こちらに到着した時には既に死後硬直も始まっており…》
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やはり私の脳はどこか壊れていました。( ですよねー )と脳内で冷淡な相槌を打っていたのです。
( 知ってた…解かってた… )
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救急車の中で聞いた音は…私の望んだ幻聴だった様です。
私が彼を見つけた時には既に死後2時間ほど経過していたと思う。と、その後説明されました。( そんなに長い間、独りぼっちにしてしまったんだ… )と私は思いました。
その後の事は全てが曖昧でしかありません。
【誰と話したか】【誰に連絡をしたか】はそれとなく覚えていますが、【何を話したか】は一切記憶に無いのです。
私の記憶は穴だらけでした…
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慌ただしい時間は経過も早く、いつしか夕方になり、彼の両親や近くに住んでいる彼の身内・友人がもう少しすれば自宅に集まる事になりました。
何故こんな事になっているのかは良く解かりません。
多分、彼の母親がそうしたのでしょう…
自宅は警察による現場検証も終え、私が出勤した時のまま…彼が居た場所だけが散らかっている状態になっていました。
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( 片付けないと… お客さんが来るから、こんな状態見せれない。彼が恥をかいてしまう… )私はそんな事を思いながら、一心不乱に床を拭き続けました。私は感情表現の仕方をこの数時間で何処かに忘れてきてしまった様でした。
しゃがんだ時にポケットの中身が太腿に刺さりました。確認してみると、それは救急車に乗る際に手に取った彼の保険証でした。
「もうコレ必要ないんだよね…」
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私は彼が戻って来ない彼との家で、独り掃除をしていました。
この家は彼が同棲するにあたって購入しました。将来の為にと、広めの一軒家です。2階には子供部屋もありました。2人で「あーじゃない」『こーじゃない』と内装を模索し、時に衝突したものです。
もうその心配もありません。
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彼の母親が言いました。《息子は検死を終えたらココに返って来る。それまで皆で過ごしましょう。》と…
私は彼の母親のそういった考え方が苦手でした。コミュ障な私はあまり大勢の人と過ごす事を好みません。今は特に誰とも接したくなかったのです。そんな余裕はありませんでした。
でも私の住んでいる場所に人が入って来るので、私に逃げ場はありません…
今の私には行くあて等、ここ以外にはありませんでした。
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( ちゃんと彼が言ってくれてたのにな…こんな時さえ私の事は尊重してくれないんだ… )私は心の中でそう思い、( でも、彼が居なくなったからもう無理にあの人と仲良くしなくて良いのか… )と、どこかホッとしていました。
最愛の人が居なくなったにも関わらず、私は私の事しか考えられずにいました…
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ここは私が住んでいる家です。ですが、今は赤の他人が大勢、あちらこちらで家主が帰って来ないにも関わらず、談笑していました。私は他人に自分の居場所を奪われ、凌辱されているかの様な心境でした。
( まだ、お通やでもない。というよりも【彼がまだ帰って来ていない】…なのに何故、ここはこんなにも人で溢れ返っているのだろう? )と私は不思議で、どこか他人事として考える様になっていました。
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( 気持ち悪い…気持ち悪い… )
もう何が理由なのか解かりません。でも、何かが…いや、全てが気持ち悪かったのです…
( ここに私の居場所はない。ここは彼と私の家なのに… )
私は彼が居るから、ここに引っ越してきただけなので、こっちに知人はいませんでした。今この家にいるのは【特に仲が良い訳でもない、知らない人達】でいっぱいでした。
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年配のご婦人方は《明日以降に備えて》と勝手に大掃除を始めていました。彼の兄弟の友人は《これ欲しかったんだよな。形見で貰っていいよな?》と言い、兄弟が《もうおらんから、生きてる人間優先やって。》と返しているのが聞こえてきました。
( それは私のだよ?私の家でもあるんだよ?私…生きてるよ… )
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独りになれる場所を探し、トイレでただただ涙を流しました。今はこの広い家の中で最も狭い空間が私の唯一の居所となったのです。
昼間、あれだけ流し切ったはずの涙は嘘の様にまた溢れて止まりませんでした…
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無慈悲にも、そんな逃げ場所もすぐに奪われてしまいました。中年の男性が引き籠っていた私に《サボッとらんで手伝いくらいしんか!この家の人が亡くなってんぞ!!》と怒鳴りました。「その人の婚約者ですが?」と言ってやりたかったのですが、そんな気も起りません。
( 私明日からどうすれば良いんだろ…? )
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日付が変わる前に彼が帰ってきました。いや、返ってきました…
業者の方が彼を客間に運びました。彼は真っ白な着物を身に纏い、何とも言えない表情でまだ眠っていました。私は彼の前に座り込み、他人に聞こえない様に心の中で( 起きろー!いつまで寝たら気が済むんだ?そろそろ怒るよ? )と彼に話し掛けていました。
でも彼は何も言ってくれません。私の独り言でしかありません。
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徐々に認めるしかない現実が私ににじり寄ってきます。どれだけ逃げても逃げても、現実は私を見逃してはくれません。
だって一番の現実は今、目の前で横たわっているのだから…
そう思った瞬間、私は昼に食べたであろう物体をトイレに駆け込んで吐きました。周りに聞こえるかもしれませんが、そんなの気にしていられません。
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( 心が追い付かない…感情が見当たらない…悲しい。寂しい。辛い。って感情はある。でも、明るい感情は何処にも見当たらない… )
視界がボヤけていました。壁にもたれないと歩けません。頑張って彼の元に戻りました。
そこには彼の母親が居ました。《今夜だけは2人っきりにしてあげる。》そう言い終わるとその人は部屋から出て、襖を激しく閉めました。
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「お帰り…大変だったね…今夜は一緒に寝よっか…」私は彼にそう伝え、隣に寄り添いました。でも彼の周りには保冷剤の様な物が敷き詰められ、ひっつく事は出来ません。
また現実を突き付けられました。( 解かってる!解かってるけど、今は忘れさせて… )誰に向けたか解かりませんが、私は必死に願い、訴えました。
そして、私は彼の寝顔が覗ける位置に横になり、彼の服の端を指でつまんで眠りにつきました。
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彼と一緒に眠れる最後の夜だから…私は気を失うまで彼に話し続けていました…
作者御姐
文章力がない私の拙い作品に目を通して頂き、有難う御座います。
基本フィクションです。
私(関西人)と彼の恋愛模様を綴っています。
過去形のお話です。
交際3年目を迎える前に彼からの正式なプロポーズ…
私と彼の幸せな生活が始まる。
はずでした…
前編・中編・後編の3部構成でお届け予定です。
更新はゆっくりですが、良ければお付き合い下さい。
※この回には人の死に纏わる描写があります。苦手な方はご遠慮下さい。