鬱陶しい季節になった。
天気予報で梅雨入りが発表されたと聞いたのは昨日のことだったが、このところ空気だけ水っぽくなり、雨はぱらとも降らない。湿気を含んで重くなった体を引きずって、布団から這い出した。
火野煌介(ひのこうすけ)は、名前に火が2つもあるからか、水に関わるものが昔から苦手だった。
梅雨も大嫌いだ。蒸し暑いし、脳にカビが生えたかの如く、仕事の能率も下がる。数十年生きてきて、未だに付き合い方がわからない曇天を睨みつけながら、仕事へ向かうため支度を始めた。
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このアパートに引っ越してきてから、あることのせいで、梅雨が一層嫌いになった。
アパートの玄関、向かって左側に駐輪場がある。その駐輪場と玄関口との、ちょうど中間地点あたりに、花束が手向けられている。これが原因だ。
水不足のためか、綺麗に仕立てられていたであろう面影は、根元に巻かれたラメ入りのリボン以外に残っていない有様だ。痩せ細った生モノが放つ臭いは、寝起きで機嫌が悪い人間にとってよい目覚ましにはならない。
「またこんなところに」
この花束はアパートの1階に住む老人が、年中ずっと手向けているものだ。誰にあてたものなのかはわからないが、せめて一定の鮮度を維持してほしいと、ぐったりとした花たちを見るたび思う。雨がちになると、濡れてさらに見すぼらしくなる。
買うのが面倒なのか、敢えてそうしているのか、花から生気が失せるぎりぎりまで放置され、気づくと新しい花束が用意されているのだ。おそらく、住人も多少の迷惑を感じているが、献花なので何となくぞんざいに扱えないのと、その老人自身が放つ雰囲気も相まって、野放しにされているのだろう。
他の季節は構わないが、梅雨時はもうちょっと何とかしてほしい。満身創痍の花が出す臭気に鼻をつまみながら、胸のうちで毒づいた。
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………
数日後、煌介がゴミを出しに行った際、例の老人が、線の細い男性に怒鳴られている現場に遭遇してしまった。なんというか、鶏がらみたいな男だ。
交流はまるでないが、5階の男性だというのはなんとなく知っている。内心しまったと思いながら、ゴミを持ったまま引き返すわけにもいかず、ほとぼりが冷めるのを待った。
「このジジイ、文句があるならはっきり言えよ、あぁ?」
「……」
「んだよ、気色悪いな。これがおれんだって証拠はあんのかよ?」
「……」
「年寄りだからって図に乗ってんじゃねーよ!」
朝から血の気の多いことだ。
階下から聞こえる怒鳴り声を耳にすることはあったが、実際の場面を見るのは初めてだった。ひとしきり怒鳴り倒した後、足早に煌介の脇を通って、エレベーターに入っていった。
老人は、意に介さず、ひとつのゴミ袋を弄り始めた。さすがにこのまま見て見ぬふりはできなかったので、気がすすまないながらも声をかけた。
「あの、何があったんですか」
ばっと、凄い速度で老人が振り向いた。
白髪混じりの禿げ上がった額に滲む油汗が嫌悪を煽る。それ以上に、そのギョロ目が宿す光の鋭さ。情けないが、一瞬たじろいでしまった。
「ゴミは……ちゃんと分別せんと……ようないんです」
喉が悪いのか、通らない隙間から無理矢理おしだす声で、老人は答えた。瞬きが全くないのも余計に気味が悪い。
しかしなるほど、老人が触っていたゴミ袋を見てみると、可燃ゴミ用の袋に、プラスチック製の容器や、ペットボトル、空き缶、空き瓶、乾電池と、入れたい放題だ。他の住人は綺麗に分けているのに、明らかに目立つ。
「さっきのお兄さんのですか?」
「そういうわけでは……」
「でも、これは酷いですね。あんまり人に見られるとあれですし……手伝うんで、手早く片しましょうか」
「あ……いえ……触らん方が……」
「そういう貴方も、ここまでする必要ほんとはないはずですよ。さ、やりましょう」
一方的に卑下される老人を見て、なんとなく手を貸すことを決めた。
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………
都合よく全ての種類のゴミ袋が捨ててあったので、「すみませんね」と小声で断りつつ、それぞれに間借りさせてもらった。作業はものの数分で終わった。
最後のペットボトルを袋に押し込んだところで、煌介は老人の手が止まっていることに気づいた。かがんだままで放心しているように見えたが、視線の先には、あの花束があった。いつの間にやら新しいものに替えられていた。
「あの花はやっぱり貴方が置いたんですか」
煌介がそこにいることを忘れたのか、何も反応がない。別に答えてもらいたいわけでもなかったので、部屋に戻ろうとすると、
「……家内があそこで死にました」
耳元で囁かれた熱を感じた。
不意打ちに驚き振り返ったが、こちらに背をむけたままの老人が映っただけだった。思ったより数倍距離がある。
あの鶏がらと同意見なのは不本意だが、気色の悪い老人だ。
声をかけたことを少し後悔して、その場を後にした。
老人を罵倒していた若者は、煌介より後に住み着いた人間だ。彼が引っ越してきてから、『ゴミはきちんと分別してください』というチラシが郵便受けに放り込まれるようになったので、少なからず秩序が乱されているのは確かだ。
ただ、若者の主張通り、証拠がないのに個人を攻撃するわけにもいかなかった。第一、煌介はあまり関わりたくないというのが本音だった。
しかし、いらぬ縁ほど引き合うのか、翌週、図らずもまた同じ舞台に上がってしまった。
「んだよ!!その疑うような目、気分悪いっての!!!」
「……」
「ったく、ババアとセットで、気持ち悪ぃ」
「……」
「余計なおせっかいを焼くと、寿命縮まるぜ、じーさん」
薄ら笑いを浮かべたまま、煌介の横を鶏がらはすり抜けていった。少しその姿を目で追ってから、老人のもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「ゴミは……分別せんと……」
「もう、そこそこで辞めときましょうよ。貴方がもちませんよ」
老人は地面を見つめたまま、動かない。その足元には、分別の気遣いが微塵も見て取れないゴミ袋が転がっている。
「んなああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
突如、上層階から野太い悲鳴が降ってきた。反射的に見上げると、5階の廊下に金髪頭があった。さっきの鶏がらだ。顔を通路側に向けているので、表情は分からない。
「おい、なんなんだよ、これは!!!」
張り上げているが、完全に気圧された声色だ。
「えっと……とりあえず見てきますね」
一切聞こえないふりを決め込むのか、微動だにしない老人を残して、階段を駆け上がった。このアパートのエレベーターは呆れるほど遅い。
さすがに5階まで階段を使うと、息が上がる。半ば酸欠になりながら、煌介はたどり着いた。
「はぁ、はぁ……どうしたん……」
視界から得た情報の処理が追いつかず、言葉が詰まった。
廊下に追いやられた鶏がらと、視線の先の開かれた扉。彼の部屋なのだろう。階段から遠い部屋なので、まだ距離はあるが、異様なのは、開け放たれた部屋から雪崩をつくって、廊下にまで溢れかえっているゴミ袋の山。どれだけ溜め込めばこんな量になるのだろうか。
「なんの冗談だよ……」
さっきまでの威勢は消し飛び、がちがち鳴らす歯の隙間から男性はそれだけ発した。情景も不可解だが、怯え方が大げさだ。彼の視線は、部屋の中に注がれている。
その部屋から、何かが出てきた。
「何か」としたのは、茶色く萎れた大小の花で全身を覆い、白髪を汚らしく伸ばした人型のそれを形容できる言葉を、煌介は知らなかったためだ。
「く、来んなよ……!!」
廊下の壁を背もたれに、男性は立ち上がった。見た目には全身で「何か」から遠ざかろうとしているが、体が言うことを聞いていない。
一瞬の出来事だった。
ようやっと立ち上がった直後、男性の体が後方に反り返った。肩を掴んで外に引っ張りこまれたようにも見えた。そのまま視界から男性が消える。
ぱーんと、水分を含んだ柔らかいものが叩きつけられ、破裂する音が響く。
煌介は我に返った。
「あ、あれ?」
ゴミの雪崩が消えている。「何か」も、いない。
男性は、自室の前の廊下でへたり込み、白目を向いてびくびくと痙攣していた。
思考が追いついていないが、煌介は男性に歩み寄り、介抱した。携帯で救急車を呼びながら、目の端は部屋の中を捉えた。ゴミ袋はひとつもなく、代わりに、濡れそぼった枯れ花が一輪、玄関先に横たわっていた。
とりあえず電話の用件を済ませたところで、老人のことを思い出し、廊下から下を覗いた。
そして、後悔した。
目下には、今摘んできたと言わんばかりに生気を放つ、鮮やかな花々で縁取られた、人の形があった。
命が消える瞬間。手折られた痛々しい生の流れが、網膜を突き抜けて脳を抉った。
背中側から皮膚が粟立つのを感じたそのとき、エレベーターの到着音が響き、あわやその人形めがけて飛び込みそうになった。
振り返ると、エレベーターから老人が出てきた。
「ゴミは……ちゃんと分別せんと……ようないんです」
それだけ言い残し、老人はなぜか階段で降りていった。
薄暗い空から、思い出したように雨が降り始めた。濡れたアスファルトの匂いが立ち込め、煌介は、やっぱり雨は苦手だと思った。
作者Иas brosba