中編7
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お葬式

この物語はフィクションです。登場人物の発言、思想はあくまでも架空の内容であり、思想もでたらめです。そのため、これからの内容を読んで不愉快に思われる方々がいるかもしれませんが、どうかご容赦の程お願いします。

いや、皆様が心配されているような下ネタ表現、血みどろな表現、犯罪行為の表現等は一切でてきません。ご安心下さい。では物語を始めさせていただきますね。

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俺の友達だった男について、今から話したいと思う。名前を仮にAとしようか。今も生きていれば俺と同じ26才になる

俺は今年で26才になる社会人で、まあ忙しい毎日を送っている。このAは小学生のときからの付き合いがあった。そこそこ仲良くしていたと思う。学校から帰った後、毎日の様にお互いの家に行って遊んだもんだ。そこそこ楽しかった。

遊ぶときはいつも4、5人だったな。Aには俺の他にも友達がいたようだ。まあとはいえ、小学生にしてみれば友達が複数人いるのは当たり前の事だろうし、俺もAの交遊関係を全て知っている訳ではない。こいつとの関係は中学を卒業するまで続いた。

家から遠い高校に進学した俺は、正直かなり充実した生活を送っていた。部活にも入り、少ないが親友の様な物もできた。言っておくが、中学時代の友達との付き合いがつまらなかった、という訳ではない。だが、高校時代以降の付き合いに比べてしまうとかなり劣ってしまうのだ。昔は毎日の様に遊んでいた筈なのに、不思議な物だ。この頃になると中学以前の友達と遊ぶこと、というか関わる事が全く無くなった。それも当然の事だろう。

大学に進学した俺は友達も増え、本当に楽しい日々を過ごした。そりゃあ全部が楽しかった訳ではないが、昔なんぞ比べ物にならない位に。サークルに入り、一生関わっていきたいと思える奴らもできた。この頃になると小中学の事は思い出す事すら無くなった。この頃つるんでいた奴らは、社会人になった今でも定期的に遊んでいる。

大学を卒業し、社会人になり一人暮らしをしていた俺の元に俺の親からの連絡が届いた。

どうやらAが死んだらしい。死因は交通事故だそうで、これから通夜、明日は葬式をやるからどちらか参加できないか?という物だった。

当然ながらAは俺の身内ではない。そもそも中学を卒業してから連絡すらとっていなかった。それを慣れない仕事に追われながら休暇すら録にとれていない俺に「小中学校時代に仲良くしていた」というだけの理由で通夜に出てほしい、と頼んでくる神経がわからなかった。

そんなに忙しいなら、出席を断れば良いではないかと思う人もいるだろう。現に仕事だからと理由をつけて通夜は断る事はできた。しかしながら、生憎葬式の日は俺の会社は休みだったのだ。たちの悪い事に、その日会社が休みという事は親は知っている。これはさっきの発言と矛盾するかもしれないから補足しておくが、録に休暇がとれていないからこそ、俺はその休日を大事にしたかったのだ。ゲームもやりたかったし、一日中寝ていたかった。しかし通夜を断ったという負い目があり、そもそも「行きたくない」と言おうものならめんどくさい事態になるだろう。葬式には参加せざるを得なかった。それ故、俺は嫌な顔一つせず、葬式に参加するとの返事を出した。

さて、これから俺が参加したAの葬式の間、考えていた事を書いていくのだが、その前にAの死に顔をみて思った事を述べよう。「休日を返せ」これだけである。別段悲しくもない。そもそも何年も連絡をとっていなかったし、小中学校の話などはるか昔だ。今の俺にはもう関係がない。

勿論、葬式に参加するからには悲しんでいる演技をしなければならない。実際、参加していた数人は泣いていた。そもそも参加人数が少ない気がしたが、少人数の葬式なんざこんなものらしい。他人から見たら、俺は泣いてるように見えたのだろう。Aの家族も声をかけてくれた。これでとりあえずは良いだろう

因みに、参加者のほとんどがAの小中学校からの付き合いのある連中だったが、俺にしてみれば名前どころか顔すら忘れていた連中がほとんどだったため、それを悟られない様に苦労した。むこうは何故か俺の事を記憶していた。人間わからないものだ。

葬式の間、中々の時間があったため延々と考え事をしていた。まずは「何故俺が葬式に呼ばれたのか」である。先程述べた通り俺は親から出るように頼まれたから渋々出てやったのだが、そもそもAとはもう連絡をとっていないのだ。俺が出る理由がない。そもそも、Aの家族から葬式に出てくれと直々に頼まれた訳ではない。意味がわからない。それに俺よりもっと仲良くしていた連中もいただろう。何故俺なのか。

どうやら、これAの親の知り合いと関係を持つ知り合いが、俺の親に訃報を持って来たらしいのだ。ここまで知り合いという単語を並べるとと新聞の三面記事のネタの伝わり方みたいで逆に不謹慎だなと思った。主婦の噂話の拡散力というのは恐ろしい。本当に暇な人たちである。その暇な時間を俺にも分けてもらいたいくらいだ。

次に、俺の親が俺をAの葬式に出す関係があると思っていたことにも驚いた。そも、前述の通りもう俺にとってAは過去の人間であり関係がない。そんな関係の薄い人間を、しかも内面ではこんなことを考えている人間を、というか俺のそんな内面を見抜けない間抜けな親にも問題があると思うのだが、葬式という正式な舞台に呼ぶのはふさわしくないと思うのだが。どうなのだろう。

次に、「この葬式とはなんぞや」である。当のAは死んでいる。あまり考えたくはないが、Aの家族が葬式をあげてやりたいという気持ちは理解出来なくはない。それに俺が呼ばれたということは、少なくともAの家族にとって俺は「呼ぶ価値のある人間」と思われていたのだろうか。

当時は気付かなかったが、書いていてわかった事がある。俺はAの家族に招かれた訳ではないのだ。俺の親に行けと言われたから行っただけである(勿論、他の知り合いにも俺が行く事は連絡があったみたいだから、A の家族も俺が行くことは知ってはいたのだろうが)

このようにして、特に死を悲しまない人間が、ただ形式的に、しかも葬式中にはこんなことを考えながら悲しむふりをするだけの会に、果たして価値はあるのだろうか。というかただの時間の無駄ではないか。

「死人に口無し」とはよく言ったものだ。これをA本人がきいたらどう思うだろうか。別に興味もないが。

最後に補足をしておこう。

中学の同期のSNSのグループというものがあるらしい。そのグループに俺は加入していないため、葬式に参加した奴らから聞いた話だ。

そのグループ内でAが死んだことを発言した奴がいたらしい。グループは悲しむ声の大合唱。しかし、悲しむ声を上げた奴らは、実際の葬式にはほとんど誰もいなかった。下らない話である。声だけあげるなんざ誰でもできる。しかし、こうして貴重な時間を割いてまで葬式に来る人間はごくわずかなのだ。

奴らがいかにしょうもない存在なのかは察する事が出来ると思うが、そういった声だけ人間は悲しむ自分に酔っているだけなのだろうと思う事にしている。しかしながら、SNS の台頭によりこうした人間は増えている気がしてならない

最後に、果たしてこの様な事を考えながら葬式に参加した俺は本当に正解だったのか。という話である。こればかりはわからない。とりあえず葬式に参加したから親の顔は立てた。Aの親族に挨拶もした。十分過ぎるだろう。しかしながら、この様な人間が葬式に参加するのは間違っている気がする。何故かはわからないが。しかしながら、悲しむ声だけを上げて葬式に参加しなかった有象無象より、俺の行為だけをみれば正解だとは思うのだ。きっとこの問題に正解は出ないんだろうな。葬式という舞台が日本に存在し続ける限り。

あ、一応書いておくが俺が特別冷血だという訳ではない。高校、大学の連中が死んだら悲しく思うし、そもそも死んで欲しくなんかない。当たり前の事だ。これを本当に信頼できる友人に話すと「お前サイコパスっぽいなあ」といわれた。その事にも少しだけ触れておく。

よく他人と違う行動をとって「私はサイコパスだ!」といきがっている人種がいるが、私に言わせればあんなものはサイコパスでもなんでもない。ただの馬鹿だ。本当のサイコパスは社会に上手く溶け込むものだろう。他人が悲しんでいる所ではちゃんと悲しんでいるふりをするし、むしろ周りからは良い人だと思われてる事が多い。狂っているのは内面だけなのだ。それを外には出さない。だから恐ろしいのだ。

そういった意味からも、サイコパスっぽいといわれるのはただの悪口でしかない。不愉快だ。

この様な事を考えていたら、一日が終わった。貴重な休日を無駄にしたが、普段この様な事を考える機会など無いだろう。私の人生において貴重な体験をすることが出来た。この経験値を持って、葬式に出てやった時間の損はチャラにしてやろうと思う

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