暗闇を裂いて、車輛のヘッドライトが道を照らす。
ズタズタになった防風林の並んでいた場所を、ブロロロ……とセダンタイプの車輛が一台、寂しく走り抜けて行く。
眉間に皺(シワ)を寄せた男がハンドルを握り、走り屋の如く猛スピードで駆け抜けるでも無く、かと言って臆病とも思える様なノロノロ運転でも無い───言わば丁度良い速度で走り去る。
チラリ、チラリとカーオーディオの時計と腕時計とを見比べる。
「……フン」
不機嫌な息を鼻から出す。
2:00……多くの知る、草木も眠る丑三つ時である。
いつの間にやら、後部座席に髪の長い、白く薄い服に身を包む女が音も無く乗っている。
俯(うつむ)いていて青白く、表情は読み取れない。
「……来たか」
チラリとバックミラーを見た男、低く呟き速度を上げるでも無く、落とすでも無く、変わらず防風林のなぎ倒された一帯を走り続けている。
「……え」
───女の口元だけが、かすれた声と共に開く。
忌々しそうな目付きでジロリとバックミラーを一瞥して、男は口元を歪ませる。
「……あ」
───再び女が口を開く。
明らかに乗り込んで来た様子も無く後部座席に現れて、この世の存在とも思えない異物と接触しているにも関わらず、乗せている男は恐怖どころか憤怒(ふんぬ)の表情でいながらも、穏やかにブレーキを掛けた。
「……どうして」
───後部座席右側……運転席真後ろの窓に手を掛けた女が、先程と変わらぬかすれた声で呟く。震えているのか、身体がブレ始める。
「さあな。怨むかい?怨むんなら、海の神様にでも喰って掛かる事だ。死んだ自覚も無いから乗せろって頼んでだよ、それで乗せたら消えてよ、タクシーの運ちゃんがどんだけ迷惑してると思ってんだ。で、此処(ここ)がどうやらアンタの家が〝在った〟所みたいだがな……どうだよ、どうなんだよ」
下唇を上の前歯で噛み、忌々しそうな表情を崩さず、男は拳を握り締める。
「う、う……あははは……私、死んだ……のね……どうして……どうして……なの……」
「どうして……どうして……」
声が増えて来た。後部座席右側の窓に手を置いたまま崩れ落ちる女の隣に、中高年とおぼしき夫婦が、肩を寄せ合って震えている。
「娘……娘……」
「あの子は……あの子は……」
「御宅等(おたくら)、あの髪の長い娘さんとは、知り合いで無いらしいな。同じ地震で、アンタ等も亡くなった様だ。だがな、あの日に元気な女の子が産まれた人も居たみたいだぜ」
冷たくあしらい続けようとしたが、徐々に軟化した口調になり始めた男、ふと震災直後に起きた奇跡とも思える話が、新聞記事に載っていたのを思い出して、話し始める。
「本当に……」
「ああ……もしかして……」
安堵に満ちた様な声がしたかと思うとそれは遠ざかり、夫婦の姿が穏やかに消えて行った。
「この辺りもなァ、津波が来てよ。防風林がなぎ倒されちまって、家も建物も飲み込まれちまった……だから家が見付からねェのは当たりま……」
「御免なさい……許せないけど……御免なさい………」
すすり泣きが聞こえながらも、その悲しみに満ちた声も遠ざかり、いつの間にやら女の姿も消え掛かっている。
「許せない?何の事だ」と睨み付けようとするも、良く良く考えれば、自分自身も料金を支払わずに消える幽霊客を許せず、夜な夜な暗闇の道を走り抜けていた為、或る意味では身勝手なる義憤である事には変わり無いよな、と男は思いとどまる。
「俺も……悪かったな」
ふと男が気付くと日が高くなっており、車内の熱さでじっとりと汗をかいていた。
警察車輛が男の周りを囲んでおり、聞く所に依ると明け方近くから、ずっとセダンが停まっていると、カブに跨がる新聞配達員からの通報が有ったとの事である。
もっとも、広範囲に亘(わた)って濡れていた後部座席に関しては、原因不明との結論が出されて、首をかしげられてしまったが。
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暫くして、上司に呼び止められる。
「お前、夜な夜な海沿いの防風林がなぎ倒された場所を走ってるらしいな。夜のドライヴも結構だがな……タクシーの運転手のコスプレはやめとけ。自分の業務に邁進しなってこった」
「……え」
───面妖(おか)しい。密かな身勝手なる義憤から起こした行動だった筈なのに。しかも、誰一人として口外してもいない筈なのに。
更には、あの件に懲りる格好で、此処数ヶ月は走り抜けてもいないのだが……はて。
「ハイ、気を付けます」とは言ったが………いや、待てよ。
男はふと思い出して、滅多に開ける事の無いダッシュボードを、ガチャリと確認して見る。
「あちゃー……」
御守りがちぎれていた。
車屋から貰った説明書も車検証も、傷一つ無いのに……だ。
フロントガラスに貼り付けようとするも、吸盤の力が弱く諦めて、致し方無くしまっていたのを思い出した。
作者芝阪雁茂
怖さを覚えにくい、変な話を御送りしたく思います。
さて。あの震災で、多くの命が奪われました。私の親戚にも、若くして亡くなった子が居て、震災直後の身内からの電話で災害への怒りと悲しみが芽生えると同時に、原発事故の風評被害や、避難民を侮辱し恐喝を働いた加害者の枕元に立ってやりたいと、何度思った事でしょう。と同時に、別な怒りも込み上げて来たのです。それは……