とある知人に聞いた話。
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彼女の五歳になる息子は、たどたどしくおしゃべりができるようになった頃から、自宅の前の側溝に「ねこちゃん」と話しかけていたそうだ。
しかし、母親である知人にはなにも見えない。
「ねこちゃん、なにしてるの?」
「だっこしてあげようか?」
「葉っぱのご飯あげるね、どうぞ」
なにもないところに甲斐甲斐しく話しかける息子に、知人はじめこそ驚いたものの、やがて気にしなくなった。子供によくあるごっこ遊びだと思ったのだ。ねこちゃんとやらにかけている優しげな言葉も、いつも息子の周りの大人が彼にかけているものの模倣だった。成長すれば落ち着くだろう。そう考えていた。
しかし、気になることもあった。
息子がねこと遊ぶ側溝は道路に面していて、車通りは多くはないとはいえ、やはり少し危ないのだ。
小さい頃は知人と手をつないだ状態で側溝に向かって話しかけていたが、大きくなると自分であちこち行きたがり、おっかなびっくり側溝に降りようとしたり、不安定な格好で雑草を取ろうとする。そんな折に車が通ったら、こちらはもちろん運転手もヒヤリとさせてしまう。
ねこと遊ぶのをやめるように言っても「ダメ! まだご飯食べてないんだもん」などと言って聞かない。そこでとうとう知人は言った。
「じゃあもう、そのねこちゃんお家に連れて帰りなさい。お庭で遊んだりご飯あげるのだったら、危なくないんだから」
すると、息子は「いいの⁈」と目を輝かせた。
「ねこちゃん、前にお家に来たいって言ってたんだ」
その言葉に一瞬自分の提案を後悔したものの、もう遅い。見えないねこは息子に誘導されて庭に入り、軒下に古いクッションを敷いてもらってそこを居場所にしたようだった。
「ねこちゃん、嬉しいって。お母さんありがとう!」
満面の笑みの息子に、ねこを家の中には入れないことを約束させたという。
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「まぁ、イマジナリーフレンドとかいいますしね」
小さな男の子の微笑ましい様子に、私は頬を緩ませながら言った。
「そのねこちゃんがおうちに来てから、なにか変わったことは?」
「それがあるんですよ」
私の問いに、知人は身を乗り出すようにして言った。
「恥ずかしながら、うちは昔からよくネズミが出るんです。いろいろ対策してたんですけど、なかなかうまくいかなくて。それが息子がねこを連れてきた途端、ぱったり出なくなったんですよ」
「それはそれは」
「こんなことなら、もっと早くに連れてこさせればよかったと思って。葉っぱとネズミだけじゃ、と思って時々鰹節なんかもあげるんですけど、お皿はすぐに空になってます。まぁ、全部よその猫の仕業かもしれませんけどね」
そのとき、足元を何か柔らかいものが通り過ぎた。体をこすりつけながら歩く、猫独特の歩き方。しかし、足元を見てもなにもいない。
「もしかして、ねこは時々お家に上がって来ます?」
「あら、ごめんなさい。息子が何回かこっそりあげたら、自分で玄関を開けて入ってくるようになったみたいで。私は全然わからないんですけど、お客様には時々ちょっかいをかけるみたいなんです。大丈夫ですか?」
「えぇ、猫は好きですから」
「なら、よかった」
知人の声に被って、間延びした鳴き声が聞こえた気がした。
作者実葛
以前他サイトに投稿していた作品を、加筆修正したものです。