中編5
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叔母の恋人

とある知人に聞いた話。

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彼女には、絵描きを生業とする叔母がいるそうだ。

雑誌や広告のイラスト、本の表紙、油絵の市民講座から高校の美術部の講師まで、絵に関する一通りの仕事を一手に引き受けていた。

叔母は、姉である知人の母と歳が離れており、姪である知人とは十五歳しか違わなかった。そのため、姉のように知人を可愛がってくれていたそうだ。

叔母は小さな借家に一人で暮らしており、近いこともあって知人はしょっちゅう遊びに行っていた。絵描きなので家のあちこちに絵が飾ってあるのだが、中でも目を引くのは玄関を入ってすぐの壁に飾られている、高さが一メートル近くあるような肖像画だった。

大きさもさることながら、壁にかけたり床に置いたりするのではなく、一人掛け用のソファに丁寧に置かれていた。叔母にとってこの絵が特別であることは、誰の目にも明白だった。

額縁の中では、男性が背筋を伸ばして椅子に腰かけていた。堅苦しい印象はなく、遠くから見ると小さく微笑んでいるような、温かみのある絵だった。

しかし知人は、この絵に疑問を抱いていた。

初めて絵を見たのは中学生の頃だった。知人はその絵を、『おじいさんが座っている絵』だと思った。

しかし高校生になって改めて見ると、それはどう見ても『中年のおじさんが座っている絵』だった。

大学合格のお祝いをもらいに叔母を訪ねた際、知人は玄関の『叔母と同い年くらいの男性が座っている絵』について、とうとう叔母に訊いてみた。

「あの絵、若返ってない? 描き直してるの?」

叔母は少し迷うそぶりを見せたが、やがて「ねえちゃんにはナイショだよ」と前置きして語ってくれた。

「あの絵はね、あたしの恋人なんだ」

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大学時代から、叔母はよく似顔絵描きのアルバイトをしていたそうだ。

八年ほど前、ある老人ホームで一人の老人と出会った。老人は叔母の絵を気に入り、きちんとした額縁に飾れるような肖像画を描いてくれと依頼してきた。彼は、そのあたりでは有名な病院の前院長らしく、病院のホールにその絵を飾りたいのだという。金持ちらしく、ホームの最上階の特室に住んでいた。

叔母は快く了承し、週に一回ニ時間の約束でホームに通うようになった。

老人は九十歳を超えているというが矍鑠としていた。長話だが話し上手で、自分の苦労話や戦時中の出来事なども面白おかしく話してくれたため、叔母はやがて老人を訪ねるのが心から楽しみになったという。ゆっくり描いてくれという言葉に甘え、一年近く老人のもとへ通った。

それもようやく完成に近づいた頃、いつになく老人の口数が少ないことがあった。体調でも悪いのかと叔母が心配すると、老人はたっぷり時間をかけて逡巡した後、意を決したように口を開いた。

「その絵なんだが。

あんたにもらってもらいたいんだが」

「え? でも、病院のホールに飾るって仰ってたじゃないですか。前金で頂いてるのに、そんなことはできません」

叔母が驚くと、老人は困ったように眉を下げた。

「あんたにもらってもらいたいんだよ。年寄りの最後の晴れ姿を、ずっと見守ってくれたあんたにな。今度はわしがあんたを見守っていきたいんだ。…こんなおいぼれに言われても、困らせるのはわかってるんだがな……」

そう言う老人の赤らんだ頬を見て、叔母は老人の気持ちを察したそうだ。

「でも…」

「これが本当の、最後のわがままだよ。息子たちにもそう言ってあるから。まあ、考えとってくれ」

老人はそこまで話すと、「今日は疲れたから」と叔母を帰らせた。耳が赤くなっている後姿を見て、叔母は素直に従ったそうだ。

その晩、老人は心臓発作を起こして亡くなった。

叔母と老人は単に絵描きと顧客の関係だったため、叔母が老人の死を知ったのは次の週、少し気まずい気持ちで老人ホームを訪れたときだった。部屋は片付き、広い室内にあの絵だけが残っていた。

それを見て、叔母は目を見張った。出来上がるまでもうひと手間加える必要があったはずなのに、その絵はどう見ても完成していたのだ。

部屋の中では、老人の親族と思しき中年の男性が叔母を待っていた。

「生前は、祖父がお世話になりました。この絵なんですが、祖父の遺言で、必ずあなたにお渡しするように、と」

「でも… もう、お金も頂いているのに」

「いいんです。言うことを聞かないと、僕たちが祖父に怒られてしまう。こんな大きな爺さんの絵、迷惑なだけでしょうが」

叔母が呆然と自分の描いた絵を見つめていると、不思議なことに絵の中の老人がニコリとほほ笑んだ、ような気がした。

それを見た途端、なぜか涙があふれてきた。叔母は、この絵は自分のものだと強く感じたのだという。

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「──そんなわけで、あの絵はうちに来たの。見守るってどういうつもりか知らないけど、なんだかだんだん若返ってきてね。今以上若くなるなって、ついこないだ言ったばかりなんだ」

真面目な顔でそういった叔母だが、唖然とする知人の顔をしばらく見つめ、こらえきれずに噴出した。

「あんた、バッカねぇ! 絵が勝手に若返るなんて、そんなはずないじゃん」

「えぇ!?」

「あの絵はお気に入りだから、あたしがいちいち描き直してるのよ。それこそ、恋人気分でね。絵描きバカって怒られるから、ねえちゃんにはナイショにしててよ」

叔母の目尻の涙をぬぐいながら、「なんでも信じて、騙されないように」と、まだ呆然とする知人に合格祝いをくれたという。

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「あれから何十年も経ちましたが、叔母もあの絵も健在です。あの絵は、今度は叔母に合わせてだんだん老けてきていますよ。今では還暦のおじいちゃんに逆戻りしています」

知人は少し呆れたようにそう言った。

「それはやはり、叔母さまが描き直されて?」

「さぁ? 詳しいことはわかりません。でも、自分合わせて絵を描き直すのも、結構異常な執着ですよね。顔だけじゃなくて、手のシワとか着ているスーツまで、年相応に描きかえるんですから。

でも、私としてはどちらでもいいんです。叔母もあの絵も、なんだか幸せそうですから」

私は、あの中の恋人と寄り添うご婦人の姿を想像してみた。

それは一幅の美しい絵画のように、私の心に浮かんだのだった。

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