今住んでいるところでは子供が今度通うことになる小学校まで遠いことや、若干、手狭であることなどを理由に、子供が小学生に上がる機会に新しいマンションに引越しをすることにした。新居は今住んでいるところよりも築年数こそたかいものの、広かったし、なによりも交通の弁が良いことが決め手だった。
まあ、築年数のせいでなんとなく薄暗くイマイチな感じもあったが、まあ、小学校6年間が終わるころにはまた引越しをするだろうし、子供の身体のことを考えれば近いにこしたことはない、と思っていた。
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しかし、問題は、引越しをして数日ですでに起き始めた。子供が異常に怖がるのである。
「怖い、怖い」
「何かいる!何かいる!」
とひっきりなしに怯えた。
特に怖がったのは、子供部屋にとあてがった部屋であった。一人では頑として入ろうとしなかったし、親が一緒でも、その部屋にいるうちは、足にしがみついて離れない。無理に離そうとすれば泣き喚く始末であった。
「おさる、おさる!」
「あっちの部屋に」
と壁を指す。壁の向こうはリビングだったがもちろん、猿なんていない。
引越し後の一時的な気持ちの乱れだろう、すぐ治るだろうとは思っていたが、怖がり様があまりに異様なので、こちらまで怖くなってきてしまった。
おかげで、新居用にと買い揃えた子供用の学習机などは、急遽、夫婦の寝室にと思っていた部屋に入り、妻と子供がそこで寝起きをし、私が子供用に用意していた当該の部屋に寝ることとなったのだった。
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私も子供の怖がる様に当てられたのか、なんだかこの部屋は落ち着かない。夜も寝られるは寝られるのだが、朝は体がバキバキに凝っていて、寝た気がしない。
そのうち、おかしな夢を見るようになった。
夢の中で、私は見知らぬ古い日本家屋のようなところにいる。10畳くらいの畳敷きの広間だ。左手を見るとフスマが開いており、その奥に廊下が見える。廊下は少し行くと左手に曲がることができる。そこは真っ直ぐの廊下と左手に曲がることができる廊下がぶつかるT字路になっているというわけだ。廊下はさらにまっすぐ続いており、6−7メートル先で壁にぶつかる。そこもT字路で、左右に廊下が続いている。
そして、自分は、その最初の左手に折れる廊下の部分をじっと見ているのだ。
そこが妙に気になる。というより、怖い。怖くて目が離せないのだ。
夢としてはこれだけであるが、目が覚めると汗がびっしょりになっていて、体は強張っていたのだった。
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そして、ある日、決定的なことが起きた。
夜、ふと目が覚めると体が固まったように動かない。顔が左側を向いていたので、辛うじて目を動かして、自分の左側を見ることはできた。ちなみに、私の寝ているベッドは左側は壁で、先ほど言ったように、その向こうはリビングになっている。そう、本来、私の見ている先には白い壁がなければいけない。
しかし、実際目に飛び込んできたのは、古い日本家屋の廊下だった。そう、あの夢で見ていた左手に折れるT字路がある廊下である。私は目を見開いていた。
金縛りにあっているので目を離すこともできない。目を閉じることもできない。ただ、自分の浅い呼吸音を聞きながらその光景を凝視することしかできないのである。
「これは夢だ」と言い聞かせて自分を落ち着かせようとする。
しかし、心臓は高鳴り、やはり、あの曲がり角が気になった。
そしてとうとう、私は夢とは決定的に違う光景を目にする。
その曲がり角、床に近いところに、
ペチャリ、
と白い手が這い出すのが見えたのだ。
その白い手は、ずりずりと廊下に這い出してくる。そして、また、
ペチャリ、
ともう一方の手が床につく。
ー何かが這い出てこようとしている・・・
私はこれ以上ないくらいに目を見開いていた。汗が額を伝うのが分かった。呼吸はさらに早くなり、舌が喉に張り付きそうなほど口の中はカラカラになっていた。
ゆっくりゆっくり、その「何か」は左手に折れた廊下から這い出てくる。そして、とうとう、チリチリになった赤黒い頭髪が見えた次第にそれは姿をあらわにし、とうとう、ぬっと顔を出してきた。
声が出たら私はその時悲鳴を上げていたと思う。その顔は焼け爛れたような色をしており、鼻や耳はぐずぐずでどこがどうだかわからないほどだった。辛うじて、目があるはずのあたりには、切れ目のようなものが見えるだけだった。
その顔を見て、幸い、私はすぐに卒倒したようだ。
気がついたら、朝になっていた。
「なんて夢だ・・・」
私は頭を振った。体がガチガチに固まっている。まだ、あの顔が脳裏にこびりついていた。あの、焼け爛れたような赤い顔。
赤い?・・・顔?
ここで私ははたと気がついた。
子供が言っていた。
「何かいる」
「あっちの部屋に」
「おさる、おさる!」
まさか・・・
あっちの部屋とは、あの、廊下のことではないか?
そして、『おさる』とは、あの、真っ赤な顔をしたアレを、子供なりに表現したものではないのか?子供にとって、赤い顔のものは「猿」・・・
私の夢だとばかり思っていたものをもし、子供も見ているとすれば、この家には、本当に何かいるのかもしれない。
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結局、あの家に住んだのはほんの3か月程度だった。私たちは、逃げるように再度引越しをすることになったのである。
作者かがり いずみ
話をしてくれた人は、「壁の向こうの部屋がどこで、アレがなんなのか、結局わからないままでした」とこの話を結んでいました。
本当は全部ただの夢だったのかもしれませんが、気味が悪いですね・・・