とある田舎の集落で聞いた話。
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昔や庄屋だったというその家には、広い裏庭の隅に立派な桃の木があった。
私が訪れたそのときには、枝にたわわに実った若い桃の実が、色付くのを待っている所だった。
「収穫が楽しみですね」
私がそう言うと、家の主人である老婆は苦笑して首を振った。
「この木は、おいと様のものですから。私たちの口には入らんのです」
「おいと様?」
「ほら、桃の木の陰に井戸があるでしょう。そこに住んでいらっしゃる方ですよ」
老婆の示す先には、確かに井戸があった。もう長いこと使われていないのだろう、井戸に被さった石の蓋もかなり古びていた。
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この家がまだ庄屋の役目を務め、井戸が現役だった昔。ここに厄介なモノが住みついたという。
昼間は井戸に潜み夜になると出てきて、田畑や果樹を荒らしたり家畜を襲ったのだそうだ。
獣なのか妖怪なのかはっきりはしなかったが、井戸をさらってもなにも出てこず、被害は止むことがなかった。
困った庄屋は仕方なく、井戸を埋めることにした。
すると今度は、毎晩夢枕に何者かが立つようになった。
あるときは仙人のような老人、あるときは白い狐、美しい女性、指をくわえた幼児、巨大な蛇。
それらが毎夜現れて、井戸を埋めるなと訴えたのだ。
このようなことをされると、たとえ井戸に住むのが獣の類だとしても、ないがしろにしては祟られるのが怖い。庄屋は頭をひねった末、井戸は埋めずに重い石蓋をするにとどめ、井戸の隣に祠を建てた。
しかし祠は、完成した次の日にはめちゃくちゃに打ち壊されていた。
その晩、また庄屋の夢枕に立つ者があった。それは年端もゆかぬ少女で、怒った顔でなにかを庄屋に押し付け、消えた。
目を覚ますと、枕元に桃の実が一つ転がっていたという。
庄屋は早速、井戸の隣に桃の木を植えた。
それからは、井戸から出てきたなにかが集落に被害をもたらすことはなくなった。
桃の木は毎年見事な実を付けたが、食べ頃になると次々と消えてしまったため、口にできた人はいないそうだ。
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「桃の木はあまり寿命が長くありませんから、今ある木は、いったい何代目になるんでしょうね。うちの一族は、昔からあの井戸の桃を絶やさないように注意を払ってきたんですよ。
不思議なもんでね、いかにもおいしそうな実が夕方には五個も六個もあるのに、次の朝には一つも残っていないんだから。夜の間においと様がみんな食べてしまうんだそうです。
このうちの子は、どんなにうまそうでもこの桃の実は取っちゃいかんと、そりゃ厳しく言われるんですよ」
老婆はそう言った。
「おいと様、という名前は?」
「さぁ。誰が呼び出したかは知りませんが、昔はたぶん、おいど様、と言ったんでしょう。でも、それじゃ別のものを想像してしまうでしょ。だから、一文字言い換えて呼ぶようになったんだと思いますよ」
老婆は照れたように笑った。
──おいど様は、桃が好き。
そう考えて、私もおかしくて笑った。
作者実葛
以前他サイトに投稿していた作品を、加筆修正したものです。
画像を投稿してくださった方、ありがとうございます。