大学の帰り道、貴子は友人の咲と並んで自転車を押しながら歩いていた。
「あれ?自転車のサドルそんなのだった?」
貴子はふと咲の自転車に目をやり、そう訊いた。
「変えたのよ」
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ちょっと事情があってね。咲はそう言うと
「最近、誰かがわたしをつけていたのよ」
咲の声は、冷たいそよ風に吹かれて後ろに流れていった。貴子は思いもしなかった咲の告白に、心底驚いた。
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「それって、ストーカー?」
「そうそう。わたしのアパートにやってきて、部屋の窓をじっと見てたり、いつも行ってるスーパーでわたしと同じものを買ったり……」
「うわっ、きもちわる……」
貴子は思わず眉をひそめた。
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「この前なんかも、講義が終わって帰ろうとしたら、その男がわたしの自転車の前に立っていたのよ。わたしは駐輪場のそばに隠れて見ていたんだけど、そいつ何したと思う?」
「……サドルを盗んだとか?」
それでサドルを新調したのか。貴子は一人納得して、同時にこの話の気味の悪さに胸が詰まりそうになった。
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「それも正解!だけど、その前にその男、わたしのサドルに顔を押しつけて、匂いを嗅いだりしてるのよ」
咲はそう言うと、けらけらと笑い始めた。
「よく楽しそうに話せるね」
貴子はそんな咲の様子が、少し怖かった。だから、
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「だって、いまはもう解決したんだもん」
咲のその言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろした。
「警察に相談したの?」
「ううん」
「じゃあどうやって?」
「わたしいいこと思いついちゃって」
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咲はまた不気味に笑う。
「直接、その男に説得しに行ったのよ」
「ええー!」
「彼に訊いてやったの。……わたしのお尻をもっと近くで感じてみない?って」
「咲、どうにかしちゃったの⁈」
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冗談でしょ、そう貴子が吐き捨てても、咲の表情は変わらなかった。
「そしたら彼、わたしの提案に飛びついてきたわよ。それはそうだよね、彼にとってはなんの損もないはずだから。でもね」
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わたしだって、損をしたくて提案したわけじゃないのよ。咲は静かにそう言った。
「彼には前にサドルを盗られたからね。だから、新しいものをくれるよう、頼んだわ」
「……それで、いま乗ってる自転車のサドルは、その男がくれたものなのね」
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貴子は信じられないといった様子でそのサドルを見た。
それは、咲の自転車には不釣り合いな大きさで、いまにも転げ落ちてしまいそうな雰囲気があった。
表面はなんだかでこぼこしていて、決して座り心地が良さそうにはみえない。
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「うん、そうなのよ。貴子も乗ってみる?きっと喜ぶよ」
「やだ!気持ち悪い!」
本気で嫌がる貴子を見て、咲は再び楽しそうに笑いながら、
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「あ、もう行かなくちゃ」
腕時計をちらりと見やってそう言った。
「これから何かあるの?」
「うん。これから業者の人が、いらない部分を買い取ってくれるんだ」
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訝しそうな顔をする貴子をよそに、咲は自転車にまたがると、またねと手を振って颯爽と行ってしまった。ひとり残された貴子は、だんだん小さくなっていく咲の後ろ姿を、じっと見つめていた。
冷たい風が前方から吹きつけ、貴子の髪を撫でていく。
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その風は、いつもよりも少しだけ、生臭かった。
作者高坂一啓