長編8
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ただ一枚の肖像画

 叔父の様子を見に行ってくれ、と父から言われた。

 叔父は大学を出て、就職せず絵ばかり描いていて、親戚の大人達からは嫌われていた。私には優しくて面白い叔父で慕っていたのだが、私もまた就職活動をして社会に出るようになってからは疎遠になってしまった。

 世の中には「若旦那の道楽」とか「ちょっとだけ堅気ではない親戚」というカテゴリがあったと聞くのだが、社会の景気が悪くなって心のゆとりが削られるようになると、厄介者の居場所もなくなっていくようだ。

 祖父が亡くなったとき相続したマンションに住んでいたのだが、もう連絡が絶えて何年も経ち、昨日いきなり郵便で玄関の鍵が送られてきたのだという。

 手紙が一枚入っていて、「兄さん、後は頼む」の一文だけ書かれている。

 父にはもう叔父へ家族の情など無くなっていることと、仕事で忙しいこととで、私に「様子を見に行ってくれ」となったわけだ。

 私にも小さな予定はあるのだが、父にしてみたら「今すぐじゃなくていい、お前の予定が開いたときにでいい」と、どうでもいい感が丸出しである。

 そう言われてしまうと叔父へ同情とか、自分もまた疎遠にしてしまっていた後悔が出てくる。

 とりあえず様子を見るだけ、今出発しよう。

 電車で数十分、駅から歩いて数分、祖父の遺産として申し分のない立派なマンションだ。

 入り口の管理人はじろっと見てくるが、鍵はマンションの正面玄関の鍵も兼ねている、私が自分で開けるぶんには何も言ってこない。エレベーターで最上階に行き、叔父の部屋まで誰にもすれ違わない。

 玄関を開けると絵具の臭いがものすごい。

 玄関からキッチンから、膨大な数の絵が立てかけられて積み上がっている。全部叔父が描いたものか。

 ごめんくださーいとか叔父さーんとか声をかけるのだけど、何の返事もない。

 中に入る。

 玄関を開けてすぐがダイニング、奥に二つ、寝室と書斎に使っている部屋がある。

 まず寝室のドアを開けて中を覗くのだが、普通に寝室である。ベッドもきちんとセットされている。

 書斎のドアを開けると、ちょうど部屋の真ん中にイーゼルが立てかけられていて、大きな布がかぶせられている。

 布をめくって見ると、肖像画だ。風景を専門に描いている叔父には珍しい。人物の周囲にみっしりと描かれている部分は、全て同じ筆致の風景画だ。

 しかしこの絵、顔が描かれていない。

 顔だけが描かれていないのではなく、首から上が描かれていないのでもなく、胸から上が楕円形に空白だ。

 描かれているのは女性だ。服が白いワンピースで、ベッドのシーツのようにぞろっとしてる、そして髪が腰下まで長い。

 周囲の風景は綿密に描かれていて、風景画の画風そのままで、まさしく叔父の絵だ。

 顔の部分はキャンパス地そのままだ、なぜここだけ描かないのだろう。

 布をかけて、とりあえず父にメールを送る。

「叔父さんは不在、特に変わった様子はなし」。

 しばらく部屋の中で絵を見ていたら返信がきて

「わかった、今日の所はもう帰ってこい」

 へいへい、と帰ろうとしたら、部屋の中の電話が鳴った。

「○○県警です。××さんのお宅ですか?」

「はいそうです」

「××△△さんのご家族の方ですか?」

「甥です」

「そうですか。△△さんがどこどこでお亡くなりになっていたのが発見されまして、ご足労いただけないでしょうか」

 びっくりして、要点を聞いて、家族と話してすぐお返事します、と言って電話を切る。

 父に「至急!」メールを送るとすぐ返事が戻って

「お前が行ってくれ」。

 まぁそうなるわな。

 警察で状況を説明され、事情を話し(叔父には奥さんも子供もいません)、本人確認をする。

 叔父で間違いないんだけど…ガリガリに痩せているのはお金がなくて食べる物がなかったからだと思うけど、脅えている表情がよく解らない。

 別に外傷はなく格闘の形跡もない、衰弱しての心不全でしょう、と言われた。事件性は無し、と言われ、葬儀社の人に頼んであとのことを頼む。

 ここいら辺は速い。父の兄弟が集まってもろもろの分担を決める。叔父さんの遺品は、と口を挟んでも

「あいつが値打ち物を持っているわけはない。金は全部絵を描く道具につぎ込んでいたからな。金目の物があったらお前の小遣いにしていい」と後始末を押しつけられる。全部片付いたらマンションも売り、皆で平等に分配するのだそうだ。

 役所への届け出は葬儀屋さんにお願いし、部屋の整理に向かう。

 山ほどある絵を部屋の中央に積み、片っ端から引き出しを開けて現金とか預金通帳とかを探すのだけど、これがまた見事に見つからない。貴金属類もない。父が言っていたとおり「値打ち物を持っているわけはない」のようだ。

 小銭すらポケットにあった財布に入っていただけのようで、全て絵を描くことに注ぎ込んでいたんだろう。となると家具の処理費用なんか、このマンションを売ったお金で賄うのだろうか。

 あとは絵に価値があるかどうかだけど、どうかな。何枚か選んで画商に見てもらわないといけないんだろうけど、画商だって無名画家の絵は無料では見てくれまい。お金がかかるな。

 しかし飾っておきたいと思う絵は、結構あるんだけどね。市場性があるかどうか、か。

 絵を一枚一枚見て、山の絵海の絵里の絵などと区分していったら、もう日が落ちてしまった。外が暗い。

 商店街に出てご飯を食べて、家に「今日は叔父さんの家に泊まる」とメールを送る。

 絵の選別を終わらせて、ようやく唯一の例外、顔のない肖像画を見る。

 布を外して考える。誰を描いたんだろうな。

 今の時代には性別が違っても、実は画家の自画像だったってケースがあるらしくて、ダヴィンチの「モナリザ」も、実はダヴィンチの自画像だったんだよ!て人がいるくらいである。そういえば「全ての肖像画は自画像なんだ、自分の要素が入ってしまうんだ」と言う人もいると叔父から教えられたこともあり、絵を描く技のない私にはよく解らない。この肖像画も実は叔父さんなのかね。

 この肖像画が置かれている部屋には、姿見があって、この肖像画を描くため自分でポーズをとって参考にする、くらいはあるだろうな。他は一枚残らず風景画で人が描かれていない、この姿見はこの肖像画のために買ったんだろうな。

 まぁ、今日は終わりだ。明日何枚か持って画商に行こう。

 叔父のベッドで寝ていたら、隣の部屋からなんか音が聞こえて目が覚めた。

 バタバタバタバタバタバタバタバタと、音が途切れずしている。今何時だよと時計を見ると、深夜の三時である。

 なんだ?どっかから鳥でも入ったのか?というバタバタ音である。

 人の出す音ではない、人ではない、と思ったことが恐怖を感じなかったのだろう、隣の部屋を見にいこうと起き上がった。

 扉を開けて、キッチンのある部屋はそのままだ、積み重ねられた絵の塔がそのまま。

 部屋の扉を開けると、肖像画にかけてある布の上の方が、こちら側に盛り上がって暴れている。

 あ?と近づき布を外すと、キャンバスの無地の部分がこちら側に膨らんでいて、黒い粒のようなものがたくさん、上から下に回っているのが解った。

 ぐるぐると、向こうからこちらへ、こちらから向こうへ、上下に回っている。

 なんだこれ?とじっと見ていると、キャンバス地が膨らんで薄くなっていて、小さな黒い物は蛙の卵のように細い管に入っている、それが何十本、ひょっとして百本単位で管が縦に回転している、いや待て待て、管が内側からキャンバス生地に打たれて、それで音がしているんだけど、当たって下に行って次の管が当てられ下にと、え?どうなっているんだ?

 引き込まれるように肖像画に顔を近づけて正体を見極めたいとなっていることに気がついて、体を引く。

 イーゼルの後ろに回って絵の裏を見るが、変なところは何もない。

 紙の中から表に出ようとバチバチやっているのか?

 後になって考えて見ると、あまりにも訳が解らなくて怖さを感じなかったのだろう、さらに何故か(このために買ったのか!)と思って、姿見を絵に向かい合わせに置いて、寝室に戻って寝た。

 朝になって目が覚め、夢を見たのかと思ったが、隣の部屋に行くと姿見は絵の前に置かれ、かけ忘れた布は絵の側に落ちている。私が外して置いたその場所だ。

(どうしたもんかなぁ)と、まさか父に伝えるわけにはいくまい、とりあえずインターネット掲示板に

「なんだかおっかない絵があるんだけど、どうしたらいい?」と書き込むと、すぐに「画像up」「俺にくれ!」と返事が書かれるのだが、下手なことをして大事になったら困るし、誰が個人情報を教えるか。やはりネットへの相談は意味ないか、と思っていたら、

「大都会の一番大きな画廊に相談するといいですよ。来客数が多く、いろんな問い合わせがあるお店でしたら、そういう不可思議な相談も持ちかけられるので知識を持っている店員さんがいるものです」と教えてくれた人が出た。

 なるほどと思い感謝の言葉を書いてから、この絵も画商に持っていくことにした。

 画廊の人は、風景画は「うちでは扱いませんが、この人の送別展としてまとめて販売展示したら、金額にもよりますが買う人はいると思いますよ」と、一枚数万円で売れる可能性を言ってくれた。

 顔のない肖像画については話を聞いてくれて、絵そのものについてのコメントは一切なく、

「私どもに売ってくださるなら、売り主様の個人情報は絶対に守ります。ですので買い主様についての情報も、売り主様にとて教えることはできません、それでもよろしければ買い取らせていただきます」と、結構な金額を言ってきた。

 こっちもその額なら嬉しいのだが、買い主の個人情報とはどういうことかを訊ねたら、あとでこの絵が必要になったときや、この絵が誰の手に渡ったかを知らなくてはならないことになっても、教えることはできません、ということらしい。

 うーん、と考え、後になってこの絵は本当はもっと高価なんじゃないかと気になるとか、何か恐ろしいことが起こってこの絵が必要になったときのことかな?と思うのだが、よく解らない。あのマンションも売ってしまうということだし、別に構わないかと了承した。

 相談料というか鑑定料というかは、売買成立ですので不要です、と言ってくれた。

 叔父の葬儀は来られる親族だけで、一番簡単なのを行った。

 マンションはすぐ売れ、私にもお金がきた。

 叔父の送別展はまだやっておらず、大量の絵は私の部屋にある。

 あの肖像画を売ったことでのおかしな事は、何も起こっていない。

Concrete
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