喉も、心も、乾ききっていた。潤いが欲しかった。酷暑を撒き散らす太陽を受け、アスファルトはそこかしこで不知火を吹き上げる。
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……
つい数日前のこと、男は休日を持て余していた。
「夢を叶えるため、退職します」
目をかけてやった部下が、強い光を瞳にたたえてそう切り出したのは半月ほど前、まさに大型企画始動が目と鼻の先にあるタイミングだった。おかげで人員の再編成、部外への挨拶回り、根を回していたつながりへ平謝りの末に納期延期を交渉と、イベント山積だった。
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……ゆとりが。
心の中で部下を何度痛めつけたか覚えていない。ほどなく事態は収束。部署のために、プロジェクトを繋ぎ止めた名フィクサーも、会社という城から出れば、なんの変哲も無い独身中年。そんな空っぽの男がいとまを得たところで、博打で擦るか、女を買うか、底のない食欲を満たすかと、出来ることなど限られている。
若い頃描いた青写真に、現実はどう頑張っても重ならない。落胆するには、男は幾らか歳を取りすぎていた。
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夢を叶えるため……目を閉じるたび、揺るぎない意志を燃やして煌めく両目が、車のハイビームの如く、男の安眠を妨げた。ありったけの光量を男にぶつけ、その背後に伸び、男の青写真を投影している。
「……カスめ」
理由や理屈など存在しない、剥き出しの下劣な悪意。しかしそれは、自分が失った潤いや輝きに対する羨望の裏返しであることにも、男は気づいていた。
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心を受け入れた部下と、心を騙して生きる己。夢の中で二体を焼却炉にぶち込んだ。ものの数秒で、己はあっけなく灰になった。部下は、嫉妬の業火を全身に受けてなお光を失わない。焼け死ねと幾ら念じても、光は男の心に刺さって消えなかった。
……若さが、瑞々しさが、どうしようもなく羨ましい。
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休日返上で問題解決に当たった男に、報酬として与えられたのは、賞賛でも尊敬の眼差しでもなく、代休だった。だとして出かける気も失せるような、うだる暑さに、加えて趣味も用事もない。
寝そべり、起きて、煙を飲む、そんなローテーション。もうその日何本目かもわからなくなった煙草に火をつけるため、ベランダに出た。見下ろすと、雑踏に混じって、若い女性のグループが目に入った。
露出した白い肩と、艶やかにたなびく黒い髪が、日差しを跳ね返してきた。女の匂いを感じた。ハイビームが脳をよぎる……
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我に返ったとき、男はソファに体を預けていた。目の前にはテーブル、水だけ入ったガラスボウル、手前に、綺麗に並べて置かれた箸。
何かを食ったのか?
記憶が出てこない。ただ、満腹感は確かにある。時計を見る。23時を指している。
ベランダにいたのが昼過ぎだったので、10時間ほど記憶がすっこ抜けている。
よほど疲れていたのだろうか。それでも食欲だけはしっかりしているとは、動物というのはよく出来ている。
「もう若くないな」
そう呟いて、呟いたことを酷く忌々しく思った。
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……
つかの間の休息も終わり、翌日から仕事に戻った。次から次へ、呼びもしないのに問題がやってくる。
男にとってプロジェクトの件をビッグバンに例えるなら、その他などボヤ程度である。年度末まではあのような馬鹿が居なければのらりくらり生きられるだろう、そんなことを考えていた。
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仕事を終えマンションに帰りつき、一服のためベランダへ向かう。夏の日は長い、19時をとうに過ぎたが、街灯の助けもあり、下の世界が見えた。
仕事帰りの人間や、夏休みを持て余しているのか、高校生くらいの男女が4、5人、連れ立っている。団体が、街灯の下で、舗道を逆行する茶髪の美女とすれ違った。髪を耳にかけており、ピアスが覗く。街灯の灯りを受けて、一瞬まばゆい光を放った……
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光に思わずまばたきをしたと思ったが、違った。ソファにだらしなく座って、見上げた天井が次の風景だった。そのまま首だけ動かして時計を見る。
23時。
ソファから飛び退いた。テーブルの端を蹴ってしまった。痛みに悪態を吐くが、続いて耳で捉えた違和感がすぐにやってくる。
ガタ、カチャン。
振動を感じたガラスボウルと箸が鳴った音だった。
改めてテーブルの上を凝視する。食った。昨日と同じように、何かを。また記憶がない。気づきと同時にやってくる満たされた腹の感覚。
無性に顔を洗いたくなった。よろけながら洗面台まで行き、電気をつける。
映った男の顔、口の周りに明るい茶色をした、細長い何かが無数に付着していた。
瞬間、どっと滲み出た油汗と、その得体の知れない何かを流すため、必要以上の水を被った。洗面台で肩までずぶ濡れにしたためか、それ以外の理由か、男はその夜、布団を頭までかけ、震えを抑えていた。
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……
「改めまして、鴫田と申します。メモを取りながらで恐縮ですが、では、当時あなたが見たものを、出来るだけ詳しく、お聞かせ願えますか」
「その、私もね、信じられなかったというか、気が動転していたんで……パートが終わって、ついでに勤め先のスーパーで買い物も済ませて、いつも通り帰宅していました。通勤はいつも同じ道を使っていて、あのマンションの前を通って帰るのが、いつも通りなんです。で、その、普通にマンションを通り過ぎようとしたら、上から何か降ってきて……20メートルくらい先に落ちたんで、怪我の心配とか、危ないと思ったとかは、あんまりなかったんですけど、その……ちょっと辺りが暗くはなってきてたし、はっきり見れてないんですけど、人、みたいなものが落ちてきたんです。てっきり飛び降り自殺かと。でも……」
「続けてください」
「えぇ、でも、その、落ちてきた人みたいなのが、落ちてきてそのまま、もの凄い速度で、反対側の道路に移動して、また跳んで、いなくなったんです」
「飛んだ、というのは、飛行したと?」
「いえ、跳んだってのは、ジャンプした、みたいな感じでした。動きは生き物なんですけど、信じられない速さで、すぐ見えなくなって。ぴょーん、ぴょーんって感じで、マンションの向かいの、山の方に消えていきました。大きい猫だったのかな?」
「飛び降りかもしれない、と思ったのはなぜですか」
「そりゃ……マンションから何か降ってきたら、誰でもそう思うんじゃないですか?ていうのと、明らかに、落ちてきたスピードも速かったし、地面についたときも、パーン、みたいな、大きい音が響いたし。でも、私があれこれ考える間もなく、いなくなりました。形は人っぽかったけど、動物って言われればそうかもしれないです。だって、人が、あんなに跳んだり跳ねたり出来るわけないですし」
「では、その何者かが、視界から消える前に、跳ぶ以外のことを何かしましたか」
「え、何かって?」
「例えば、反対側の歩道に移って、何かを拾った、とか」
「いやー、あんまり一瞬だったんで、わかりません。ただ、見たのは、本当だと思います。自信はあんまりないですけど。お話できるのは、このくらいだと思います」
「わかりました。またもし何か思い出したら、こちらの電話番号にご連絡ください」
「警察の人が聞きに来てるってことは、事件なんですか」
「いやいや、たいしたことではないですよ。それでは、失礼いたします」
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……
次の日、男は夜を恐れていた。
夕暮れとともに、記憶が飛ぶ。字面にするだけ、気がふれているとしか思えない状態が、2日連続で続いている。これをどう解釈すればよいのか。フィクサーが最も恐怖するのは、解決すべき問題が不明で、かつ、それを浮き彫りにする情報が不足していることだった。理解不能であることと、それが夜とともにやってくるという事実が、男の心理をぐちゃぐちゃと不快な音を伴い掻き乱していた。
その音に耳を塞ぎ、回らない頭で、ベランダに出たことも共通していたと思い至った。煙草を我慢し、昨日食いそびれたコンビニ弁当を食って、さっさと寝る。考えうる原因から出来るだけ遠ざかる、とりあえず今日やることはそれだけだ。
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ピンポーン
誰だこんな時間に。
「夜分に恐れ入ります。△△警察のシギタと申します。お伺いしたいことがありますので、少しお時間をいただいてよろしいでしょうか」
警察?事件だろうか。
「何をお聞きになりたいのですか」
「捜査に関わることです。手短に済ませますので、ご協力をお願いいたします」
音声だけだが、インターホンから伝わってくる声の調子で、直感した。
本物の警察、それも、下っ端ではない。このシギタと名乗る者のつくる雰囲気には、どこかそれを感じさせるオーラのようなものが垣間見える。
「分かりました。三階まで上がっていただくのもあれなので、降ります」
「あ、いえいえ、伺うので正面のオートロックだけ、解除していただけますか」
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……上がってくるだと?まるで、おれが下へ降りるふりをして逃げるとでも言いたそうだ。男はそう感じた。
そういえば、インターホンは鳴らされたものの、こちらの名前はまだ確認されていない。身元を偽られるのを避けるため?であれば、聞き込みの形式は取っているが、ターゲットはおれに絞られている。疑うのか、何の容疑だ?
あらぬ疑いをかけられてはたまらないので、大人しく従うことにした。
ゴトン
ほどなくしてエレベーターの開閉音が聞こえた。ドアベルを待たずに、こちらから迎えることにした。
ドアを開ける。読み通り、いかにもという感じの男性が近づいてくる。スーツ姿ということは、駐在ではない、刑事か。
「あ、わざわざ出て下さって申し訳ない」
かかった。
男には、そんな刑事の本音が、獲物を前に生唾を呑む音と同時に聞こえた気がした。さすがプロだけあって、顔にこそ出ていないが、「疑」とはっきり書いた面をつけているようにしか見えない。
「改めまして、鴫田と申します」
手帳を見せながら、挨拶をしてきた。廊下の電気に反射して、ビニールカバーに収められた鴫田の顔写真が白くなる。
なんだ、おれは何もしていないぞ。あらぬ疑いをかけて、空くじを引いたことがそんなに嬉しいのか。虚像に思いを馳せて、おれを辱めるのがそんなに楽しいか。おい、どうなんだよカスが!!
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……
男は肩で息をしていた。疲弊している、腹も空いている、食事をしていないからだ。
頭ではなく、本能がそう解釈しているのを、男は脳の中から見物していた。
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今、男は、自らの意思でない、別の何者かによって操られている己の身体を傍観している。何者かが男の目を使って情報を得るためキョロキョロとしている。その映像から考えると、ここはマンションの向かいの山の中のようだ。探しているものが、この辺りにある。追っ手が来る前にエネルギーを回復しなくては。
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頭を少し後ろにそらし、2、3回、短く息を吸い込んだ。匂いを嗅いでいるようだ。もちろん、嗅覚から得た情報は脳に与えられるので、男も感じることができるが、情報を読み解く術が男にはない。何者かは、探り当てたようだ。木が密集している、暗がりになった場所に、男の身体は走った。
少し開けた場所に出た。土が荒らされている。男の身体は、土が柔らかくなっている部分に、素手を突っ込んで掘り返し始めた。
すぐに、女性が2名、土の中から現れた。
あった、黒色と、茶色。
何者かが興奮している傍ら、男は、この2名の首がありえない角度に折れ曲がっていることを確認した。
何者かは、2名の髪を毟り取った。
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汚い、このままでは食えない、本当は箸も欲しいが、時間がない。仕方ないから泥だけ落とそう。
水辺に出て、髪を洗った。川へ浸けた手から、泥とともに何かが水へ滲み出た。
鴫田の血だ。
何者かは構わず、髪にむしゃぶりついた。数回咀嚼し、噛み切れなかった残りは、すする。旨い。たぶん、何者かはそう言ったのだろうが、獰猛な生物が喉を鳴らした音しか、男の脳には届かなかった。
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「動くな!!」
向けられた懐中電灯に、何者かは怯んだ。食事に夢中で足音を聞き逃したか。まぁいい。すぐ動けなくしてやる。
標的を見据え、何者かは飛びかかった。狙い通り、馬乗りにしてやった。あとは手で首の辺りを……
上げた右手がそこから動こうとしない。
おい、どうした、さっさと片付けて食事の続きを楽しみたいのに、思うように動かない。
仕方ない、駄目なら噛み潰すだけだ。
何者かは捕らえた獲物の喉笛めがけて口を開けた。
が、今度は思うように口が開かない。
なんだ、どうなったんだこの身体は。
何者かは困惑した。この隙に男は、持てる力の全てを、けだものと化した己の身体を制することに注いだ。
こいつは、おそらく鴫田の仲間だろう。もう発砲許可は出ているはず。
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頼む、止めてくれ!
男は祈るように、下敷きになった人間に、馬乗りのまま頭を下げた。最後に感じたのは、硬いものが頭蓋を突き破る感触だった。
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……
「鴫田さん、体はもう大丈夫なんですか?」
「あぁ、素手で生皮を剥がれただけだから、大したことはないよ。瞼もやられたんで、出血が多かっただけだ」
「おれ、犯人を……」
「正当防衛だよ。あれは、人じゃない。少なくとも、我々が普段相手にしている人間とは、別種の何かだ」
「別種の?」
「まずい、と思ったときには、もう食らってたからあれだが、スイッチが入った瞬間、奴の目が変わった。黒目が縦にすっと伸びて、完全に獣の面だった。僕は、仇を取ってくれた君に感謝しているし、人殺しだなんて微塵も思っていない」
「……あれはいったい、何だったんでしょうか」
「分からない。ただ、解剖医の話だと、身体的な特長は、至って普通の成人男性らしい。しいて言うなら、理性を持たないヒトってところか」
「理性?」
「人間は理性によって、生物としての発展を遂げた。それゆえに、一説には、そのリミッターが、人間の肉体的限界を大きく限定している、という話もある。体が疲れているのでなく、その前に脳が疲労の信号を、リミットとして送っているんじゃないかってね。ただ、この理性が、獣と人の境界線なんじゃないかと、僕は思う」
「あれは、人ではなかったってことでしょうか」
「答えは分からないけど、この社会で、人として暮らすには、法を遵守しなければならない。背くのであれば、それを取り締まるのが僕たちの仕事だよ。君は、立派に仕事をしたよ」
「そう、ですか。ありがとうございます」
「一服してから行くから、先に上がってて」
「承知しました」
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鴫田は、非常口から外に出て、灰皿に向かった。煙草を咥え、火を近づける。じりじりと巻紙が焼ける音を聞きながら、部下との会話を反芻した。
そう、あの子は仕事をした。人が、法に背いたとして、この決着をみた。あの子は、男が獣でなく、あくまで人として裁かれる余地を残したのだ。
あの日、男の部屋から、微かだが煙草の匂いがした。嗜好品を欲するのも、人間の特徴だ。
そして、自分が訪ねたときも、男はドアを開けて迎えた。
マンションの通りから男のものと思われる素足の足型、そして微量に検出されたカーペットの繊維、その購入履歴。
これらがなかったら、即刻シロだと判定していた。それほどに、潔白だと全身で訴えようとしていた。
それだけは忘れないでおきたい。
ゆらゆらと空へ上がってゆく煙を、鴫田は見送った。
作者Иas brosba
本源的な人間とその真の欲求とその義務の基本的な原理についてのこの研究こそ、道徳的不平等の起源や政治団体の真の基礎やその成員相互の権利や、その他多くの重要であるが明らかにされていない、似たような問題について起こってくるたくさんの困難を取り除くために、人々が使うことのできる唯一のすぐれた方法である。
ジャン・ジャック・ルソー