「先日、珍しい患者が来たよ」
友人のHは正規に勤務を始めてまだ間もない医師だ。専門は精神科。
「あなたが好きそうな話だよ」
新しくできたカフェでコーヒーを啜りながら彼は言う。
彼は私の怪奇譚蒐集癖を知っている。だから、まあ、その手の話なのだろうと想像はできた。
「旦那が別のなにかに入れ替わってしまった、って訴えているおばあちゃんの話」
やっぱり、その手の話だった。
興味はあるが、患者の話なんかしても良いのか、と問うと。
「細かくは話せないが、個人が特定できないように話すなら、僕の経験談だ。構わないはず。」
そう言って、話を聞かせてくれた。
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その患者、Rさんが、Hの勤める大学病院に初診できたのは先週のことだった。
年は70代前半。身ぎれいにはしているが、化粧の様子がアンバランスで、若干の違和感を覚える。歩行は正常、目も合う。ここまでは、まあいい。
娘さんと思しき30歳くらいの女性に付き添われて来ていた。
初診票に目を落とす。おそらく娘さんが書いたのだろう。
『時折、家の中に変なものがいる、と言う。夫が知らない人になった、と訴える』
と書かれている。
特に身体的病の既往はない。これまで健康に過ごしてきたようだ。
「どうなさいましたか?」
Rさんは慣れない病院で緊張したのか、若干うつむき加減になる。ポツポツと話す言葉を総合すると、
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数ヶ月前から家に知らない人がいる。いる人は男1人である。
部屋の中でボーッと立っていたり、廊下の先にうずくまっていたりする。
それは、天井の隙間から覗いていることもある。
ほとんど声を出さないが、ときに声をかけてきて、夫である、と言う。でも、夫ではないことはわかる。
私が作った料理を食べたり、風呂に入ったりもする。
出ていってくれるように頼んだが、出ていってくれない。
いなくなることもあるが、すぐに戻ってくる。
などだ。
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生活歴を聞くが、聞き出せたのは
「夫は酒飲みで、ひどい人だった。」
「私は子どもたちを守るために必死だった」
くらいであまり話をしてくれない。仕方なく、娘さんのほうに話を振ると、
Rさんは20代で今の夫と結婚し、子供は2人。娘と息子。
夫は公務員でRさん自身パートで働いていたことはあるが、ほぼ専業主婦。
夫は普段はおとなしかったが、酒飲みで、大酒を飲んでは家族に手を上げることもあった。
そんな夫も65歳まで働いて数年前にリタイア。その後は、郊外で中古で買った家に夫婦二人で住んでいる。
息子、娘はすでに独立し、結婚している。実家であるRさん宅にはほとんど顔を出さず、連絡を年に数回とる程度。
息子は夫婦で海外で生活しているが、娘である今付き添ってくれている女性は、実家からそう遠くないところに住んでいる。
といったところだった。
娘がRさんの異変に気づいたのはここ1〜2週間だという。たまたま夫の仕事の関係で缶詰を大量にもらったことから、おすそ分けに実家に持っていこうとしたことがきっかけだった。
電話すると
「今は来ちゃだめ」
とRさんが声をひそめるように言う。
「アレがいるから・・・」
アレってなに?と聞くと、
「わからない。でも、とにかく来ちゃだめ」
と言う。機転を利かせた娘が、「いつなら行って良いのか?」と問うと
「偶にいなくなるから、その時なら・・・」
怯えるように言う様子にただならぬものを感じた娘は、大丈夫なようなら電話して、と言い、電話を切った。果たして、その数時間後、Rさんから「今なら良い」と電話が来たので、実家に向かった。
実家にはRさんしかいなかった。
「お父さんは?」
と聞くと、Rさんは黙って首を振る。
しばらく話してやっとわかったことは、Rさんが「夫が何か知らないモノと入れ替わってしまった」と信じていることだった。
父親に相談しようにも、父親は携帯を持っていないし、家に電話してもRさんが出て父親には取り次いでくれない。それはそうだ、Rさんにとってはすでにそれは『夫』ではないからだ。
何度か家を尋ねて行ったり、一度は家の前で待伏せして父親と会おうと思ったが、遂に会えずじまいで、結局、娘さん自身でRさんを病院につれていくことにした、ということだった。
娘が話している間、Rさんはオドオドと不安そうにしていた。
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それで?
私はHの話を促した。
「こういう話、好きだろう?」
と言って、いたずらっぽく笑う。彼が時折見せるその表情には覚えがあった。
特に怪異というわけではないのでしょう?
私が問うと、
「正解!」
と指差してくる。調子に乗っているときの彼の癖だ。
「レビー小体型認知症って言ってね、ないものが見える幻視が起こったりする認知症の一種だよ。珍しいのは、家人が知らない人に入れ替わったっていうカプグラ錯視が併発していることかな」
Hによると、カプグラ錯視とは、自分のよく知っている人がいつの間にかそっくりの偽モノに入れ替わってしまった、と信じこんでしまう妄想の一種なのだそうだ。
「怪異現象じゃなくて残念だったね」
そう言ってHはニヤリと笑った。
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その後、ふた月ほど経ったある日、私はHから呼び出された。
先日と同じ喫茶店でHと会う。
「なあ、前に話したRさんの話、覚えているか?」
もちろん覚えている。
「実は・・・」
そこで、Hが話したことは、意外なことだった。
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Hが2回目にRさんとあったのは、初診から1週間後のことだった。レビー小体型認知症を疑ったので、検査をするために呼んでいた。
今回はRさん一人で来ているようだった。検査の前の問診を終えて、Rさんが診察室を出た直後、Hの元に病棟から患者が急変した、という連絡が入った。本来は外来中は対応をしないが、その患者は状態が思わしくないため、H自身が対応するしかなかった。
急いで診察室を出ると、待合にRさんが座っているのが見て取れた。その隣に初老の男性が付き添っている。不安そうにしているRさんの肩に手をおいて穏やかに見つめる彼こそ、おそらくRさんの夫なのだろう。
『夫に事情を話せたんだ』
Hはちょっと安心をした。このあと、夫の協力が得られれば治療も進むだろう、そう思ったのだ。
3回目にRさんに会ったのは検査結果が出たとき、2回目の受診から更に1ヶ月後のことだった。その時も、Rさんはひとりで来た。しまった、夫と一緒に来てもらえばよかった。そう思って、Hは苦笑した。夫に直接話せるならともかく、本人に話しても断られるだけか。
『夫』は彼女にとって知らない人、だった。
とりあえず、本人に検査の結果を説明する。『異常なし』だった。
これはレビー小体型認知症では珍しくない。身体の病気や他の精神疾患ではないというだけのことだ。
診断はほぼ確定しているが、本人に告知するのは難しいと思ったので、
「次はご家族といらしてください」
と告げた。これで少なくとも娘には会えるだろう。Rさんは黙って頷いた。
立ち去り際、これまで言葉少なだったRさんが一言言った。
「私は病気ですか?」
「『夫』が家にいるんです。どうしたらいいか・・・」
「『夫』は私を殺そうとしているかもしれない・・・」
彼女にとって知らない『夫』と暮らすストレスは相当なのかもしれない。
「もし、お辛いようでしたら、前回よりもう少し強い薬をお出しします。可能であれば、娘さんの家に行くこともご検討されては?」
とHは告げた。
Rさんは薬を求め、深々と頭を下げて診察室を後にした。
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結果的に、Rさんに会ったのは、これが最後だった。
最後の診察から1週間ほど経ったある日、病院に刑事が訪ねてきた。
「Rさんのことでお話を」
という。
聞くと、Rさんが自宅で遺体となって発見されたというのだ。自殺・他殺、両面の可能性があるので現在捜査中とのことだった。
「ところで・・・」
刑事は続ける。
Rさんの家の二階から、Rさんの夫の遺体も見つかったという。夫の遺体は死後2ヶ月以上経っていると。
「おそらく、夫を殺したのはRさんだと思われます。」
警察では、Rさんが夫を殺し、夫の遺体を2階に放置していたと判断したのだ。娘の供述も踏まえると、Rさんが初診に来た日の1〜2週間前にはすでに殺されていただろうと判断された。
私は、警察の協力要請に応じて、診察記録から2〜3の証言をしたが、頭の中は真っ白だった。
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「どう思う?」
Hは私の顔を覗き込むように言う。
「Rさんは、初診時は『夫』が別のなにかに替わってしまった、と言っていたけど、最後の診察では『夫』が家にいて怖い、殺されるかもしれないと言っていた。」
言うことが変わっている。
「普通に考えれば、レビー小体型認知症が進行し始め、判断力が低下している中、夫が別の何かに替わってしまったと思い込み、殺してしまった。その後、その罪の意識もあって夫の幻視を見るようになった、というストーリーが一番しっくり来る。もしかしたら、夫が酒飲みで散々DVを受けたという過去歴も関係しているかもしれない。」
でも・・・、と続ける。
「だったら、待合室で俺が見た、あの男性は誰だ?」
警察に見せられたRさんの夫の写真は、
間違いなく、あの日、待合室で見た男性だった、という。
その日には、すでに死んでいたはずの男性だ。
作者かがり いずみ
幾通りかの解釈が可能な話だと思います。
一番怖いのは、
Rさんは病気ではなかった、
という解釈です。
夫に何かが入り込んだのを恐れたRさんが夫を殺害し、
死体になっても『夫』は家に居続け、
病院にまで付添い、
最終的に、それがRさんを殺したとしたら・・・
真実はわからないですけど。