私、小部博人(こべ・ひろと)は、石造りの橋の欄干に寄り掛かり、空を見上げている。
自宅近場の橋だが、途中で柄の悪い連中に絡まれたりするから、距離こそ無いが帰宅する道中は、憂鬱だった。
「────君、」
ギョっと私は身構える。
見ると、穏やかな感じの色白の少年が一人、そこに立っていた。
「………誰?あんた」
「一緒に帰るかい?」
赤の他人と帰るのは明らかにおかしいが、目の前に頼もしい事を言ってくれる人が居る、私は藁にもすがる思いで、彼に頷いて見る。
「やい、ヒロ!」
「無視すんなよモヤシ!」
ああ、奴等だ。巻いて逃げようとするのを喜ぶから忌々しい。しかも名士の家の癖に悪餓鬼だから、更に始末に負えない。
グイと、一緒に歩いて来てくれた色白の少年が柄の悪い一人の襟首を掴む。
「おい、応援団長を呼んでやろうか。僕はあの人達と知り合いなんだよ。乗り込まれたら、警察も関係無く暴れるよ」
「うっせ!うっせ!」
良く見ると、細身ながら少年はギリギリと襟首を締め上げていて、相手は顔面蒼白になっている。能面の様な無表情で、青筋さえ立てていた。
「離せ!離せ!ンの野郎っ!!」
「畜生っ!!ボケナスっ!!」
振りほどくと、バタバタと逃げて行く奴等。
肩で軽く息をする少年に、私は思い出した様に声を掛けた。
「………あ、有難う。助かったよ」
「いやいや。むしろ、久し振りに力を出したよ」
クルリと私の方を見た少年は、先程初めて逢った際の表情を取り戻している。
「只今ー」
何だかスッキリした私は、引き戸をガラガラと開けて、居るであろう身内に呼び掛ける。
「あー、御帰りー」
奥の扉が開いて、ヨイショヨイショとばかりに祖母が出て来る。
私の姿と、一緒に付いて来てくれた色白の少年を見比べて祖母は、頷きながら口元に笑みを浮かべる。
「あっ、じゃあ僕はこれで………」
ふと思い出した感じで、少年は挨拶し会釈して立ち去ろうとする。
キィー、ガッション!カォン!
自転車のブレーキ音とスタンドをセットし、ストッパーを掛ける音が順序良く響く。
「博人、御客さんかい」
配達に出掛けていた母が帰って来て、私の隣の見た事の無い訪問者に少し驚いている。
「ああ、眼鏡橋で」
「そしたら恩人じゃないか。時間作って今度おいで」
無愛想に言ったかと思うと、母は少年の前に立つ。そして彼に深々と御辞儀する。
「博人を助けてくれたんだろ。本当に有難う」
「あっ、僕は別に………」
「ほら、お前も改めて御礼言いな」
「あっ、どうも有難う」
「大丈夫だよ、大丈夫ですよ」とはにかみながら、少年は両手を前に出して慌てながら、見送られる。
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「ひろ坊、此処では見ない顔だね」
「うん」
夕食(ゆうげ)を囲みながら、祖母が私に訊ねる。
「眼鏡橋で初めて逢ったけど、良い奴そうだった」
「眼鏡橋?お前、そこでいつもボンヤリするんか」
母が怪訝(けげん)な顔で訊く。
「良いべ。どうであれ、友達になれりゃ良いなオイ」
「うん」
観測所から帰宅した親父が、いつも無言だったのに珍しく母をたしなめた為、母が眉を吊り上げる。
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私は、眼鏡橋で又ボンヤリしている。
いや、眼鏡橋なんだけど私の知っている眼鏡橋では無い………街並みが、何だか異国情緒溢れる場所で、学ランで無くカーキ色の服をまとっている。
ゴォォォォ………
雲が有りながら、晴れていて暑い。すぐにでも着ているこの珍妙な服を脱いで、シャツ一枚で走り回りたい気分だ。
「────君、」
「??」
同じくカーキ色の服をまとっている少年が私を呼びすぐさま私の腕を引っ張り、橋の下へと行こうとする。
「早く!B-29の音がする!」
「……まさか!」
青ざめた私は、彼と共に橋の下に逃げ込んでから、腕時計を見てしまう。
11:02。
ピカっ!!ゴォォォォ────────────っ!!
「うわっ!!」
閃光と共に、轟音と衝撃波が飛んで来て、私は無意識に少年の上に覆い被さる。
ガラガラガラガラ………
石造りの筈の橋も破壊され、覆い被さる形になった少年を半ば抱きかかえる格好で、私は目を開けようとする。
「駄目っ!!もう暫く目は開けないで!」
少年の強い呼び掛けに、私は強くつぶっていた瞼(まぶた)の力を弱めつつ、彼が又呼んでくれるのを願った。
「………駄目だ、これ以上つぶってても、これじゃあ」
落胆した彼の声がして、肩をトントンと叩かれる。
ゆっくりと目を見開いた私は、我が目を疑った。
暗い。そして火の海で、焼け焦げる臭気がムワっと襲って来る。
足元に、沢山の黒焦げの塊が有る………違う、動いている。
グブリ、グブリと変な音を立てたかと思うと、急に動かなくなる。
良く見ると、頭とおぼしき場所でグブリ、グブリと音がする。
────水を求めて、殺到した人々が眼鏡橋の掛かる場所に辿り着き、そこの水を飲んで満足して息絶えた事を悟り、私は喉元に込み上げて来るものを感じた。
「ひぃぃっ!!ひぃぃぃぃっ!!」
そこから立ち退こうとして、横に抱きかかえていた少年に声を掛けようとしたが………
グシャリと彼が、力無く崩れ落ちる。
「嘘だろ………覆い被さったのに、何で………何で」
腰の抜けてしまった私は、呆然と川に殺到しては力尽きる人々を見ているしか無かった。
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「ひろ坊!ひろ坊!」
呼ぶ声がする………ああ、祖母だ。
夜明け前後であるが、太陽が出ていないだけで随分明るく、下の居間の柱時計が4:00を知らせる。
「酷い寝汗だべ。着替えて、母ちゃん手伝えるか」
「ああ、そうだった。有難う、大丈夫」
夢だったか………然し、カーキ色の服を脱ぎ捨てた形のシャツ姿だったので、嫌な汗をかきながらも私は少しばかり安堵する。
早朝より起き出す母の手伝いをしつつ、親父の弁当の準備をしながら、朝食も作る。
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夏休みの部活帰り、絡まれたりする事も無くなったが、暑い中、眼鏡橋のたもとの川の流れを私は見ていた。
「やあ」
呼ばれた方向に振り向くと、同じく部活帰りを思わせる、あの少年の姿が有った。
「御蔭で絡まれたりしなくなって………どうも有難う」
「良いよ良いよ、大丈夫。放って置けなくてさ。連中、窃盗と恐喝がバレて、親御さんも面倒見切れないって、留置場に放り込まれたみたいだ」
詳しいな………と不思議に思いながらも、或る意味厄介払いの神様だと思って、私は尊敬の眼差しで彼を見る。
「名前を訊いてなかったね。私は小部博人。亀ヶ丘高校に通ってる」
「僕は、渡島幹助(わたりしま・みきすけ)。なが………じゃ無い、波沢高………校で。御免、編入したてで上手く言えない」
「波沢!進学校だ!」
地元ながら、隣町の亀ヶ丘高校に通う私からすれば波沢高校は家の近くながら、或る意味遠い場所でもある。漫画だと高校生での転校は簡単だけど、現実は手間の掛かる話だから、まだ編入の方が同じく手間は掛かるが、遥かに現実的に映る。
「だから、応援団に知り合いが居るって、説得力有る啖呵(たんか)を切ってくれたんだね」
「いや、知り合いって言うのはハッタリで………」
私は一瞬青ざめるも、柄の悪い連中が或る意味消された以上は、早々に問題無いだろうと踏んで、彼を家に呼ぶ事にした。
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晩飯を喰った際の彼の反応は、誠に不思議なものだった。
出されたもの全てを旨い旨いと喜び、祖母も母も上機嫌だったが、普段何を喰うのかと訊いたら、肉も魚も満足に喰えず、さつま芋や南瓜(カボチャ)が中心で、味噌汁に関しても、我が家の様な具沢山では無いと話す。
「そろそろ帰らないと」と言うので、腹一杯喰わせた彼におこわを渡して送り出して、家族で居間に集まる。
「明らかに………今の子じゃ無い。言っちゃ悪いけど、食生活が私等の世代じゃないか。博人、良く聴きな。悪い子じゃ無いし、むしろお前からすれば勿体無い位の友達に見える。でも、世間知らずって意味じゃ無い、ズレが見えるのよ」
「タイムスリップでもして来たっての?」
「うーん、母ちゃんはタイム何ちゃらは分かんないけどもさ。それはそうとお前、今朝夢でうなされたそうじゃないか。嫌だろうけど、今一度母ちゃん達に、中身を説明して貰えるか」
「帰ったよー、兄さんどうしたの」
弟が塾から帰宅し、家族で深刻そうな顔付きで話しているのを見て、首を突っ込もうとしている。弟含めて、私は今朝見た夢の話をする。
「兄貴だと、原爆に関する資料を無茶苦茶に読みふけるっしょ。だから夢に出るんじゃん。でも、高校を言い直すってのは編入でも………日が浅いのかね」
早々に或る意味での家族会議に飽きたらしく、高校進学の為の受験勉強と称して、弟は部屋に籠ってしまう。
「〝なが〟って言い掛けたって?その男の子は」
親父が、煙草を吸い終わり、灰皿にギュっと押し付けて火を消す。
「眼鏡橋は、もう一個、遥か遠くの土地にも在る」
「?」
「長崎だよ」
「!!」
「二箇所だけとは限らんが、代表的な眼鏡橋と言えば、こっちの土地と長崎の奴だな」
(………)
「よし、夏祭りも有るこった。その………渡島って子と一緒に楽しんで来な。俺もブラブラすっからよ」
どうやら、親父も観測所から休みを貰えるらしい。
「無駄遣いは止(よ)しなよ。祭りだから良いけど」
母が仏頂面をしつつ、臨時収入同然の小遣いを持たされる。
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射的で渡島少年は結構上手く当て、腰を下ろせる場所で焼きそばやたこ焼きを頬張りつつ、母や祖母の土産用にも購入する。
余韻に浸りながら、外灯が薄暗く照らす眼鏡橋を、私や渡島少年、遥か後ろを親父が付いて来る。
夜の黒い水面(みなも)を見ようと、欄干から首をヒョイと私は出そうとする。が、
「駄目だ!」
強い口調で、渡島少年に制される。
「どどど、どうしたのさ」
「シーっ」
ゆっくり見る様にとジェスチャーされ、親父もそれに従う。
「?!」
ズルリ、ズルリと私が夢で見た光景の黒い塊………今考えると、原爆に遭った人々の変わり果てた姿とおぼしき群れが、全く同じ動きで首元をグブリ、グブリと動かしては、グシャリと崩れ落ちる───が、私が見たのは沢山の折り重なりだったが、こちらは崩れ落ちては消える、崩れ落ちては消えると言ったまるでリピート映像の様相を呈していた。
「………何だありゃあ」
親父は汗を吹き出し、腰を抜かしている。
「これ以上は居ちゃ行けない。行こう」
再び………夢や最初の時と同じく、渡島少年に腕を引っ張られ────今回は親父も────私は眼鏡橋から退却し、街灯に照らされながら帰宅した。
「おこわ、御馳走様でした」
何事も無かったかの様に、母や祖母に礼を言う渡島少年と、「又おいで」と穏やかに返す彼女等。
21:30の半時の鐘を、柱時計が打つ。
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夏が過ぎたが、彼はいつの間にか姿を現さなくなった。待てど暮らせど、眼鏡橋に居ても、彼からの呼び掛けは無い。
驚く事に、観測所のつてで親父が渡島少年に関して調べたのだが、そもそも波沢高校に編入生が存在しておらず、一度も彼の自宅を訪れた事も無かったと気付かされる。下手をすると住所を訊いた所で、出鱈目な番地の可能性も有ったかも知れない。
だが、多くは彼の存在を覚えていて、女子だと遠巻きに見ていないで、猛アタックすれば良かったとうなだれるのも居た。
一個だけ、不思議と言うか有力な情報が得られて、旧制長崎中学………今で言う高校に渡島少年が在籍しており、あの1945(昭和20)年8月9日に正に眼鏡橋付近で被爆し、遺体さえ見付からない最期を辿ったと言うのが分かった。
爆弾さえ落ちなかったが同じく戦時下に置かれた東北の片隅の小さな町と、一発の爆弾で多くの人が焼き殺され、水を求めて死んで行った、九州の中でも大都市に位置する町………あの少年の魂が眼鏡橋を見付け、紡げなかった思い出を私と作ってくれた事は私の何よりの宝物となった。
有難う、渡島幹助君。そして安らかに。
作者芝阪雁茂
作品自体はフィクションでありますが、モデルになったのはほぼ父親の家族構成で、地元に眼鏡橋が存在します。
8/9の投稿に、間に合わなかったなァ………