長編59
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信用できないポスト

ある休日、俺は一人で散歩をしていた。

行き先も目的もない散歩は、休日というものをもっとも謳歌できている気がした。

俺はここ最近、落ち着かない日々を過ごしてきた。そのためか、ただの散歩でさえ、そのような感慨深いものに感じたのであった。

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しばらくの間あてもなく歩いた俺は、ある公園の前にいた。

その公園は俺の通勤ルートの途中にあり、また、散歩で来れるくらいに家からも近い場所にあった。

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もっとも通勤時には、その公園は俺の歩く歩道に対して、交通量の多い国道を挟んだ反対側に位置していたので、いつもはちらりと横目で見やるだけの存在であった。

しかし、今日は平日ではなく、休日なのだ。

時間に急かされる心配のない今日こそ、その公園に足を踏み入れてみようと思った。

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とはいえ、仕事ばかりの毎日で有酸素運動に慣れていない俺は、すでに随分と歩き疲れていたので、敷地内を探索するよりもまず、真っ先にベンチに向かった。

俺は自分の身体を労るようにゆっくりとした動きでベンチに腰掛けると、休日の開放感を体現するみたいに、大きな伸びをした。

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そして、たっぷりと時間をかけて、その公園を眺めた。

目の前の公園は、通勤時にみるいつもの公園とは、何かが違うように見えた。

それは、自分のいる位置の違いという単純なものではなく、公園を見る俺自身の心境の違いが、同じ公園を別物に見せているように思えた。

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俺は、決して仕事が嫌だと思っているわけではなかった。でも、仕事のある日は、どうしても憂鬱になってしまう。

そんな俺の心境を反映してか、休日に見る公園は、平日に見るそれよりも明るい感じがした。

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実際にその日は目が眩むほどの晴天で、また、この公園はある程度の広さや豊富な遊具を持ち合わせていて、開放感を味わいたい今の自分にぴったりのシチュエーションであるように思えた。

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ただひとつ。今日は日曜日で、こんなに快適な公園があって、おまけに空は晴れ渡っている。

それなのに、公園内では子ども1人遊んでいなかった。

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そのことを不思議に思うとともに、自分の思い描く理想の公園に足りていない、たったひとつの要素であると、残念な気持ちにもなった。

それでも、子どもの賑やかな声がない分、静かに自分の時間を堪能できると考えて、素直に喜ぶことにした。

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そうしてある程度の時間をベンチでゆっくり過ごしていると、ふと、視界の端に見慣れた箱をとらえた。

あれは、郵便ポストではないか。

さっきの眺めではそれの存在を確認できなかったのも、わざわざ遠いところまでは注意深く見ていなかったからであった。

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そのポストは、公園の入り口付近にあった。

入り口といっても、俺が入ってきた国道側のものではなく、その反対側の静謐な住宅街へと続く方の入り口近くに、それはひっそりと佇んでいた。

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それは、覆いかぶさるように枝葉を垂らす木の影に隠れていたこともあり、遠くから少し見たくらいでは気づかなかったが、あの赤色と片足立ちのようなシルエットは、街中でもよく見るような郵便ポストに違いなかった。

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ポストが公園の中にあるなんて珍しいなと思うと、途端にそのポストに興味が湧いた。

そして俺は、さっきまでの疲れもまるで忘れて勢いよくベンチから立ち上がると、そのポストに寄ってみた。

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しかし、近づくことでそれの詳細が明らかになるにつれ、俺の目はだんだんと細められていった。

それは決して近視によるものではなく、俺のうちに生まれた違和感が、そうさせたのであった。

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その箱は、たしかにポストに違いなかった。しかし、普通のものとはどこか違うような気がした。

俺はどこが違うのかを考えながら、その奇妙なポストとの距離を縮めていった。

そしてすぐそばまで来てみると、その答えは簡単に見つかった。

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俺はいよいよ近視の人のように、自分の顔をポストに近づけた。

表面をよく見てみると、木目の模様がペンキで際立っていた。そして、箱の角の部分には、打ちつけられた釘の頭が剥き出しになっていた。

つまり、このポストは、木でできていたのだった。

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それは、日曜大工にしてはよくできていた。しかし、郵便ポストとしては欠陥品であるように思えた。

街中でよくみるポストは、決して木ではできていない。それも、ポストというものが、個人情報のつまった郵便物を一時的に預ける場所であるという性質上、脆く燃えやすい木なんかで作られていないというのは当然のことであった。

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でも、その木でできたポストをよく観察してみると、手作りにしては妙に凝ったものであることに気づいた。

郵便物を取りに来る時刻表は、凝ったレイアウトで印刷してつくられていた。投函口はちゃんと大型封筒まで入るような大きさに設計され、蝶番を巧みに利用した返しまでついていた。

なんといっても、赤色に白で印字された、郵便局のこのマークが、この箱をポストとして証明しているように思えた。

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木で作られていることを除けば、このポストの唯一ともいえる欠点は、接地部分の乱雑さであった。

まるで杭を力任せにハンマーで叩きつけたように、ポストの片足は地面にめり込んでいた。

それは、突風でも吹いてしまうものなら、あっけなく倒れてしまいそうに頼りないものに見えた。

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このポストは、その唯一の欠点のおかげで、やはり誰かの悪戯で設置されたのだと思えた。

一方で、悪戯で誰かが設置したにしては、あまりにもちゃんとしすぎているという気持ちも、どうしても拭いきれなかった。

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しかし、このポストは木でできているという以外にも、まだ何かおかしい点があるような気がした。

今回の違和感は、さっきのようにそう簡単に見つけることはできず、その何かを探し求める数分間、俺はひたすらにポストと向かい合っていた。

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相変わらずこの公園には俺以外に人はいないようで、耳に入ってくる音といえば、ただ小鳥のさえずりばかりであった。

そのポストが存在する公園の入り口辺りは、自動車の行き交う国道からはだいぶ離れているとはいえ、大通りに溢れる雑多な音が、ここからは一切聞こえないことが不思議であった。

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あっ。

しばらくして、ついに違和感の正体にたどり着いた俺は、思わず声をあげた。

そしてその発見は、からりとした晴天の日にもかかわらず、少しだけ俺に寒気を覚えさせた。

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俺は、時刻表に書かれた数字を何度も見返した。

やっぱり、何度見ても、そこに示されているのは、午前3時だった。

公園に設置されているくらいだから、1日に1回しか回収しにこないのは仕方ないにしろ、15時ではなく3時なのは、いくら何でもおかしくないか。

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俺は、この不可解な時刻表の、その背景について想像せずにはいられなかった。

人は、不完全なものにほど興味が湧くのかもしれなかった。

こんなにも信用のできないポストは、しかし、俺の好奇心をくすぐる対象としては、十分に信用できるものに思われた。

俺はこのポストに、何かしらの期待を抱いていたのであった。

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果たしてこんなポストに、郵便物を投函する人はいるのだろうか。俺の疑問はそこから出発した。

この公園の近くにはコンビニのポストもあるから、わざわざこのポストを利用する人はいないだろう。いや、だからこそ、こんな時間の回収で十分なのかもしれない。

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時間帯についても、そこまで怪しく思う必要はないのかもしれなかった。

思えば、新聞配達だって、朝の3時とか4時にしているではないか。

俺は、学生時代に勤めていた新聞配達のバイトを思い出した。

このポストも、そんな早朝バイトの人たちのためのものであったりして。

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あるいは。

もしかしたらこのポストは、この公園に住んでいるホームレスのためのものなのかもしれない。

俺は再び、公園の敷地内に視線をめぐらせた。相変わらずの閑散とした空間が目の前にあった。

たしかに、この公園の人の少なさは、ホームレスがここを拠点とするのにおあつらえ向きな条件であるように思えた。

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そしてこの奇妙なポストは、公園を拠点とする彼らと外の世界とをつないでいるように思えた。

ホームレスとは、日の目をみない人たちだ。もしかするとこのポストは、そんな彼らの不満をぶつけるための、社会に対する意見箱のような役割を果たしているのかもしれない。

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脳内が随分と盛り上がってきたところで、俺はふと我に返った。

俺はこの辺で、自分の勝手な想像を切り上げなければいけないと思った。

人のいない静かな公園で、俺はひとり赤面していた。

ホームレスの事情について何も知らないのに、自分の想像の楽しみに利用してしまったことを、成人した社会人として恥じたのだった。

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しかし、なによりも、今日は貴重な休日だ。

実際に、ホームレスの人たちに対する申し訳なさよりも、自分の貴重な時間をこのような形で潰していることの方が、自分にとっては大きな問題であった。

自分はこのポストの前で随分と立ち往生してしまったことに気づき、さっきまでの好奇心に溢れた自分なんてまるでなかったように、急に我に返ったのであった。

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もう十分に体も休まったし、いろいろ考えて頭を使った分、次は体を動かしたい気持ちになった。

そして、そろそろ散歩を再開しようかと後ろを振り返ったとき、俺は思わず叫び声をあげた。

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静謐な空間に、俺の叫び声は弱々しく響いた。俺は反射的に飛び退いていた。

情けない背中は例のポストにぶつかり、俺は一瞬ポストが倒れないか危惧したが、それは以外にもしっかりと地面に固定されていて俺を支えてくれた。

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いまの俺の目の前には、見知らぬ1人の老人が立っていた。

いつのまに?それよりも。

目の前の彼は、さっきまで自分が想像していたホームレスのような身なりで、半開きの口からは所々に生えた歯がのぞいていた。

その歯を見てようやく、彼は笑っているのだと気づくことができた。

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もしかして、俺は逃げたほうがいいのかもしれない。

笑ったような表情のままぴくりともしない彼は、自分に対して復讐心を抱いてるように思えてならなかった。

それも、さっきまでのホームレスを蔑むような想像が尾を引いているせいかもしれなかった。

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しかし、俺はその場から動けずにいて、しばらくは老人と対峙していた。

俺が動けなかったのも、目の前の老人に恐怖を覚えると同時に、まるで路上で見かける大道芸人を見るときのような気持ちになっていたからで、俺は彼が何か面白いことをしてくれるのではないかと、密かに期待していたのであった。

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そして、老人に抱いたその期待は、さっきまでポストに向けて抱いていたそれと同質のものであった。

老人とポストがなんらかの形でつながっていたら、もっと面白いのにな。

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そう思う俺もまた、目の前の老人のように、顔に笑みを浮かべているような気がした。

頬の引きつりが、笑いと恐怖のどちらによるものなのか、自分でもわからなかった。

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いつのまにか、小鳥のさえずりは聞こえなくなっていた。

もしかしたらはじめから、小鳥なんて鳴いていなかったのかもしれなかった。

そう思わせるような張り詰めた静寂は、老人によって簡単に破られた。

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「そんなに怯えられると、傷つくぞい」

老人は軽快な調子でそう言うと、渇いた声で笑った。

俺はその一言で、彼は自分に危害を加えるような人ではない、そう思うことができた。

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そして、俺の表情は余裕ぶっていた実、そんなにも恐怖を表していたのかと思うと、恥ずかしい気持ちが募った。

さっきの頬の引きつりは、どうやら笑顔によるものではなかったらしかった。

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「びっくりしましたよ。急に後ろにいるものだから」

俺はできるだけ人当たりのいいような言い方を心がけた。

それは、この面白げな老人と打ち解けたいと思ったからだったが、それに加えて、あの奇妙なポストについて、彼から何か聞き出せるのではないかという目論みもあった。

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俺の言葉を聞いてか、老人はまた笑った。

それは咳をしているような笑い方であった。

空気を擦りつけたようなその笑い声を聞いて、俺は完全に彼と打ち解けることができたと思った。

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それから俺と老人は、かつて俺が座っていたベンチに2人で腰掛けて、少しの間何でもないような話をした。

ひとりで散歩もいいけど、こんな和やかな時間も休日らしくていいじゃないか。そう思えるような楽しい会話だった。

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老人の話は、街中の看板や電車の中で見かける「広告」についての、最近の発見や持論が主な内容であった。

俺は、偶然にも広告代理店に勤めていて、彼の話はそんな俺でも興味を惹かれるものであった。

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老人の話は、内容はもちろんであるが、その話し方にも人を魅了する工夫が施されているように思えた。

彼は、広告とは人の興味をひくだけではダメで、いかに信用してもらえるかが大切だと熱い口調で説いた。

それは、俺も日頃から意識的に思っていたことで、そして、彼は彼自身が広告となって、今まさにそのことを体現しているように思えた。

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俺は老人の話に聴き入っていた。

ただ、俺はいつポストについて尋ねてみようかと、話を聞きながらも常にタイミングを伺ってもいた。

俺は老人の話に相槌を打つたびに、自分の口を開きたい衝動に駆られた。

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そして老人は、驚くほどに勘が鋭かった。

それも、彼が人を惹きつけるひとつの理由なのかもしれなかった。

「君がこうして、私みたいな老人と話し込んでいるのも、あのポストについて聞きたいからじゃろう?」

話がひと段落ついて、少しばかりの沈黙が訪れたとき、俺はいよいよその時がきたのだと思った矢先、見事に老人に先手を打たれてしまった。

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彼は公園の入り口付近にあるポストを指差して、にやりと笑った。

口元の数本しかない歯が、その笑いをより意味ありげにしていた。

俺はお手上げだというふうに2、3度首を振ると、その通りですと白状した。

老人はしてやったりといった表情で、今日1番の声で笑った。

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老人の笑い声は、はじめこそ楽しそうなものであったが、すぐに乾いたものが混ざりはじめ、もはや本当の咳のようになった。

実際に老人は、息苦しそうに肩を上下しはじめたので、俺はその背中をしばらくの間さすってやった。

俺の行動は、決してポストの情報を得るためにしたものではなく、心から老人を心配してなされたものであった。

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老人の背中をさする手から、彼の身体が思っていたよりも筋肉で隆々としていることを知って、俺はまた驚かずにはいられなかった。

見た目は老人ではあるが、もしかしたらそんなに高齢ではないのかもしれないと思った。

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そして俺は、彼の過去を想像した。

俺の想像が及ばないほどの苦労が、今の彼を老人のような風貌に見せているのかもしれなかった。

彼の風貌と、その彼に対しての俺の想像から、思わず借金というワードが脳裏によぎったが、俺はそれを手で払ったようになかったことにした。

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しばらくして、老人の咳のような笑い声(あるいは、それは笑いすぎてむせた結果の本当の咳なのかもしれなかった)は落ち着きをとり戻し、彼は俺の手に対してお礼を言うと、俺の知りたかったポストについて、案外あっさりと教えてくれた。

彼の語り口は、まるでRPGの世界の村人が、主人公である勇者に語りかけるような、冒険心をくすぐるものであった。

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老人自身も、いつからそのポストがあるのかわからないらしかった。

実際に見てみても、素材が木材だけあって劣化は早く、またペンキはいくらでも上塗りできるため、その見た目だけでは正確な月日は計れなかった。

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また、老人は一度だけ、夜中に散歩しているときにそのポストの郵便物が回収される現場を見たのだという。その人物は街でもよく見かける赤色のバイクに乗っていて、服装も間違いなく郵便配達の人だったらしい。

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この公園には街灯は少なく、目の前の老人が暗闇でどれだけ見えていたのか疑わしかった。

しかし、老人を信用するとするならば、このポストが、たとえ誰かの手作りだとしても、正式なものとして機能していることに驚きを隠せずにはいられなかった。

同時に、このポストがちゃんと機能していることを、どこかほっとした気持ちで受け取ってもいた。

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そして。一番興味深かったのは、このポストにまつわる、こんな噂話であった。

「このポストに投函したものは、ある条件を満たせば、死者に送り届けることができるらしい」

老人は努めて声を低くして、できるだけ俺を怖がらせようとしているみたいだが、俺は彼の言っていることを半ば冗談として楽しんでいた。

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「それは実際に試してみたことはあるのですか?」

俺もまた努めて真剣に訊いてみた。

内心は楽しんでいても、「死者」というワードが絡む以上、あまりふざけるのはよくないと思ったからである。

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「いや、私は、もうこの先長くない。わざわざポストを使うより、直接渡すほうが早いぞい」

老人は私の配慮を踏みにじるように、いかにもふざけた調子でそう言った。

これには、俺たちは顔を合わせて笑わざるを得なかった。

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老人との時間は、あっという間に過ぎていった。

気がつけば夕暮れ時で、俺たちの影は細長く伸びていた。

昼間の小鳥の真偽は定かではないが、この時間帯のカラスだけは、疑いようなく鳴きわめいていた。

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そして、昼間の俺の予想通り、電灯の少ない公園は夕暮れ時でもぼんやりとした闇に包まれた。

入り口のポストは、後ろの木々も相まってか、ベンチからはほとんど見えなくなっていた。

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「そういえば」

俺は老人との別れ際、まるで忘れ物を取りに来たように、老人に尋ねた。

「死者に郵便物を送り届けるときの『条件』って何なんですか?」

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「ああ」

俺はまた、彼が怖い話をするときのスイッチが入ったのを聞いて、今度は隠さずに含み笑いした。

老人はそんな俺に意を介さず、低い声でこう続けた。

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「それはな、宛名でも住所でも、何でもどこか一文字だけ、鏡文字にするんじゃよ」

「鏡文字?」

俺は思わず素っ頓狂な声をあげた。

そんなことで、死者に手紙が届くわけないではないか。

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俺の頭に、明確に「手紙」とイメージされたのも、実はそれを送りたい人がいるからであった。

そして俺は心のどこかで、たとえ作り話にしても、老人のいう噂話に期待していたのだ。

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だからこそ、彼の話のオチに、俺は正直がっかりした。

老人は相変わらず真剣な顔をしていた。

もうそんな顔をしても無駄だと思いながら、俺は礼だけ言って老人と別れた。

その胸の内は、失望でいっぱいだった。

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俺は公園からの帰り道、今は亡きAさんのことを考えていた。

Aさんは、俺が新卒社員として今の会社に入った頃から、ずっとお世話になっていた俺の上司であった。

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当時の年齢は50歳を超えていたものの、活力に溢れる話し方や動作から、その見た目は実年齢よりもずっと若くみえた。

部下の面倒見がよく、社長からの人望も厚いAさんは、俺だけでなく会社のみんなに慕われていた。

俺はAさんに憧れて、Aさんのようになるために日々奮闘してきた。

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一人前の社会人として認めてもらうことが、Aさんに対するなによりもの恩返しであると思って、その日を楽しみに頑張ってきた。

彼のいる間は、会社に行くことを憂鬱に思った日は、一日もなかった。

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それが、先月、彼は突然帰らぬ人となった。

それも、彼の死因は、手首からの大量出血によるショック死であった。普段の彼の様子からみて、彼の死は事件性のある他殺によるという見解もあったものの、凄惨な現場からは他殺の証拠となるものは発見できず、最終的には自殺と処理された。

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風の噂によると、借金の連帯保証人になっていた友人の失踪、つまり裏切りが原因の自殺であるなんて言われていた。

借金の額は大したものではなく、それよりも、信用していた友人から受けた精神的なショックが彼を自殺へと追い込んだとか、どこまで尾ひれがついたのかわからないような話を会社内のあちこちで聞いた。

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俺があの老人の風貌から借金というワードを連想してしまったのも、Aさんのこのような死がいまだに糸を引いていたからであった。

俺は好き勝手に彼の死についてはやし立てる周りを軽蔑していた。そして、自分が何を信じればいいのか、わからなくなった。

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俺は、Aさんの誰にでも優しい笑顔を思い出した。何が事実がわからない中でも、Aさんを死に追いやったらしい彼の友人を、俺は心底憎んだ。

人の信用を踏みにじるような行為は、この世で最も許されるべきではないということだけが、疑いなく信じられることとして俺を奮い立てた。

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Aさんは生前、誰よりも「信用」というものを大切にしていて、俺のことを部下としてだけでなく、人として信用してくれた。

だから、Aさんがいなくなった後、俺はなんとかその穴を埋めようと頑張った。

Aさんの信用に応えようと、ここ数ヶ月は落ち着く間もなく仕事に没頭した。

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時間の経過は、幸か不幸か、俺の心の傷を癒していった。今では、やっと休日を楽しんでもよいと思えるくらいに気を楽にすることができるようになったが、俺は決してAさんの死を乗り越えたわけではなかった。

仕事がある日を憂鬱に思うのも、仕事が嫌だからではなく、どうしてもAさんの死に直面せざるを得ないからであった。

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俺は、Aさんのことを一生忘れるつもりはなかった。一方で、俺はいつまでAさんの信用に応え続ければいいのかという気持ちも、わずかながらあった。

Aさんもおそらく、誰よりも信用を大切に思いながらも、心の底ではこのような悩みを抱えていたのではないだろうか。

信用というものは、ときに大きな足枷となり、またその裏切りは、人を簡単に傷つけることのできる鋭利な刃物になる。

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俺が逃れたいのは、決してAさんからではなく、信用という存在からなのかもしれなかった。

俺が老人からあの噂話を聞いて、Aさんへの手紙を思いついたのも、Aさんへの気持ちを吐き出すことによって、はじめてAさんの死を乗り越えることができるのではないかと思ったからであった。

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考えてみれば、ポストという存在も、信用によって成り立っていることに気づいた。

ポストというのは、ある点とある点を結ぶ線のつなぎ目である。

そしてそのつなぎ目は、人の信用によって結ばれている。

この箱に郵便物を入れれば、確実に届けたい場所に送り届けてくれるという信用がなければ、ポストに投函なんてできないのだ。

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そう考えると俺は、さっきまでの失望の気持ちが晴れていくのがわかった。

俺は老人の話をまったくの作り話だと思っていたけれど、それでもあのポストに、Aさんへの手紙を託してみようと、本気でそう思った。

繰り返すが、さすがに本当に死者に手紙が届くとは、いくらなんでも思っていなかった。

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ただ、これは俺の気持ちの問題なのだった。

俺が届けたいのは、手紙という物理的なものではなく、そこに表した気持ちなのだと、俺は開き直った。

そして、Aさん宛ての手紙をポストに投函することは、俺にとってのひとつの区切りとして、必要な行為だと思われた。

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俺はいてもたってもいられなくなり、家に着くと、早速Aさんにむけての手紙を書いた。

手紙を書いていると、これまでのAさんとの思い出や感謝の気持ちが溢れて、これを直接伝えることができたらどれだけよかったかと感涙に咽ぶ思いであった。

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そのような感傷に浸る一方で、俺はその手紙の中にAさんとの決別の意もしたためた。

俺はAさんの信用を決して無下にするつもりはない。しかし、これから俺は、俺の人生を自分らしく生きていく。だから、どうか俺のことを見守っていて欲しい。

だいたいそのような内容のことを、便箋にして5枚ほどに書き連ねた。

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そして、俺の最後のわがままとして、生前Aさんの使っていたボールペンを、どうか頂戴できないか手紙の上で聞いてみた。

会社のAさんのデスクには、いまだにAさんの私物である文房具や本が残されていた。

しかし、Aさんが戻ってくるかもしれないなんて言いがかりをつけて、誰も片付けようとはしないのであった。

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俺はAさんの使っていたものを、形見として常に持っておきたいと思っていた。

そしてそれは、Aさんのことは忘れないという決意表明であった。

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また、なぜボールペンなのかといえば、俺はAさんの字が好きだったからである。

はじめてAさんの字を見たとき、その達筆と、字にも表れるくらいの彼の優しさに、社会人として右も左もわからない俺は、純粋に心の底から憧れたのだった。

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彼が俺の目標となったのも、その字がきっかけだったといえるかもしれない。

彼のボールペンを身につけることは、常に目標を忘れないという自分に対する戒めの意味も込められていた。

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俺は手紙を書き終えると、自分に残された最後の問題について考えた。

あの老人から聞いた、鏡文字の問題である。

封筒に書く文字の、どれかひとつだけ鏡文字にしてみるか、俺はどうしても踏ん切りがつかなかった。かといって、諦めきれもしなかった。

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俺は、あの老人の話を馬鹿げた作り話だと思って真剣に扱わなかった。

しかし、馬鹿げた話だからこそ、逆に信じてみるべきではないか、とも思ったりした。

老人の話を信用して手紙を投函することは、Aさんの大切にしていた「信用」に準ずる行為であり、俺がすべきこととして最もふさわしいのではないだろうか。

そして万が一、本当にあの話が作り話ではないのならば、俺のこの手紙はAさんに届くことになる。

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そう考えると、俺は自分が鏡文字にしない理由はないように思われた。

そして、封筒の宛名のうち、Aさんの名前の一文字を鏡文字にするのは躊躇われたので、「様」という字だけ左右を反転させて書いた。

宛先の住所は、どこの住所を書けばいいのかわからないので、空欄にした。

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すべてを終えたとき、俺は心地よい充実感にあふれていた。それは、決してAさんとの決別に喜んでいることではないと自分自身を説得した。

そして、あと数時間後に迫っている出勤時間に備えて、俺は深い眠りについた。

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翌日、俺は普段よりも少し早く家を出て、あの公園に立ち寄った。

昨日見たポストは、昨日と変わらず公園の入り口付近にちゃんとあった。

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まだ世界に顔を覗かせたばかりの朝日が、覆いかぶさる木の枝の木漏れ日としてポストに降り注ぎ、その空間を幻想的なものにしていた。

それは、このポストがもつ奇妙さを、神秘的なものに思わせた。

俺はなぜか、手紙を投函することに対して緊張していた。

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俺はポストを目の前にして、昨日の発見を思い出した。ポストは、人の信用によって成り立っているつなぎ目であるという気づきである。

そして、老人のあの話を信用するならば、目の前にあるポストは、この世とあの世という2つの点を結ぶ線のつなぎ目となってくれるらしい。

そのつなぎ目を担うのは、果たして何者なのだろう。

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俺はなぜあんな馬鹿げた話を間に受けて、そしてなぜそのポストの前で緊張しているのかと恥ずかしくなったが、すでに封筒の宛名の「様」の字は鏡文字になっているし、昨日の今日にもかかわらず、こんな手紙まで用意してまたここに戻ってきている。

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今更恥ずかしがる必要なんてなかった。

なにより、俺はAさんに対して本気で向き合わなければならない。

この公園の不思議なくらいの静寂が、今の俺にはありがたかった。

俺はゆっくりとした動作で手紙を投函すると、目を瞑って黙祷した。

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そして、手紙に書いてあるような内容を、頭の中でもう一度繰り返した。

俺はAさんのことを忘れません。だから、俺の頑張りを、どうか見守っていてください…。

しばらくして再び目を開けると、目蓋によってつくられた先ほどまでの暗闇の反動もあってか、眩しいほどの光が目に飛び込んできた。

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そしてその光とは、世界そのものであった。

俺たちはいつも、目に見えるものしか信じない。しかし、目に見えないものを信じることで、新たに見ることができる世界もある。

ポストの上で揺れる木漏れ日を見ながら、俺はそう思った。

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俺はこのようなポストに出会えたこと、そして老人のあのような話を聞けたことに、心から感謝した。

太陽を見ると涙がにじむように、俺の目は潤んでいた。

出勤日なのに、この公園が明るいものに見えるのは、久しぶりであった。

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もうそろそろ、会社に行かなければならない時間だ。きっと会社までの道のりも、いつもとは違って見えるだろう。

俺は自分のこれからが楽しみに思えた。

そして、その未来へとつながる今を、楽しんで生きようと思った。

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そうして俺は新たな決意を持って、しかし軽やかな足どりで、会社へと向かった。

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ところがその数日後、俺はある懸念に悩まされていた。

それは、仕事のことでも手紙のことでもなく、数日前に公園で出会ったあの老人についてであった。

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俺は自分のつまらない失望によって、彼とあっさりした別れ方をしてしまったことを後悔していた。

老人の教えてくれた噂話に感謝するようになってからは、その後悔はいよいよ大きく膨らんだ。

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そして、彼と楽しく話した時間を思い出して、そんな彼との記憶の断片のひとつひとつが、俺を言いようのない不安に駆り立てるのであった。

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それは、Aさんへの手紙を書くことで、死というものにそれまで以上に向かい合ったからなのかもしれなかった。

俺には、老人がもうすぐ死んでしまうように思えてならなかった。

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きっかけは、会社の同僚の咳であった。

隣のデスクの彼が咳をしているのをみて、俺はどうしたのかと訊いてみた。

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彼は、これまでの過労によるただの体調不良だから大したことはないと言って笑うと、また何度も咳き込んだ。

しかし、隣から周期的に聞こえてくる咳に、俺は彼のことを心配するとともに、ほんの少しだけ、耳障りだとも思った。

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俺は集中が途切れて仕事が手につかず、どうしたものかと考えているとき、ふと、あの老人の、咳のような笑い声を思い出した。

そして、もしかしたら老人は本当に咳をしていたのかもしれないと、隣の彼を見て思った。

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思い返せば老人の咳は、笑いすぎてむせたにしては、あまりにも病的なものであった。

俺は、老人と笑い合うことになった、彼の言葉を思い出した。

老人は、自分はこの先長くはないと言っていた。そして、もし死者に手紙を渡すなら、直接渡すほうが早いとも言っていた。

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あのときは俺との会話を盛り上げるための冗談だととらえていたが、もし冗談ではないとしたら…。

それは、あの病的な咳によって、十分に裏づけられるものであった。

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また、彼の背中をさすったときの、隆々とした筋肉の手触りが蘇った。もし彼が大工として働いていたのならば、あのがっちりとした体躯も納得できた。

そして、ポストのような単純な形のものを作るのは、朝飯前だろう。

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まるで導火線についた火のように、俺の想像は加速した。いったんスイッチが入ってしまうと、周りの騒音がまったく気にならないくらいに、俺は自分の考え事に集中できた。

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それと同時に、俺の不安はだんだん肥大していった。その不安は、とんでもないことをしてしまったかもしれないという後悔に変わりつつあった。

そしてその後悔は、彼との別れ際での態度に対してのそれよりも、もっと重大なものに思われた。

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俺の思考がたどり着いた結論は、つまりこうであった。

老人は、自分が余命わずかであることを知っていて、最期に何か人のためになることをしたいと考えた。

そのため、彼はあのポストを自前でこしらえて、そのポストにまつわる鏡文字の話を用意した。

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封筒の文字を鏡文字にするのは、彼の話をきっかけに書かれた死者に対しての手紙を、他のものと見分けるための目印にするためであった。

もっとも、あのポストを日常的に利用する人なんて、ほとんどいないだろう。

なんたって、夜中の3時にしか回収しに来ないのだから。

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自分が寒気を覚えたこの時間設定は、投函物を制限するためであり、またこのポストの、人気のない公園の木の影に隠れるような設置場所は、ポストが偽物だと配達員や警察に気づかれないようにするための思慮だったのではないか。

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俺のこのような考えには、何ひとつ論理的な根拠は伴っていなかった。

あのポストが偽物であることも、老人が病におかされていることも、そして、ポストが偽物であることと老人の死期が近いということがつながっているという考えも、すべては自分のこじつけに過ぎない。

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しかし、この世界で明確にわかっていることなんて、果たしてどのくらいあるのだろうか。

明日が今日と同じように何事もなく終わることすら、わからない世界で生きている俺たちは、信じるべきことが何かを知る必要があるように思えた。

そして、俺のポストに関する憶測は、老人のためにも、信じるべきことのように思えてならなかった。

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思えば、俺を怖がらせるためと思っていた老人の低い声は、実は真剣に俺に訴えかけていた声ではなかったのか?

そう考えると、冗談を言いつつも、彼の目は常に真剣であったように思えた。

彼は驚くほど勘が鋭かったから、俺が誰かの死を悲しんでいることに気づいていたのかもしれなかった。

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彼はその時から、この世とあの世のつなぎ目の、担い手となる覚悟をしていたのだとしたら…。

俺の根拠のない考えは、しかしそれ以上に揺るぎない老人への感情によって、俺を突き動かした。

俺はもう、後悔したくなかった。

そして、俺の投函がきっかけで、老人に死に急ぐような思いをして欲しくなかった。

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もし老人のこの先が長くないことが本当で、それはどうしようもないことなのだとしても、せめて今という時間を楽しいものにして欲しかった。

それは、俺が老人との出会いによって、いまを楽しく生きようと思えることができたことへの、恩返しをしたいからであった。

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俺は腕まくりをすると、座り直して姿勢を正した。そして、デスクの上の仕事に取りかかった。

隣の騒音なんて、いまではちっとも気にならなかった。

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俺は少しでも早く仕事を終わらせて、あの公園に行こうと考えたのだった。

Aさんへの手紙を投函した日からは随分と日は経っていて、手紙はもう回収されているに違いなかったが、それでも、公園に行けば老人に会える気がしたのだった。

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俺の気は焦る一方で、会社を早退するという選択肢が浮かばなかったのは、Aさんの存在があったからだった。

老人のためとはいえ、私事のために仕事を早退することは、Aさんの信用を裏切るように思えて、どうしても出来なかった。

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俺はなんとか定時までに仕事を終え、隣の彼にお大事にと挨拶して、早々と会社を後にした。

俺の足どりは、仕事の疲れもあってか重たかった。

それでも、いつの間にか俺は走り出していた。

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公園へと向かう道を走りながら、俺は老人と過ごしたわずかな時間を思い返していた。

俺が老人のことを忘れられないのも、一緒に笑い合ったあの時間があったからだった。

そして俺がAさんの死を乗り越えられたのも、彼との楽しい会話があったからなのだ。

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その会話のきっかけは、あの奇妙なポストであった。あのポストは、その存在そのものによって、俺たちをつないでくれた。

俺は、老人と過ごした時間を信用していた。

俺たちのつながりを、奇妙なポストによって生まれたつながりを、何よりも信用していた。

その信用を、最悪なかたちで裏切りたくなかった。

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辺りは薄暗くなりはじめていた。

国道沿いの歩道では帰宅に急ぐ人々が同じ方向に歩いていた。

俺の影は斜め前方に引き延ばされ、俺と一緒に走りながら電柱や人の足にその頭をぶつけていた。

実際の俺の頭もまた、じんわりと痛みはじめた。

その頭痛は、普段の運動不足がたたっての酸欠の症状であった。

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それでも俺は、走るのをやめなかった。

自分の意志でやめなかったのではなく、何かに動かされてやめられなかったのかもしれないが、その何かがわからない俺は、自分のできる限りに、精一杯走り続けた。

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途中、俺は疲れによって足がもたつき、人通りの多い歩道の真ん中で盛大に転んでしまった。

コンクリートについた手のひらは皮がめくれ、血が滲んでいた。その血の匂いが、俺にはなぜか懐かしく感じられた。

そのときの俺は、がむしゃらに走り続けたこともあってか、童心に返っていたのかもしれなかった。その証拠に、転んだことに対して、不思議と恥ずかしい気持ちは湧かなかった。

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俺は再び立ち上がると、まるで動画の再生ボタンを押したみたいに、さっきまでと同じように走り出した。

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公園に到着した頃には、もうすっかり日は落ちて暗くなっていた。

俺は膝に手をついて、乱れた息をゆっくりと整えた。

公園の入り口には、やはりあのポストは存在していた。

頭上の木々がまるで自分の顔を覗き込んでいるように、枝の先をゆらゆらと揺らしていた。

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ようやく息を整えた俺は、しかし、自分が何をすればいいのかわからないことに気づいた。

公園をひと通り見渡したが老人の姿はなく、いよいよ目的を見失った俺は、とりあえずポストを観察してみた。

その赤色は暗闇に溶け込んで、ただの黒い箱のような佇まいであった。

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公園の敷地外からでは、決してポストとはわからないようなその姿を見て、俺はこのポストがやっぱり老人の手作りであるように思えた。

一方で、俺はこのポストが、正式なものであることを望みはじめてもいた。

俺はポストについて詳しくないから、もしかしたらこんな立地の、木でできたポストだってあるのかもしれなかった。

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それに。もしこのポストが正式に認められたものであるなら、俺の老人に対する不安は、ただの勘違いのように思えた。

老人がAさんへの手紙を回収して、それとともに死ぬという俺の懸念は、このポストが彼の手作りであってはじめて成り立つものなのだ。

そんなことを考えながらポストの周りをうろうろしている間に、この前のようにいつの間にか老人が現れたりしないかと少しだけ期待していたが、老人どころか人の気配すら、露ほども感じられなかった。

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暗闇の中でひとりぼっちの俺は、だんだんとネガティブになっていた。

仕事を早く片付けてここまで走ってきた疲労が、どっと蘇るのがわかった。

そして、俺が老人に会いたいのも、実は老人のことを心配しているからではなく、老人の咳が病気からくるものなのか確かめることで、俺自身が安心したいからなのだと思った。

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そう思うと、これまでの自分の行動は、決して誰かのために行ったものではないことような気がした。

結局俺は、自分のことしか頭にないように思われた。

Aさんに宛てた手紙も、自分がAさんの死を乗り越えるためのものであって、決してAさんのことを真に思って書いたものではなかったのだ。

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俺は、どうにかして目の前のポストに投函した自分の手紙を取り返したい衝動に駆られた。

もちろん、手紙を投函した日から幾日か経っているから、このポストが本物であれ偽物であれ、すでに誰かの手によって手紙が回収されていることは、確実であるに違いなかった。

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いや、そもそもポストの中を確認して、自分の手によって手紙を回収できると思っていること自体、間違っているではないか。

俺は、ポストについて説明する老人を無意識に村人に仕立てあげたように、木でできたポストもまた、まるで村の壺を壊す勇者さながら、最悪自分の力で壊せてしまえると思っていた。

もちろん、あのポストの真贋(本物か偽物か)が曖昧になったいま、本物かもしれないポストを壊すなんてことは到底できなかった。

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では、偽物だとわかったら、自分の都合のために誰かの作ったものを、俺は壊せてしまうのか?

その時の俺は、自分が周りのことを考えられない自分勝手な人間であるように思えた。

そして、そんな自分は本当の意味で、何かを信用することなどできないように思われた。

投げやりな俺は、自分が息咳きって走ってきたことも、老人の話を信じて手紙を書いたことも、何もかもが恥ずかしいことのように思えた。

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俺は、何かを信用すること自体に失望していた。

それに加えて、公園に老人がいないということが、まるで俺に対する老人の裏切りであるように感じていた。

それは、老人のことを心配していたさっきまでの気持ちが強かった分、裏切られたという気持ちもまた、強いものに感じられるのであった。

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このポストの真贋というこれまでの問題に、手紙の行方という新たな不安要素が加わったいま、俺は老人に出会って手紙を投函する前までのひどく憂鬱な気持ちに冒されていた。

それでも。せめてあの恥ずかしい手紙だけでも自分の手元に返ってきてくれたら。

ぼろぼろな俺はそんなわずかな希望を捨てきれずに、しかしこれまでのおおよそを諦めて、足を引きずるように公園を後にした。

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それからの日々を、俺は鬱屈とした気分で過ごしていた。

感情というものを海の状態に例えるならば、いまの俺の感情は、干潮によって潮が引ききっている分、沖では荒波が絶え間なく生まれているような、そんな感情であった。

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岸からは穏やかに見えても、決して凪ではなく、その海のほとんどは荒波に渦巻いているのであった。

俺はこれまでと変わらず仕事に従事していたし、側からはこれまでとなんら変わりないように見えるだろう。

しかしその内側は、これまでとは確かに違っていた。俺の中は、一度空っぽになったあと、純粋なものを寄せつけないような、荒々しい負の感情で満たされていった。

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そして、そのような感情を抱くことは、自分についての新たな発見をもたらした。

まるで潮の引いた浅瀬で、普段は見ることのできない魚や貝を発見するように、俺は自分の隠れていた部分を目の当たりにした。

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それは、自分の、というよりも、人間みなが持っているであろう、エゴの部分であった。

自分は何かを信用することができないという公園での発見は、次第に、人間は純粋に何かを信用することなんてできないのだという普遍的な理論へと発展し、まるでそれはその通りであるように思えてくるのであった。

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信用というものには、それに釣り合うだけの利益が必要であるに違いないと俺は思った。

たとえばお金だって、ただの金属や紙に価値があると信じているのは、そうすることで自分が経済的な利益を受けられるからなのだ。

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Aさんが俺を信用していたのも、部下を一人前に育てることが目的で、そうすることで、会社から評価されるためなのかもしれない。

そう思う俺は、なぜか胸が締めつけられるような圧迫感に襲われた。

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それは、罪悪感なのかもしれなかった。

あれだけお世話になったAさんの信用に対して、自分のエゴを押しつけているだけなのかもしれなかった。

しかし俺は、そんな自分の考え方を信じてもいた。

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もはや自分は、自分のことしか信用できないように思えた。

人が唯一信じることができる存在は、その人自身に他ならないのだ。

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そう考えると、老人の話を信じたのも、実は老人を信じたのではなく、老人を信じることにした自分自身を信用していたに過ぎなかった…。

俺の胸の内には、言いようのない悲しい気持ちが生まれた。

胸だけでなく喉まで締めつけられるように感じ、まるで溺れているように息が苦しかった。

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俺はいつかの公園で感じた、開放感を味わいたかった。

俺はやっぱり自分が安心したいだけで、しかしそれでもいいのだと開き直ることができればよかった。

しかし、俺はそれをしてしまうと、本当に人としてダメになってしまうとどこかで思う部分があった。

自分のエゴを自覚したうえで、そのエゴに完全に身を委ねるようなことだけは、どうしてもできないのであった。

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その日は久しぶりの定時退勤で、まだ日の落ちきっていない夕焼け空の下を、これまでの鬱屈とした気持ちで、俺は歩いていた。

俺にとっては、ポストのことも、手紙のことも、もはやそれほど問題ではなくなっていた。

それについての関心が薄れてきたからではなく、別の問題が俺を悩ませていたからであった。

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会社内では、Aさんの死を悲しむような雰囲気はもうほとんどなくなっていた。

それは自分自身についてもいえることで、俺はAさんの死に対する意識が薄れていくことを問題視しているのではなかった。

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彼のデスクはいまでは綺麗さっぱり片付けられ、残された私物はダンボールにまとめて部屋の隅に置かれていた。

俺はそれについても、仕方がないことなのだと思っていた。

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しかし、彼の死が過去になりつつあるいま、彼がいなくなったことで空席も同然となった部長という座を、虎視眈々とみんなが狙い始めていたことに、俺はどうしても順応することができていなかった。

もちろん、彼の死から一カ月以上経ったいまでは、Aさんの担当していた仕事は別の人が受け持っていた。

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つまり部長はすでにある人が務めているのだが、それでも、誰からも信用されていたAさんに比べれば、その人は頼りなかった。

それどころか、Aさんの意思を蔑ろにするかのように、彼は部長という地位を自分の利益のために使ってしまうような人であった。

彼が部長であるがゆえに、周りは仕方なく彼に従うしかなかったが、その状況に納得している者は、おそらく誰一人としていなかった。

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誰のことも信用しない彼は、誰からもまた、信用されていなかった。

そんな彼を部長の座から引きずり下ろそうと、社内にはあまり和やかでない雰囲気が蔓延していた。

俺は、そんな息苦しい空気の中で仕事をしたくなかった。

職場の環境という平凡な問題が、いまの俺にとっては1番の悩みであった。

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自分を高めるのではなく誰かを引きずり落とそうという、歪んだ競争意識にとらわれた同僚たちは、まるで我先にと獲物に飛びつく獣のように見えた。

そして、獣になりきれない俺は、例の部長にやる気がないとみなされ、これまで任されていた仕事の何件かを外された。

彼は、周りの頑張りはすべて、自分の首をとばそうとしているためであることに、気づいていないようであった。

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俺は冷めた目で、自分勝手な振る舞いをする彼を見て、彼はいずれ溺れるだろうと思った。

世間という広大な海の、会社という船の上で、誰からも信用されない彼は、いずれ海に放り出され、誰にも助けられずにひとりで漂い続け、最後には力尽きて溺れるのだ。

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そして、憂鬱な気分のいまの俺も、実は彼のように溺れようとしていることに気づいた。

自分の中で渦巻く負の感情に、俺は少しずつ飲み込まれようとしている。

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俺ははっとした気持ちになって、それまで歩いていた道の途中で立ち止まった。

いつもの帰り道では見知らぬ人たちが、それぞれの目的地を目指して歩いていた。

立ち止まった俺に注意を払う人は、誰一人としていなかった。

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そのとき、俺は人生ではじめて、本当に孤独を感じたように思った。

真っ暗な公園でひとりポストと向かい合ったあの時よりも、人通りの多い国道沿いの歩道で、俺は孤独を噛みしめずにはいられなかった。

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あの時の俺といまの俺では、何が違うのか。

少なくともあの時の俺は、一時的ではあるにしろ、他人を心から信じていた。

老人のことを、そして、たとえあの話が作り話だとわかっていても、老人と過ごした時間そのものを信用していた。

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それに比べていまの俺は、人を信用すること自体を疑い、自分しか信じられないのだと何かに対して息巻いていて、それでいて、そんな自分に鬱屈としている。

恥ずかしがるべきなのは、老人の話を信じることにした以前の俺ではなく、自分以外を信じようとしない、いまの俺自身なのではないか。

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俺は、ゆっくりとした足どりで、再び歩き始めた。

そして、もう一度、信じてみようと思った。

何を信じればいいかはわからなかったが、すべてを信じてみようなんて漠然とした、しかし、確固とした決意を抱いていた。

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それはたとえ、すべてを信じる自分自身を信じているのだとしても、何も信用できない自分よりかは、よっぽどいいものに思えた。

さっきまでの孤独は、もう感じられなかった。

夕焼け空には、カラスが3羽、固まって飛んでいるのがシルエットで見えた。

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俺は横を通り過ぎていく人の流れに逆らわずに、家までの道を歩いた。

同じ方向を向いて歩く周りのスーツ姿を見て、俺ははじめて、自分がちゃんとした社会人になれたような気がした。

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それからの俺は、会社の雰囲気をよくするために、懸命に働いた。

私利私欲のためにではなく、周りのために働くことは、俺にこれまでとは違った充実感を与えた。

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俺は、誰よりも周りを信じた。そして、そんな自分に自信を持った。

周りが少しでも地位の高い役職につこうと、自分自身にとってやるべきことをやるかたわら、俺は評価されやすい仕事を彼らに譲ってやり、会社にとってやるべきである雑用などを、率先してこなした。

思えば、それはAさんが俺に対してしてくれていたことでもあった。

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俺は、Aさんのようになるよう日々奮闘した。Aさんがいなくなったいま、はじめて彼のことを純粋に目標とすることができた気がした。

そして、そんな俺の変化をみて、自分に賛同して協力を申し出てくれる人たちも、少しずつあらわれた。

相変わらず部長の彼からの評価はよくなかったが、本当の仲間ができたいまの俺は、彼なんかよりもよっぽど価値のある仕事ができていると思った。

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しかし、そんな充実した日常の中でも、老人についての不安は拭いきれなかった。

あれからも毎日公園の前を通っていて、ポストはいつもの場所に確認することはできたが、それでも老人とは一度も会えないでいた。

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また、自分の書いた手紙の行方も気になった。

本当にAさんに届いたのだと思い込めばよかったが、それでも、現実的にあの手紙が誰のもとにあるのかを知りたい気持ちは、完全に抑えることはできなかった。

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ある日、俺はAさんの墓参りをするため、霊園へと赴いていた。

四十九日はとうに過ぎていた。俺は以前から、仕事が落ち着いた休日にはAさんに会いに行こうと考えていたのだった。

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その日は日曜日の、しかし傘が役に立たないほどの土砂降りの日であった。

俺は、はじめてあのポストの存在を知ったのも日曜日だったことを思い出した。

そして、あの日曜日の晴天を、俺は土砂降りの中で感じていた。

それは、この日の俺の心情そのものを表していた。

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Aさんの墓石を前にした俺は、これまでの日々の忙しさによって自分の奥へと閉じ込められていた気持ちが、だんだんと蘇るのがわかった。

信用に対する意識が変わって、これからは人を信じて周りのためになるよう働こうと、再び落ち着かない日々を懸命に過ごしてきた。

その日々の中で、俺は本当の自分を偽っているのではないかという思いが、次第に募りはじめていた。

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俺は周りを信用することにした自分自身を信じているだけで、それでも周りを信用しない自分よりはマシなのだと割り切る覚悟をしたはずなのに、日常のふとした瞬間に、その覚悟は揺らいでしまう時があった。

Aさんのお墓を前にすると、そんな足元のおぼつかない嘘つきな自分を、曝け出してもいいような気がした。

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自分の素を見せることに抵抗がないのは、俺がAさんを信用しているからなのか。それとも、Aさんが死んでしまっているからなのか…。

そもそも、本当の自分とは、何なのだろうか。

俺はかつて、自分の信じるべきことを知る必要があると考えていた。しかし、そもそも自分が信じるべきことなんて、どうやって知ればいいのだろうか。

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この曖昧な世界で、答えを探すこと自体、もしかしたら間違っているのかもしれなかった。

いまの俺は、本当の自分という答えすら、ちっともわかっていなかった。

それは、探しても見つからないものなのだとしたら、俺はどうやって俺らしく生きればいいのだろうか…。

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だんだんと雨脚は強くなっていて、目の前の墓石はそれによって洗われていた。

横なぶりの雨は、傘の届かない俺の足元をずぶ濡れにした。

靴やズボンの裾に染みついた水の重さによって、俺はその場から動くのが億劫に感じた。

そして、次第に雨によって濡れる範囲は広くなっていき、だんだんと傘は役に立たなくなっていた。

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役に立たないなら必要ないと、俺は傘をたたんだ。

その当然の代償として、俺の顔には冷たい雨が降りかかった。

こんな雨の日に墓参りに来る者は他になく、周りには誰もいなかった。それでも俺は、自分の頬に流れるものを何かで隠したがっていた。

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冷たい雨は、しかし優しく自分に降りかかった。

自分を苛立たせるだけだった土砂降りの雨を、はじめて役に立つものだと思うことができた。

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雨に打たれながら、俺は、平日なのに公園が明るいものに見えた、あの日を思い出していた。

あの時は、何も変わらない公園に対して、それでも何かが違って見えた。

そして、違っていたのは、それを見ている俺の心境だった。

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この世界で生きている以上、俺はもしかしたら、何を信じるべきかなんて、またそれが正解かどうかなんて、この先ずっとわからないのかもしれない。

そうならば、俺がやるべきことは、自分の信じたいことを信じることではないか。

土砂降りの雨を、自分を優しく包み込んでくれるベールのように感じることだって、俺はできるのだ。

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そう考えると、俺の探していた答えは、案外簡単なものであることに気づいた。

本当の自分とは何なのかという問題の答えは、決して外の世界を探しても見つからなかった。

本当の自分とは、この世界を信じたいように信じる、いまの俺自身に他ならないのだ。

それは、俺の求めていた答えとはいえないのかもしれなかった。

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しかし、信じることは、このうえなく自由な行為ではないか。

どうしようもできない曖昧な世界の中で、何を信じるかだけは、誰にも縛られない自由なものであり、それが自分の世界を自分色に彩る。

そして、自分の見る世界こそ、自分そのものであり、本当の自分というものであるのだ。

その世界は、決して外の世界ではなく、自分の中にある、自分だけの世界…。

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いまの俺は、決して土砂降りの中にはいなかった。

本当の自分は、あの日曜日の晴天にも負けない、晴れやかな空の下にいた。

そして。

俺の本当に信じたいこととは…。

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自分が信じたいことは何かを再確認するため、俺はあのポストのある公園に向かった。

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公園までの道を、俺はやはり歩いていた。

歩くという行為は、さまざまなところで人生に例えられているが、俺はそのことを、まるで自分だけの発見のように感じていた。

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俺たち人間は、さまざまな歩き方ができる。

ゆっくり歩いたり、急いでみたり、時には後ろ向きに戻ってみたり。気分がいいときは、スキップなんかもできてしまう。

しかし、大人になった俺たちは決して、自分の人生を裸足では歩かない。

そして、いつしか俺たちは、その歩き方ではなく、履いている靴によって評価されてしまうようになった。

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それは、俺たちの歩き方は、次第に同じ歩調で歩くよう強制され、まるで軍隊みたいに、同じ方向を向かされているから、俺たちの個性は、靴によってしか輝かないように思われた。

もし列をはみ出すような歩き方をすれば、それは決して自由なんかではなく、俺たちは牢獄という不自由に閉じ込められてしまうのだ。

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そんな世界で、自分はどのような靴を履けばいいのだろうか。

…それは。自分の履きたいものを履けばいいのだ。

たとえ少し歩きづらくても、自分の足にはサイズが大きくても、俺たちは履きたい靴で人生を歩くことができる。

歩きづらい泥濘だらけのこの世界で、無理して奇抜な歩き方をする必要なんて、もはやないのだ。

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昔から愛用している履き慣れたスニーカーで道路の水たまりを踏みながら、俺はそんなことを考えていた。

すでに雨は止んでいて、現実世界の空にも遅れて晴れ間が差し込んでいた。

俺の服や靴は相変わらず濡れていたが、照りつける太陽のもとでは、それは一種の爽快感を俺に与えた。

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しかし歩いていると、俺の服はいつの間にかほとんど乾いて、しわくちゃになっていた。

それに気づいた俺は、もしかしたらさっきの雨は、それほど強くはなかったのかもしれないと思った。

あるいは、俺は随分と長い距離を歩いてきたのかもしれなかった。

家から霊園までの行き道は、公共交通機関を利用したから、正確な距離はわかっていなかった。

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俺は、霊園から公園までの距離を調べようと思い、ズボンのポケットからスマホを取り出したが、すぐにしまい直した。

俺は自分の行為に、ふっと吹き出してしまった。

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それは、何も正確な事実を、すべて知ろうとしなくてもいいように思った結果であった。

霊園から公園までの距離は、数字で表されるものではなく、「晴天の日に歩けば、ずぶ濡れの服も乾く距離」なんて、そんな考え方もまた楽しいではないか。

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やがて、俺は公園にたどり着くと、真っ先に例のポストへと向かった。

そのポストは、さっきまでの雨に打たれて、所々で塗装が剥げてしまっていた。

杭のように打ち込まれた一本足の周りは水たまりになっていて、その水は淡いピンク色をしていた。

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俺はそのポストから、雨の匂いに混じって、最近嗅いだことのあるような、それでいて、どこか懐かしい感じのするような匂いがするのを知った。

俺はその匂いから、Aさんのお墓の前であげた線香の匂いを連想した。

そして、俺はこのポストによって、Aさんの存在を近くに感じることができているのだと思った。

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俺はまた、自分の世界にぽつりと雨が降り出すのがわかった。

俺の思考は、歩くことと人生についてのあの考察に引き戻されていた。

それには、続きがあったのだ。俺はそれを、Aさんの死という現実とともに、思い起こしていた。

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よく、幽霊の足は生きている者には見えないと言われる。それは、死んでしまった彼らは、歩くことも、靴を履くこともできないからだと、俺は勝手に思っていた。

またそれは、死んでしまった人には個性がないということを意味していた。

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幽霊の存在が、まるで個性のない白装束にイメージされるのも、死んでしまった者は自ら個性を主張することができないからであった。

靴を履くことのできない彼らは、みな同じような姿でしか存在できないのだ。

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そんな彼らは、生きている者が彼らを慕い、思い出すことによってのみ、彼ら自身として存在できるように思えてならなかった。

そして、俺が本当に信じたいこととは。

それは、俺の手紙が本当に天国に届いていて、俺がAさんのことを忘れないことが、Aさんに伝わっているということであった。

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思えば、俺はこのポストとの出会いによって、さまざまなことを考えさせられた。

それは、このポストが、限りなく曖昧な存在であったからだった。

もしこれが普通のポストであったなら、たとえ公園にあったとしても、決してこれほどまでに固執することはなかっただろう。

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俺はこのポストについて、未だに何ひとつとしてはっきりとはわかっていなかった。そして、これからも、このポストは曖昧な存在でい続けるかもしれなかった。

しかし、俺はもう、答えばかりを求めようとは思わなかった。

答えを知らないということは、考え方を変えれば、どんな答えも、自分の好きなように信じることができるということなのだ。

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俺は、この信用できないポストによって、Aさんに俺の気持ちを伝えることができた。

そして、あの老人は、俺にそうさせるために、あの公園に現れた。

老人が姿を消したのも、さまざまなことを俺に気づかせるという、彼の目的を果たしたからなのだ。

それが、いまの俺の信じたいことであった。

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俺は今日までの思い悩んだ日々を、まるで箱の中の宝石のように、価値のあるものとして思い出していた。

そして、その日々を忘れない限り、俺はこれまでの自分を認め、これからの自分の人生を自分らしく歩んでいけるように思うことができた。

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ふと空を見上げると、覆いかぶさる木の枝の向こうで、晴れ渡った空に大きな虹が浮かんでいた。

その虹の2つの足は、どちらも地上近くでは朧げになっていた。

この世に生まれることで始まり、そして死ぬことによっていつかは終わってしまう自分の人生は、何を信じるかによって、何色にでも塗り替えられるのだ。

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虹を見た俺は、どこにでもいけるような開放的な気持ちで、ポストからゆっくりと遠ざかった。

はじめて、外の世界と自分の中の世界の空が、同じ空であるように思った。

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自宅のアパートに着く頃には、すっかり虹は消えていて、その虹を作り出した太陽は、まるで役割を終えたとばかりに、ゆっくりと眠りに着こうとしていた。

つまり、もう日は傾き始めていて、夕焼け空の下、俺は今日という一日を、随分と歩いて過ごしたことに気づいた。

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しかし、まったくと言っていいほど疲れを感じなかったのも、俺は自分の歩き方を知ることができたからなのだと思った。

俺は帰宅後の日課として、階段下の郵便受けを確認した。

ここ数日は、電気料金の明細書以外に何も届いていなかった。

そんなつまらない郵便受けに、もはや期待なんてしていなかった。

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しかしこの日は、普段は目にしないような一通の封筒が、閑散とした郵便受けの中に横たわっていた。

そして、その封筒の文字を見て、俺は思わずあっと声をあげてしまった。

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その封筒には、Aという宛名の下に、「様」の字が鏡文字になっていた。

それは、俺が以前投函したAさんに宛てた手紙で間違いなかった。

それを認識した時、俺の感情は、再び空っぽになった。

俺は呆気にとられてしばらく動けなかったが、やがて静かに笑みを浮かべた。

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なんだ、戻ってきたのか。

俺は自分で書いた手紙であるのにもかかわらず、まるで自分宛に届いたもののように思えて、愉快な気持ちになった。

手紙はAさんのもとに届いたのだというさっきまでの考えは、実際に手元に手紙がある以上、もう意味をなさないものに思った。

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俺は、手紙が戻ってきたことを素直に喜んでいたのだった。

それはあのポストを信用していた、以前の俺からの手紙であった。

そして以前の俺が、信用することの意味を真に受け止めることができたいまの自分を、手紙によって祝福しているように思えて、俺はなぜか感謝の気持ちでいっぱいになった。

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それと同時に、あのポストはやっぱり本物だったのだと考えると、さまざまな安堵が胸の奥から溢れた。

記載事項に不備のある郵便物が返還されるということは、あのポストが正式なものであることの証明であるように思えた。それも、ポストというものは信用によって成り立つものであり、投函物の行方をはっきりとさせてくれた例のポストもまた、信用できる正式なものであると確信できたからであった。

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そして、手紙が無事に戻ってきたことに加えて、あのポストが本物であることは、老人の無事をも示していた。

つまり、老人の死期が近いという俺の憶測は、ただの憶測に過ぎなかったのだと信じることができた。

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いま、ポストの真贋と手紙の行方という2つの問題は、一度に解消された。

そして、老人に対する不安も、俺はこれ以上抱かずに済むように思えた。

こんな嬉しい裏切りもあるのだと、俺は胸が躍るようであった。

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俺は手紙を手に取ると、それをひらひらとやりながら眺めた。

そうしている間、俺は口元が綻ばずにはいられなかった。

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俺はその手紙の、幼稚なまでの不完全さに笑っているのであった。

その心は、どこかこれまでの自分を超越できたかのような、優越感に浸されていた。こんな手紙を書いたかつての自分を、無意識的に蔑んでいることに、俺は気づいていなかった。

しかし、この手紙がどこにも届かずに戻ってくるのも、いま思えば当然のことであった。それくらいに、この手紙は不完全だった。

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俺は初めてあのポストを見たとき、その不完全さに興味を惹かれたことを思い出したが、いまの手紙に対する笑いも、それに似たようなものであった。

ただ、その手紙は他の誰でもなく自分で用意したものだということが、俺に言いようのない恥ずかしさを感じさせたのであった。

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何せ、この手紙には切手すら貼っていないし、ましてや宛名以外何も書いていないのだ。ふざけているにも程があるではないか。

俺が配達員だったら、怒るも通り越して呆れてしまうだろう。宛先の住所すら書いてないとは、どういうことだ。

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書かれていないのは、他にもあったな。書かれていないのは…

宛名以外に、何も?

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そこで、俺の愉快な気持ちは、水を打ったように鎮まった。

もちろん、口元の笑みはとうに消え失せていた。

俺の中には、さまざまな感情が押し寄せ渦を巻いた。

まだ空っぽの方がよかったと、満たされたもので胸を押し潰されそうな気持ちでそう思った。

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俺はもう一度、その手紙を観察した。

やはり何度見ても、そこには宛名以外には何も書かれていないのであった。

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俺は、老人と出会ったあの日の夜を思い起こした。

俺はあの時、老人の話に妙に浮き足立って、家に帰ると早速手紙をしたためた。

そして、宛名の一字を鏡文字にしたことに満足して、ほかの情報の一切を書かなかった。

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宛先であるAさんの住所は、天国に番地があるなんてわかるはずもないから、書けなくても無理はない。

しかし、俺は送り主の住所として、自分のアパートの住所すら書いていなかったのだ。

そうであるならば、どうやってこの手紙は、俺のもとに戻ってきたのだろうか?

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日が沈むか沈まないかという境目の時の夕焼け空は、ある意味日の沈みきった夜よりも、不気味な暗さを醸し出していた。

もっとも、階段下で佇んでいるいまの俺には、そんなことに気づく余裕などなかった。

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俺はふと郵便受けの方を見やると、開けっ放しの郵便受けの奥に、小さな箱のようなものが置いてあることに気づいた。

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俺はその箱を手に取ることを躊躇った。

あのポストは本物だというさっきまでの確信は音を立てて崩れ、すべてのことを信用してみるという決心も、根本から揺らぎつつあった。

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それでも、俺は恐る恐るその箱に手を伸ばした。

持ち上げてみると、ごろごろと軽い音がなった。

箱の中で、何かが転がったのだと思った。

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とりあえずは、危険なものではないみたいだ。

俺はそう判断して、ひと呼吸置くと、思い切って箱を開けてみた。

そこには、1本のボールペン以外に、何も入っていなかった。

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しかし。

そのボールペンに、俺は見覚えがあった。

それは、Aさんが愛用していたものと、まったく同じであった。

それを認識した瞬間、俺は胸を突かれたような気持ちであった。

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俺は、Aさんのボールペンを形見として欲しいと、手紙の中で書いたことを思い出した。

そのボールペンが送られてきたということは、少なくとも誰かが、この手紙を読んだということになる。

それも、Aさんのことをよく知る誰かが、だ。

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手に持っている封筒を見てみると、たしかに、誰かが封を開けた痕跡があった。

俺は言いようのない気持ち悪さを覚えた。

そして、すぐにでも警察に相談して、一刻も早く安心したい気持ちに駆られた。

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俺にはもう、信用だとか、そんなことを言っている余裕がないように思えた。

ただ目の前の不安を解消することに精一杯であった。

しかし、警察に相談したところで、その不安は拭えるどころか、かえって大きくなるように思われた。

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もはや得体の知れないといえるあのポストに、自分はわざわざ手紙を投函したなんて話を、そして、そんなポストに手紙を投函したら、住所を書いてないのに戻ってきたなんて話を、果たして警察が信用してくれるだろうか。

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俺はこれまで、自分が人を信用することばかり考えてきて、人に信用されることについてはほとんど無関心であることに気づいた。

そして、人を信用することよりも、人に信用されることの方が、よほど難しいものであることを理解して、俺は自分の置かれた困難な状況に思い悩み、ぐしゃぐしゃと頭を掻き乱した。

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アパートの外の空では、まるで時が止まったように暗い夕焼けが張り付いていた。

もうほとんど日は沈んでいたが、それでも完全には隠れておらず、まるで深い川の淵のように、同じ場所でその暗さの濃度を高めているようであった。

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アパートの廊下に灯ったランプが、俺の影を前方の郵便受けに投げかけていた。

それは壁にそって折り曲がり、影となったボサボサ頭は、天井付近で俺を見下ろしていた。

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ふと、俺は自分の影の形が、妙なものであることに気づいた。

平均的な成人男性よりもずっと細身であるはずの俺の影は、その胴体の部分を異様に膨らませていた。

それは郵便受けの凹凸が原因ではなかった。

それはまるで、後ろにもうひとり立っているような…。

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俺の体は、糸で吊られたように硬直していた。

手に持っているものはいまにも落ちそうな格好で、しかし俺の体と一緒に固まっていた。

背筋を冷たい汗が這うように流れるのがわかった。

それはまるで、背後から誰かに指でなぞられるような悪寒を与えた。

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俺は、自分の後ろに誰かが立っていることを、事実として認めなければならなかった。

そして、郵便受けに手紙とボールペンを入れたのは、自分の背後にいるその人で、そして、その人が誰であるかを、俺は直感的に理解した。

それは、以前にも背後に人に立たれたことを、現状に重ねて思い出していたからだった。

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その時、ようやくアパートの外が、不気味なほどの暗闇に包まれていることに気づいた。

それは、背後の何者かから逃げるために、アパートの外へと顔を向けたからであった。

しかし、俺の足は、その場から動こうとはしなかった。

俺は自分のそのような行動に、適当な理由を見つけることができなかった。

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絶対に逃げた方がいい状況なのに自分がこの場にとどまっていることに、それでも何かしら、自分でも説明できないような理由があるような気がした。

あの時は、恐怖とともに感じた好奇心が俺をその場に留めていたが、いまの俺には当てはまらないように思った。

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そして俺は、後ろを振り返る決心をした。それもまた、理由なんてわからないままでの決心であった。

さっきまで硬直していた体は、この時には弛緩していた。

俺はできるだけ笑顔を装い、背後の何者かと目を合わせるため、一気に体を翻した。

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そこには。

俺の直感が予想した通り、あの時の老人が立っていた。

俺は努めて明るく、彼に話しかけようかと考えていたが、彼の顔を見て、やっぱり逃げればよかったのだと後悔した。

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彼の口からは数本しかない歯がのぞいていた。

口元を確認しない限り彼が笑っていることがわからないのは、初めて会った時と同じであった。

俺は目の前の老人を見ながら、はじめてその理由に気づいた。

それは、彼の目が、決して笑ってはいないからであった。

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後に真剣な眼差しだと思っていたその目は、負の感情をたたえて淀みなく俺に向けられていた。

口元だけみると満面の笑みのように見えるから、いまの老人の顔は、怒っているのか笑っているのかわからないような表情をしていた。

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彼は、俺が急に振り向いたのにもかかわらず、瞬きひとつしないかわりに、ポケットに突っ込んでいた手を引き抜いた。

その手には、鋭利な果物ナイフが握られていた。

俺は、身構えるよりも先に、彼に攻撃を加えなければならないと思った。

しかし、俺の手元には凶器なんてなかった。

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唯一凶器となり得るものは、箱に入ったボールペンであった。

俺はそれを握りしめて、しかし箱から取り出すことはできなかった。

次の瞬間には、目の前の景色は傾いていた。

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俺は腹部を数カ所刺されたようで、右脇腹に熱い激痛を感じた。

俺の手からはボールペンの箱と封筒がこぼれて、崩れた膝と同時に床に落ちた。

俺はそのままうつ伏せに倒れると、吐血によって目の前を赤く染めた。

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小さな血の池の横に、老人の裸足の指が見えた。

彼は靴を履いていなかった。

公園で初めて会った時も、彼は裸足だったのか、俺は思い出せなかった。

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老人をボールペンで刺せなかったのが、老人の攻撃の方が早かったからなのか、Aさんのボールペンで人を傷つけることを躊躇ったからなのか、自分のことなのにわからなかった。

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しかし、俺はたとえ自分が傷ついても、Aさんの形見を汚すことを躊躇ったのだと、自分自身を信じることにした。

そして、俺の足が動こうとしなかったのも、逃げるべきだと思いつつ後ろを振り返ったのも、すべては俺が老人を信用していたからだと思った。

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俺はだんだんと辺りが自分の血に染まっていく中で、まるで走馬灯のように、彼との時間を思い出していた。

わずかではあったが、彼と過ごした時間は、俺にとってとても楽しいものであった。

その時間を、彼と交わした言葉のすべてを、最期まで信じていたかったのかもしれなかった。

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俺は、Aさんが生前大切にしていた、「信用」に準じて死ぬことを、誇りに思わなければならなかった。

そして、裏切りの苦痛を、リアルな肉体的苦痛と重ねて受け止めることができた俺は、Aさんと真の意味でわかり合えた気がした。

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俺の感情は、自分でも驚くほどに穏やかであった。

それは決して、自分をこのような目に合わせた老人を許しているという意味ではなかった。

しかし、最期くらいは、この世のすべてを信用したいという想いがあった。

俺はたとえ裏切られても、死ぬ時まで人を信用できたのだと、天国でAさんに報告したかった。

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…それでも。

どうして、老人は俺を殺さなければならなかったのか。

俺は自分の死を納得するためにも、その理由を求めた。

そのくらいは求めてもいいように思った。

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しかし、どのような理由なら、俺は殺されても納得するのだろうか。

殺されてもいい理由なんて、果たしてあるのだろうか。

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俺はいよいよ、自分の死が目前に迫っていることを察した。

事実を知ることが、必ずしも安心へとつながるとは限らない。知らない方がいいことも、この世にはたくさんあるのだ。

俺は終わりの見えない理由探しを、そんな理由をつけて諦めて、せめて老人の顔だけでも見てやろうと、懸命に頭を動かした。

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仮に、老人が俺を刺したことを後悔して、俺を見て泣いていたならば、俺の死も少しは浮かばれるような気がしたのであった。

しかし、そんな俺の努力も虚しく、老人は、俺が顔を上げるのを待っていたかのようにこちらを見ていた。

その目は、まるで三日月を倒したような形で、はじめて笑っていた。

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彼のナイフでない方の手には、いつのまにかペンキを塗るときに使うような、大きな刷毛が握られていた。

そして彼は。

俺の血溜まりにそれを浸すと、どこから持ってきたのか、ある程度の大きさの木の板を塗り始めた。

その手捌きは慣れたもので、木の板は次々にムラなく俺の血で塗り上げられていった。

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俺は、唖然としてその光景を見ていた。

その木の板の大きさには、既視感があった。

また、自分の周りに立ちこめる血の匂いは、すでにどこかで嗅いだことがあるような気がした。

そしてその二つは、ある一点で重なっていた。

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あのときのポスト。

Aさんの墓参りの後に立ち寄った、あのときのポストに、Aさんの存在を近くに感じたのは、ある意味で「本当」だったのだ。

俺はあのポストに、いまの自分の血と同じ匂いを嗅いだのであった。

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そしてそれを懐かしく思ったのは、アスファルトで擦りむいて滲んだ手のひらの血の匂いによって、童心を思い出したあの日があったからに思えた。

血の匂いは、無意識に懐かしい気持ちと結びつき、俺をどこか感傷的な気分にさせていた。

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そこでようやく、俺はこの老人こそがAさんを死に追いやった張本人であることを悟った。

そして、Aさんの死因は、手首からの大量出血によるものであった。しかし、Aさんは決して、自殺なんかで死んではいなかった。

Aさんは、この残虐な老人によって手首を刃物で切りつけられ、俺の出会ったあのポストをこしらえるために、その血をペンキがわりにされたのだ…。

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そこまで考えると俺は、猛烈な吐き気に襲われた。

しかし、喉から空気が漏れるように喘いで行われたのは、ただ吐血ばかりであった。

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彼は、新しいポストを用意するために、俺を殺したのだろうか。

なぜ、俺でなければならなかったのか。腹に走る痛みが、俺にこの死を納得させなかった。

Aさんの無念を自分のいまの激情と重ねて、目の前の老人を嬲り殺してやりたい衝動に駆られたが、俺の身体はすでに自由を失っていて動きそうになかった。

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やがて仕事を終えた彼は、苦しむ俺の目の前に何かをそっと置いた。

それは、一通の封筒であった。

そこには、Aさんの名前と、鏡文字になった「様」の字が、汚い字面で書かれていた。

俺は彼が咳をするのを聞いたが、それは笑い声であるのかもしれなかった。

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俺は目の前の手紙を見て、ようやく俺をこんな目に合わせる老人の目的を理解した。

彼がそのような手紙を書いたのも、Aさんのお気に入りのボールペンを知っていたのも、彼がAさんをよく知る人物であるからこそ、すべて理由のつくことであった。

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俺は他の同僚に比べて、随分とAさんに可愛がられていた。

そんな俺が、自分宛ての手紙を持って会いに来るのならば、Aさんはきっと喜ぶであろう。

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彼は、自分が死ぬ気なんて最初からなく、俺をこの世とあの世の「つなぎ目」にするつもりだったのだ。

そして、俺にボールペンを持たせたのは、Aさんに手紙の返事を書かせるためであるように思えてならなかった。

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もちろん、それは俺のこじつけに過ぎない。

自分が殺されるためのせめてもの理由を、俺自身がただ信じたいだけであった。

一方で、俺のこのような憶測が、決して事実ではないことも当然願っていた。そしてそのような葛藤は、より俺を苦しめた。

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しかし、何を信じようと、何に苦しもうと、俺がもうすぐ死ぬことには変わりないように思えた。

いまの俺はどんな顔をしているだろうか。それは、目の前の老人にしかわからないことであった。

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彼は言葉を発することはなく、ただ俺を見ていた。

やがて老人は俺を見飽きたのか、血染めの板をまとめて抱えると、アパートの廊下を外に向かって歩き出した。

せめて、Aさんを死なせてしまったことに、少しでも罪悪感を抱いているのなら…。

俺は彼の背中を、最後の救いを求めて、一縷の望みを託した眼差しで見た。

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しかし。

彼の足どりは、後悔や罪悪感なんて微塵も感じさせないような、堂々としたものであった。

それどころか、彼はまるで何ものにも縛られていないような、一種の解放感をまとっていた。

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何のしがらみからも解放された彼は、このうえなく自由にみえた。

人からの信用を一切に断ち切り、己のみを絶対的な世界とするその姿は、俺が密かに憧れていた姿と一瞬重なって見えた。

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老人の姿が見えなくなると、見るべきものがなくなった俺の世界は、焦点の合わないぼやけたものになった。

それは、俺の意識がだんだんと薄れているからなのかもしれなかった。

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俺はもう、すべてを諦めなければならなかった。

諦めるということは、いまの自分を、自分の置かれた環境ごと受け入れることであるように思った。

俺はいま、外の世界とはじめて重なり合おうとしているのかもしれなかった。

本当の自分と外の世界は、これまでは決して相入れることなんてなかったのに。

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思えば俺は、いつも何かを不満に思っていた。

たとえ生きがいに溢れ、信用できる仲間に囲まれても、自分のいまは真に望んだものではないのだと、どこかで疑っていた。

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それも全部、俺に明日があったからできたことであった。

しかし、その明日を絶たれたいまの自分は、自分の置かれた状況をはじめて自分のものとして、抗うことなく純粋に受け入れていた。

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そうすることしか、俺に残された道はなかった。

これまでの自分に、何ひとつ後悔することなんてなかったのだ。そう思うことだけが、俺に残された唯一の救いであった。

俺は、自分の危険を顧みずに人を信用することができた。自分のためではなく、人のために行動することだってできた。

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俺は何ひとつ、間違ってなんかいなかった。

たとえ、勝手に老人が善人であると決めつけたとしても。

老人の言葉やともに過ごした時間を信用したのも、全部自分の思い込みに過ぎなかったとしても。

それでも俺は、自分を誇りに思うべきなのだ。

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俺は自分がそのように考えるほど、もう一つの、相反した感情が湧きあがるのを感じていた。

俺を裏切った、老人の自由な背中が脳裏をよぎり、その背骨の髄にこの感情をぶつけてやりたかった。

俺は、最期くらい、すべてから解放されて、自分に正直になってもいいのではないかと、一瞬ではあるが思ってしまった。

そしてその一瞬の思考は、俺の本当の叫びとなって、外の世界へと飛び出した。

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「くそおおおおおおおっっ‼︎‼︎」

俺は最後の力を振り絞って、めいっぱいに叫んでいた。

それは、自分の矜恃も周りのしがらみも何も考えることなく、いまの自分のしたいようにした結果の叫びであった。

その時の俺は、このうえなく解放的であったのか?

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渇き切った最後の声を絞り終えた俺は、しかし決して解放的な気分なんかではなく、その胸のうちにはただ虚しさだけが募っていた。

そして俺は、自分が笑っていることに気づいた。

すでに俺の力は尽きていて、乾いた笑い声さえ出なかったが、俺の頬は満足げな笑いを浮かべていた。

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俺は、やっぱり間違っていなかったのだ。朦朧とする意識で、そう思った。

どこまでも不自由で、可哀想なのは。この世界の中で、誰からも助けられずにひとりで溺れているのは。

俺ではなく、あの老人の方だったのだ。

俺は自分の胸の内に広がる虚しさを、老人のものとして感じていた。

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そんな俺の笑いは、何かを乗り越えた者の笑いであった。

いまの俺の頬の引きつりは、決して死に対する恐怖によるものではないことを、俺は確信することができた。

そして、俺はもうすぐ、本当の意味で、この世界から解放されようとしていた。

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俺の声に気づいてか、目の前の扉が開くと、俺を発見したこのアパートの住人は、俺に負けないくらいの叫び声をあげた。

発見者の彼女は、俺が老人にして欲しかったような泣き顔になって、「いますぐ救急車呼びますね」と言って部屋の奥に戻っていった。

彼女はおそらくスマホを取りに戻ったのだろうが、俺は扉が閉まるのを見て、「死んでも信じてやるものか」と冗談まじりに思った。

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もうすっかり空は夜の暗黒に満たされているのに、遅れたカラスが、不思議なくらいに鳴きわめいていた。

老人の渇いた笑い声が、その中で一際大きく響いているのを遠くに聞いた気がした。

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あるいは、それは空耳なのかもしれなかった。しかし、いまの俺にはどうでもいいことであった。

俺の関心はただ、目の前の扉が再び開くかどうかに向けられていた。

遠くでサイレンの音が鳴っている気もしたが、それもまた、空耳のように思えた。

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老人は俺を信用しているからこそ殺したのだなと、彼の置いていった手紙を見ながら思った。

俺は彼の手紙に手を伸ばし、絶対に離さないように、強く握りしめた。

俺もまた、最期くらいは、信用されてやろうではないかと、そう思っての行動であった。

死者に残されるのは、もはや何かを信用することではなく、生きている人に信用されることだけなのだ。

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やがて何かの終わりを告げるように、廊下に灯っていたランプのひとつが突然に消えたとき、ようやく目の前の扉が開いた。

ランプが消えたせいで、アパートの廊下の暗がりは、外の暗黒の一部とつながって、この世界のものではないような鈍色の薄暗がりを生み出していた。

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その薄暗がりの中で、俺の体はひとり横たわっていた。

俺はその体とは別の、意識だけの存在になって、老人に刺されるまでの自分の影の位置まで浮遊して、それを見下ろしていた。

彼女は俺の横たわる体を見ても、もうさっきのように取り乱すことなく、片手に持ったスマホに向かって、俺が置かれた悲惨な状況を必死に伝えていた。

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いまの彼女は、あらゆるものを信用している。そのことにおそらく彼女は気づいていないだろう。

俺が助かることも、電話の相手が急いで駆けつけてくれるということも、彼女は疑うことなく思っている。

俺はそんな彼女を見て、信用することは、生きることそのものなのだと思った。

人は、この世に生まれ落ちた瞬間から、何かを信用して生きてきたのだ。

人や社会が自分に対して無害であることや、誰に対しても平等に訪れる明日の存在を、生きている間に心から疑ったことを、俺はあっただろうか。

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俺は、まるでAさんがいなくなってから彼の存在の偉大さに気づいたように、いままでの当たり前を失ってはじめて、信用することの本当の価値に気づけた気がした。

それだけで、俺の人生は、万々歳じゃないか。

俺は自分の人生の有終の美を、いつまでも信じていたかった。

そして。

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もうひとつ。

俺だけしか気づいていないことは、もうひとつあった。

それは、いまの俺の視点でしかわからないことであった。

俺は、手に握りしめた手紙を空に届けに行く前に、もう一度だけ、眼下の景色を見た。

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まるで赤いリボンの装飾のように、血溜まりは大きな蝶の形になって、俺の体の周りに広がっていた。

生きている彼女は、そのことに決して気づかないだろうと、俺は静かに、微笑んだ。

Concrete
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