今から七年ほど前まで、うちには一匹のハスキー犬がいた。
名前はロッピーといい、メスの犬だった。仔犬の時に保護しそれから一五歳まで生き、老衰で天に召されていった。
犬種については、保護してすぐに連れて行った動物病院のドクターが「ハスキーですね」と言ったのでハスキーなのかというだけで、証明するものなどは何もない。だが、成犬になるにつれての見た目と大きさは確かにハスキー犬で力がとても強かった。大の大人でもしっかり綱を掴んでいないとロッピーに引きずられてしまう。まさに、そりを引く犬種なのだと、いつも感心していた
性格はとても穏やかで優しく、唸るとか吠えるとか、そんなことはまったくない犬だった。誰が近づいても、初めて会う人でも嬉しそうに尻尾を振る。遊んでくれるのかとぴょんぴょんと跳ね回る。散歩中にあう他の犬にも嬉しそうに尻尾を振る。相手から唸られ吠えられてもロッピーからは一度も吠えることはない。
その姿がまた愛らしい。
夫の父が犬舎を作ってくれて、その周りを柵で囲み、その中でロッピーは自由に動き回っていた。
戦後などという言葉はもう、使うことも聞くこともなくなったが、七〇代以上の老齢の方々にとっては、戦後の時代というのはいまだはっきりと目に浮かぶものだと思う。
食料不足は人間が生き延びることを最優先にされた。
犬も食料のひとつに数えられた。赤犬がおいしいとされ、殺され、人の食料になっていったのだという。
ある職業の人達などは昼ごはんにするために、現場に向かうトラックに赤犬も一緒に乗せていったという。
私が子供の頃住んでいた家の隣に近所から「こさやん」と呼ばれる人がいた。
こさやんの家には犬が一匹いたが、ある日、こさやんはその犬をトンカチのようなもので頭を殴打し殺してしまった。母は犬の悲鳴を聞いてしまったと言っていた。
その後、こさやんは病気で半身が不随となり不遇な人生を送りやがて一人で死んでいった。
父が中学校を卒業し就職した先で、やはり、職場の人が赤犬を殺し食べてしまったのだという。父はとても見ていられず、その場を離れてしまった。
その後、その犬を殺した人は仕事中の事故で片足を失うことになったという。
食べるものが何もなかったのだと、戦後を知る人は言う。
だが、犬を食べた人はその後、なんらかの事故で自身の体が不自由になるのだという。
だから、どんなに食べ物がなくても犬は食べるものじゃないと父は言っていた。
また、犬を食べた人は犬によく吠えられるのだという。
夫の父の知人にやはり、犬を食べたことがあると噂がある人がいた。
その人はいつもにこにこと笑っていて、私にも子供達にも優しくしてくれる人だった。犬を食べるような人とは、にわかに信じられるような人ではなかったのだが。
その人がロッピーの柵に近づいたとたん。
一度も吠えたことがないロッピーがものすごい勢いで吠え始めた。
ハスキー犬の声はメスといえど、野太く迫力がある。
ロッピーは鼻にしわをよせ、唸り声をあげ、すさまじい勢いでその人に向かって吠え続けた。
「なんだ~機嫌が悪いのか~?」
と、その人は人の好さそうな笑顔のまま笑っていたが、私と夫は笑えなかった。
「ロッピーが吠えたのは、あなたが初めてなんです」
とは、とても言えなかった。
その後、ロッピーが吠えることは一度もなかった。
なにか、匂いがするのだろうか。
それとも、その人の、犬を食したことがある人達の後ろに、周りに、無残に殺された犬達が鼻にしわをよせ、唸り声をあげ、うろついているのが、同じ犬には感じるのだろうか。
いつも穏やかで優しげな愛らしいロッピーがたった一度だけ見せた、オオカミのような顔と唸り声と吠え声。
無残に殺されていった仲間を想い、渾身の力で吠えたのだろうか。
作者anemone