ほぼ新築だったんです。まだ建てられて3年で、内装もすごく綺麗で。
旦那と別れてからは、私一人の収入で、まだ3歳の祐樹を食べさせてあげないといけなくて。
必死で働いて、保育園にも通わせて、やっと生活も安定してきて。
だからね、祐樹と二人で「もっときれいなところにお引越ししようね」って言って見つけたマンションだったんです。
その頃祐樹はもう4歳になってました。
築浅な分、家賃ももちろん安いわけではなくて、だから12階建てだったんですけど、私たちが引っ越したのは3階でした。
それでも日当たりはいいし、すぐ近くに公園とかもあって、周りの環境含めてとても満足していました。
その日もいつも通り、仕事に行く前に祐樹を保育園に連れていく予定だったんです。
二人で部屋を出て、手をつないでエレベータ―の前まで行きました。いつも祐樹がボタンを押したがるから、その時も祐樹に押させてあげて、降りてくるエレベーターを待ってました。
ドアが開いて祐樹の手を引いて入ろうとしたとき、祐樹が私の手を引っ張って止めたんです。
「祐樹どうしたの?」
「・・・次まで待つぅ」
「どうして?乗らないと保育園いけないよ?」
「いやだ、ぎゅうぎゅうやだ」
祐樹は人がたくさん乗っているから、このエレベーターは見送って次の回に乗ると首を振ったんです。
少し気持ち悪いなと思いました。だって、目の前のエレベータ―には誰一人先に乗ってる人なんていなかったんです。
「誰も乗ってないよ、祐樹」
「いやだ!次のに乗る!」
私が何と言おうと、祐樹は言うことを聞きませんでした。
私が途方に暮れていると突然、だだをこねていた祐樹が「ぎゃあ!!」と声をあげて私たちの部屋の方に走って戻ったんです。
私は慌てて追いかけました。
部屋の前で祐樹は泣いていました。
突然どうしたのかと私が訪ねると、
「だってね、あの人たちがいきなり大きな声で叫んだからね、あああーーーって」
祐樹は涙の出る目をこすりながら、廊下の向こうのエレベーターを指さしました。
不思議に思いながら私がエレベーターに視線を向けた時、ちょうどエレベーターの扉が閉まる頃でした。
もちろん、そこには誰も乗っていませんでした。
祐樹が変なことを言ったせいかもわからないんですけど、
私も、さっきエレベーターのボタンを祐樹に押させたとき、エレベーターのある階の表示が「14階」に見えた気がしたんです。
おかしいですよね、だってこのマンション12階建てなんですから。
それにもう一つ気になることがありました。
さっき開いてたエレベーター、いつもならもっと早く扉が閉まる気がするんです。でもこの時は、祐樹がだだをこねて部屋の前に逃げ帰るまで、そして私がまたエレベーターを振り返るまでずーっと開きっぱなしだったんです。
普通は誰かが「開」ボタン押してくれてないとここまで長くは・・・
その日は仕方なく非常階段から二人で下りました。
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あのエレベーターでの気持ちの悪い体験から2週間は経ってたと思います。
あれ以降、祐樹が変なことを言うこともなくて、普通にエレベーターにだって乗ってました。
その夜、祐樹を寝かしつけるためにベッドで絵本を読んであげていました。
絵本の途中で祐樹がトイレに行くと言い出したので、私はそのまま祐樹のベッドで待っていました。
しばらくして、廊下の方からトイレの水を流す音が聞こえてきて、それからしばらく後にカチャッってなにか違和感のある音がしたんです。
私が祐樹の寝室から廊下を覗くと、すぐ向こうの玄関に祐樹がいました。
私に気づいた祐樹は「しまった」といった顔をしていました。祐樹は玄関の鍵を開けていたんです。
「ちょっと!どこ行こうとしてるの!何時だと思ってるのよ!」
私が慌てて鍵を閉めながら叱ると、祐樹はしょんぼりと下を向いて「ごめんなさい」と謝りました。
祐樹はどこかに行こうとしていたわけではありませんでした。ただ鍵を開けておくように言われたというのです。
私はあの時と似た気持ち悪さを感じていました。
いつ誰から言われたのか尋ねると、
「さっきママと帰ってきたときにね、エレベーターの中でね、女のおねえさんに言われたの」
この流れだと言わなくても多分わかりますよね。
ええ、もちろんそんな人いなかったんですよ、エレベーターに。
エレベーターの中には私と祐樹の二人以外誰も乗っていませんでした。
祐樹もだんだんと成長して物心もつき始めるころですし、変なことを言うのもそこまで驚くことじゃないと自分をなだめました。
どうして私に言わなかったのか尋ねると、そのおねえさんが祐樹に話しかける際、彼女はずっと人差し指を唇の前に添えていたのだと言います。
「しぃーーって言ってたから」祐樹は平然と話すけれど、私にとってはとても不気味でした。
祐樹を寝かしつけた後も、私はソワソワしてなかなか寝る気分にはなりませんでした。
リビングのテーブルでただぼーっとテレビを眺めていました。
だんだんと眠くなってきて、あーたぶん今わたし船こいでるなーと思いながら、そして気付けばそのまま寝ていたんです。
「・・・・マ、ねぇママ」
目を覚ましたきっかけは祐樹の声でした。
はっと顔を上げると、目の前に祐樹が立っていて、不安そうな顔がテレビの青白い光に照らされていました。
「祐樹・・・びっくりした・・・なんで起きてるの」
そう言いながら、私は部屋の電気が消えていることに気が付きました。
「真っ暗じゃない、祐樹が消したの?」
「・・・ごめんなさい」
祐樹は泣きそうな顔で謝りました。
「ごめんなさいって・・どうしたのよ」
「・・・鍵、開けちゃった」
一気に血の気が引いていくのが分かりました。
私はすぐに玄関へと走りました。
確かに鍵は開いていました。急いで私は鍵を閉めると、ほっと胸をなでおろしました。
祐樹が玄関の鍵を開けただけで、なぜ自分がこんなにも恐怖しているのかは分かりませんでした。多分祐樹が私に話したエレベーターでのことが思いのほか頭に残っていたんだと思います。
「祐樹、だから開けちゃダメって言ったでしょ」
私はそう言いながらリビングへと戻り電気をつけました。
祐樹は消えていました。
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あれから色々な人が祐樹を探してくれました。
警察の方々、祐樹の通っていた保育園の先生、祐樹の友達も、その保護者の方も皆必死で祐樹を探してくれました。
祐樹は見つかりませんでした。
私はもう生きている意味を見失っていました。
毎日朝から深夜まで、祐樹を探し続けては、部屋に戻って一人で泣いていました。
全ては私が今乗っているこのエレベーターから始まりました。
私たちが引っ越しなんてしなければ、きっと祐樹は今も私とここで手をつないで笑っていました。
2階でエレベーターが止まりました。
ドアが開くと、目の前に祐樹と同じくらいの年の女の子と、その母親が立っていました。
母親は私と目が合うと、気まずそうに小さく会釈をしました。
祐樹が行方不明になっていることは、このマンションでは皆が知っている事でした。
「どうも・・」私はできる限りの笑顔で挨拶すると、エレベーターの奥に体を寄せました。
母親が女の子を連れてエレベーターに乗ろうとすると、
女の子が母親の腕をぐっとひっぱりました。
「いっぱいだからいい」
女の子と視線が合ったのは一瞬でした。女の子は私のすぐ隣、そしてまた隣へと視線を移しながら乗らない、と首を振っていました。
もちろん、エレベーターには私以外誰も乗っていませんでした。
困り顔の母親が「あ、お先にどうぞ」と私に言いました。
私が「閉」ボタンを押す前に、扉は勝手に閉まりました。
エレベーターの中に、私一人分ではない密度を感じていました。
1階に着き、私はエレベーターから降りました。
背後で扉が閉まる時、危うく聞き逃す程の小ささで
「つぎはあのこがいい」
確かにエレベーターから祐樹の声がしました。
私は咄嗟に後ろを振り向きました。
静かに口を開けるエレベーターの中には、誰もいませんでした。
あの女の子が行方不明になったのはそれから1週間後のことでした。
きっと祐樹は寂しかったんだと思います。知らない人たちに囲まれて、あっちでも友達が欲しかったんだと思うんです。
どうせなら私を選んでくれたらよかったのにとも思いました。でも祐樹ももう4歳だし、男の子ですから、好きな子だってできて当然なのかもしれません。
何度か死んであの子の元へ行こうかとも考えました。
でも死ぬことはできませんでした。あの子の分も生きなければ、とかそんな理由ではありません。
死んだらあの子に会える、という確証がなかったからです。
あの日祐樹は忽然と姿を消しました。
生きているのか、死んでいるのか、それさえも定かではないのです。
でも確実に言えることは、あの時、確かにエレベーターで祐樹の声がしたという事。
これにはゆるぎない自信があります。母親ですから。息子の声を聞き間違えるはずがありません。
だから私は今日もエレベーターで祐樹を探しています。1階から14階までを、ひたすら行き来しながら。
皆さんどうか私に勇気をください。
14階で下りる勇気を。
作者籠月
存在しない階に行く方法は見つけても、
そこで降りれば息子に会えるという確証もない。
自分もいろんな場面において、ここぞという時の勇気がわかずよく困ります。