*長文なうえに、怖いを目標にしていない話となっております。前作との抱き合わせで書いたもので、この数週間考えていたことをまとめただけのつまらない話(フィクション)です。
それでも、私なりに頑張って書いたので、本当に時間の許す方のみ、どうか読んでみてください。
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夏の空。蝉の声。坂道を下る車輪の音。
僕の足はペダルの上に乗っているだけなのに、景色は次々に後ろに過ぎていく。
変わっていく景色を見ながら、僕は過去の自分に後悔する。
どうして応募してしまったのだろう。そんな後ろ向きな考えがいまさら思い浮かぶ。
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自宅から自転車で20分もかからないところにある町立図書館が提案した企画として、図書館を一日中解放した読書会の存在を知ったのが3ヶ月前。
僕は本を読むのが好きだったし、図書館で寝泊まりできる機会なんてこの先そうないと思って、その読書会のことを聞いてすぐに、参加の応募を済ませていた。
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しかし、読書会という響きにつられて衝動的に応募の電話をかけたものの、実は自分があまりその企画に乗り気でないことに後から気づいた。
それならいっそのこと、今日という日を一日中家で過ごしてしまえればよかったけれど、一度応募してしまったものを反故にする勇気を、僕は持ち合わせていなかった。
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僕はこれまでに学校を休んだことはなかったし、部活も辞めるまではサボったことなんて一度もなかった。
そんな平凡な僕は、それでも特別な何かになりたいと思っていた。
でも、今の僕は、自分が何をやりたいのかさえわかっていなかった。
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まるで漕がなくても勝手に進んでいく自転車に乗っているみたいに、僕の人生は、青春は、過ぎ去っていくだけ。
坂道を下り終えると、そこからは田んぼの広がる一本道だった。
なんだか叫びたい気持ちになって、あー、と声を出してみる。
その声は、僕の耳には風がうるさくて小さくしか聞こえないが、周りにとっては恥ずかしいくらいに大きな声なのかもしれなかった。
実際に、田んぼの真ん中で汗をかいているお年寄りや犬の散歩をしていた小学生くらいの男の子が、こちらを見ているのに僕は気づいていた。
それでも、僕は構わず声を出し続けた。
周りの人なんて、僕にとっては、いてもいなくても変わらないくらいに、どうでもいい存在に思えたのだ。
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僕がこの読書会に乗り気でないのも、他人を訳もなく毛嫌いしているという僕の性格に起因していた。
読書会というからにはほかの参加者もいるようだが、まずそれが気に入らなかった。
僕はそもそも読書はひとりでするものだと思っていたし、自分がいうのもなんだけど、どうせ眼鏡をかけた陰気そうな人たちばかりが集まりそうで、僕もその一員と思われることに、思春期真っ盛りの青年としての抵抗があった。
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「読書という共通の趣味を通じて人のつながりを深める」ことがこの読書会の目的らしかったが、それも僕の意にそぐわなかった。
たしかに24時間本を読み続けることは不可能だろうし、参加者のほとんどが読書よりも、誰かと寝食を共にすることを楽しみにしているに違いなかった。
が、わざわざ図書館でお泊まり会みたいことをすることの意味がわからないと心の中で吐き捨て、参加者の全員を嫌厭していた。
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それだけでなく、僕の不満は、会場である図書館自体にも向けられていた。
そもそもこんな小さな町立図書館に、僕がおもしろいと思える本があるとも思っていなかったのだ。
僕は県1番の進学校に通うためにたくさん勉強をしてきたし、特に実用書の類はこれまでに山ほど読んできたから、いまさら貴重な夏休みの1日を割いてまで、読むべき本なんてないと思っていた。
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しかし。小さいと馬鹿にしていたその図書館で、「本物」と思える何かに巡り会えるとは。
そんな未来の出会いを当然知るはずもない僕は、ハンドルを握る手に力を込めて、訳もなく、何度もベルを鳴らしていた。
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ベルの音は蝉の声に混じって、甲高く透き通るような音色を入道雲の空に響かせた。
少年や老人の彼らはとっくに後ろに過ぎ去っていて、彼らにベルの音が聞こえているのかどうか、少し気になったが、わからなかった。
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僕には、その音がまったく聞こえていなかった。
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「お昼休憩の時間ですよー」
館員の女の人に肩を叩かれて、ようやく僕は顔を上げた。
図書館の壁にかかった時計を確認すると、正午を過ぎたことを示していた。
僕はさっき鳴っていたはずのお昼のチャイムに、自分がまったく気づかなかったことに驚いた。
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館員の女の人が僕を微笑ましそうに見ているのがなんだか恥ずかしくて、僕は小声でありがとうを言うと、行き道に買ってきたコンビニのおにぎりを頬張った。
彼女はいろんな人に声をかけているらしく、すぐにどこかに行ってしまった。
今日限りは館内での飲食が許されていて、それがなんだか背徳的で、悪いことをしているわけではないのに少しだけ後ろめたい気持ちになった。
そして、もっとしっかりした声で彼女にお礼を伝えるべきだったと、同じく後ろめたい気持ちで、反省した。
しかしすぐに僕の頭は、自分がチャイムに気づかないくらいに没頭していた本の内容を反芻していた。
チャイムの音に気づかなかったのも、自分の手によって開かれたその本から、目を離せないでいたためであった。
その本は小説であったが、そのことにもまた、驚きを隠せずにはいられなかった。
なぜなら、僕はそれまで小説というものを嫌うどころか、全然読んでもないのに、内心軽蔑さえしていたのだから。
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僕はこれまで、小説というものをまったく読んでこなかった。
そもそも本自体を読む習慣がついたのが、中学3年の受験期に入ってからだったし、読む本のほとんどが実用書や参考書の類で、自分から小説を手に取ることはまったくなかった。
小説を読むとしてもせいぜい教科書に載っていたり、模試の問題として与えられるものくらいで、いわば国語の一環としてしか触れてこなかった。
そのくせ僕は、小説を役に立たない、つまらないものだと決めつけていた。
どうせ誰かが自分の妄想を爆発させて、有る事無い事書き連ねただけの、自己満足の世界なのだとたかを括っていた。
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そして僕の非難の的は、小説そのものだけにとどまらなかった。
つまり、その作者に対しても、あまりいい印象をもっていなかった。
どうせ小説を書く人なんて、現実から目を背けている、つまらない人ばかりなのだと内心馬鹿にしていたのだ。
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そういうわけで、読書会の序盤はいかにも役に立ちそうな実用書ばかり読んでいたけれど、さすがに1日も時間があるのだから、ほかの本も読んでみたいと思うようになった。
そしてたまたま文庫本コーナーで手にとったその小説を読んでみると、気づけば僕は、目で追う文の一文字一文字が、まるで自分の実体験であるかのように脳内に映像として流れることに一種の快感のようなものを得ていた。
なによりも、その本の世界観は、それまでの自分のぬるい考えを一瞬で吹き飛ばすような破壊力があった。
小説なのだから、そこに書かれているのは嘘の世界なのだと思っていたのに、その本は紛れもなく、僕たちの生きる現実を映し出していた。
それも、現実よりも、もっとリアルに。
いや、小説というものは嘘であるがゆえに、かえって普通に生きているだけでは気づかないような、より現実味を帯びた世界を作り出しているようにも思えた。
そして現実で本を読む僕という主人公が、本の中で躍動する主人公と重なって、まるで自分がこの世界の主人公であるような、そんな不思議な感覚が僕を小説の虜にした。
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昼ご飯を済ませると、僕は準備していた実用書のすべてをもとの本棚にしまった。
そして、たっぷりと時間があるのをいいことに、図書館の隅っこの小さな文庫コーナーを陣取って、手当たり次第に小説を読み進めた。
しかし、いろんな小説を読んでみると、その中にもいくつかの種類があることを知った。
そして、僕が特に没頭したのは、ある作家の織りなす短編小説の数々であった。
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教科書でも見たことのある彼の文章は一見堅苦しくて、また内容は誰も救われないような陰鬱なものであったため、まるで人間味のないような印象を抱いていたが、しかしその細部には表現上の工夫と、作者自身の、人としての温かさのようなものが散りばめられているのを感じた。
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彼は随分と昔の人のようで、その世界観は全然いまの世の中とは違っていたけど、それでも物語の本質的な部分には、17歳の僕でも共感できるような核心をつく何かがあって、読んでいるだけでまるで世界を超えた、宇宙を俯瞰しているようなそんな幻想的な想像が、大袈裟だとわかっていても働かずにはいられなかった。
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彼はいわば、哲学者であり、数学者であり、宇宙飛行士であるのだと思った。
すべてが曖昧に思えるこの世界から、文字で何かを取り出すのが哲学で、数字で何かを取り出すのが数学だとしたら、彼のやっていることはそれらとあまり変わりのないように思えた。
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そして、文字だけで人を遠くまで連れて行ってくれる、この作者こそが本物の部類なのだと、小説(読者)歴数時間の僕は、生意気にもそう思っていた。
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他に彼の小説の特徴といえば、その書き出しから他とは違っていた。
もちろんほかの小説も、僕には想像もつかないほどの努力を積んだプロの作家たちの書いたものだから、つまらなかった、なんてことは決してなかった。
それでも、書き出しだけをみると、なんだか少し硬くてぎこちなかったり、いまから小説を読むぞ!ってこっちまで気合いを入れないといけないような、そんな書き出しが多く感じた。
その中で、彼の書き出しは、まるで知らない世界の扉を開けたのに、すでに懐かしさを感じさせるような、一種の親しみやすさがあった。
それでいて、その後に続く話の伏線が、実は序盤から巧妙に隠されたりしていて、僕は読み始めて数ページで、すでに一冊分読んだかのような、満足した気持ちに浸されていた。
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また、彼は文体にも相当なこだわりがあるように思えた。彼の文章は小説を読み慣れていない僕であってもとても読み進めやすく、それなのに、ぱっと見は漢字だらけの、いかにも読みにくそうな文章に見えることが不思議に思えた。
僕はどうしてなのだろうと意識して読んでみると、文章のその細部、文節から単語ひとつに至るまで、読む人のことを考えて作り込まれていることに気づいた。
それに気づくと、漢字の使用はかえって瞬間的に意味を伝える工夫のひとつなのだと思うことができた。
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その他の工夫といえば、たとえば、僕に限らず現代の人には分かりづらい時代背景も、すんなりと飲み込めるような説明的文体が特に物語の序盤で多く見られた。
それはまるで自分の作品が次世代まで読み続けられることを前提としているようで、作者の視野の広さが感じられた。
また、彼はその文体を、作品の内容によって変えているようにも思えた。
それも、その内容に最も適した文体を、彼は初めから知っているような自然な印象を受けた。
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なんとなくだけど、小説(家)には二つの種類があることを、他の人の小説も含めていろいろ読んでみる中で僕は発見した。
ひとつは、建築家タイプといえようか、次々に魅力的な材料を足していって、何もなかった空間にひとつの立体を作ってしまう小説家。
そしてもうひとつは、いわゆる彫刻家タイプで、一本の丸太を自分好みに削って、まるではじめからその形で存在していたかのような、完成度の高い像を彫り上げる小説家。
それらの違いを説明するのに、足し算と引き算の違いと言えばしっくりくるかもしれないが、とにかく、僕の惚れ込んだ彼は、間違いなく後者のタイプなのだと僕は思った。
そんな彼の小説では、句読点でさえ、彼の世界を表現するための重要な役割を果たす一文字であるように思ったが、それは僕の考えすぎだろうか。
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とにかく、僕は静かな図書館の端っこで、どこよりも大きくて、深い世界に身を浸していた。そしてその世界は、あるひとりの男のすべてであることに、感動を覚えるとともに、なぜかわからないけど、ほんの少しだけ、悔しいとも思った。
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それからの僕は、まるで取り憑かれたように、彼の作品を読み進めていた。
たっぷりあると思っていた時間は塵のように儚く消えていき、それと並行して僕の心もまた、まるで塵のようにばらばらになっていった。
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図書館の天井付近にある大きな窓からは、すっかり黒色に染まった空が見えた。
周りのみんなが夜ご飯を食べたり、仮眠をとったりしている中、僕は燃え尽きたボクサーのように、ひとりで打ちひしがれていた。
僕は、この読書会に参加する前に抱いていた、小説家に対する自分の偏見を思い出して、なんて浅はかな考え方だったのかと、身を悶える気持ちでいたのだった。
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この時には小説そのものよりも、それを書いた「書き手」の存在へと僕の興味は移っていた。
それも、決して彼が小説家として大成した後だけでなく、彼の誕生から逝去までの、彼の人生のすべてを知りたいと思っていた。
誰かを好きになった人が、相手のすべてを知りたいと思うのは、ある意味当然のことではないだろうか。
言ってしまえば、この時の僕は、たった数冊の"小説(という名のラブレター)"を受け取っただけで、すっかり彼に恋してしまったのである。
そして、あれだけ小さいとこき下ろしていた町の図書館には、僕の知りたいすべてが詰まっていた。
この時の僕は、彼の短編にとって代わって、彼の生涯について書かれた伝記的な書物へと目を移していた。
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そこに書かれた(もちろん、彼自身でなく他の人の手によってであるが)彼の人生は、彼の小説と変わらぬほどの魅力を湛えているように思った。
いや、小説なんて実は彼の人生から滴ったほんのわずかな水滴のひとつに過ぎず、僕は彼の小説を通して、大きな器に注がれている彼の人柄そのものに魅了されていたのだと気づいた。
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そこで僕は、自分の考え方が変わることは、相当なエネルギーを必要とすることを初めて知った。
それは、これまでの自分は、頑なに人の意見を聞いてこなかったことを意味していた。
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小説家というものは、決してつまらない人間では務まらないのだと、まるで尊敬する彼自身から言い聞かせられた気持ちになった。
そんな彼に比べていまの僕は、それこそ涙の出るほど、どうしようもなくつまらない人間であるように思えた。
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僕は、これまで何度も彼に認めてきた「本物」という言葉の、本当の意味を初めて知った気がした。
それは、「誰もが認める普遍的な価値を携えた人」のことであって、決して独りよがりな天才肌という意味なんかではなかった。
これまでの僕は、自分のことは自分さえ認めていればいいと考えて、周りの目から自分はどう見えているのかなんて、まるで気にしていなかった。
そんな僕は当然周りから孤立して、それでも他の何者にも交わらない自分は、どこか特別な存在なのだと信じていた。
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そんな僕は「本物」の彼の小説を、そして生涯を知って、自分はどうしようもなく未熟で、恥ずかしい存在だったのだと気づいた。
めちゃくちゃに壊された僕は、しかし初めて、少しだけ自分らしい形になれた気がした。
そして新しい(と思えるような)僕は、すでに自分がこれから小説を書いてみることを疑わなかった。
僕もまた彼のように、創造によって誰かの価値観を破壊できるような、そんな物書き(もちろん、小説家になりたいなんて言えなかった)になりたいと思った。
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なによりも、僕は人を魅了できるような、面白味のある人になりたかったのだ。
そして、面白い小説が書ける人こそ、自分の目指す面白い人なのだという、そんな単純な考え方に、なんの違和感も抱いていなかった。
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しかし、尊敬すべき彼にも、ひとつだけ同意しかねることがあった。
それは彼だけでなく、その世代の著名な小説家の多くに共通していることであったが、彼らはその生涯を自らの手によって、つまり、自殺で終えていたのだ。
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そしてそれを知った途端に、彼の晩年の作品群が、あくまで僕の意見に過ぎないけれど、なんだか「生きている」文章ではないように思えてしまった。
もちろん、さっきまではそれらの文章に、僕は変わらず感動していたはずであった。
ただ、彼が自殺したという情報を得た後で読み返してみると、信じられないことに同じ文章でも、まったく精彩を欠いたような印象を受けたのだ。
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それは、文章自体のエネルギーの欠如であるように思えたし、それを読む自分自身の士気の低下を表しているのかもしれなかった。
いずれにせよ、死に瀕した彼の文章は、どうも僕を喜ばせてはくれなかった。
それこそがこの作家の魅力なのだと言われれば、そうなのかもしれない。
でも、僕はまだまだ先の長い若者だったし、そうでなくても誰よりも生きたいと考えているくらいに精力的な部類ではあると思うから、死ぬくらいなら書かなければいいなんて、いかにもつまらない感想しか浮かんでこなかった。
そしてその考えはきっと、中年になった僕も同意してくれるだろうと、この時の僕は思っていた。
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僕は、自分が小説を書いてみることをいよいよ本格的に想像してみた。自分の内側のすべてを小説という形にして、それが認められた時の気持ちよさは、きっといまの自分の想像を絶するだろう。
これまでの僕は、小説なんて自分のことが大好きな、考え成すことすべてに自信を持っているような人が書くものだと思っていたが、もしかしたらいまの自分のような、頭の中がごちゃごちゃで常に疑問に潰されそうな、そんな弱々しい人間こそが書くものなのかもしれないと思った。
僕はこの時、すでに小説に対するある種の知見を得たように思われた。そしてそのすべてが、僕を何かに向かって動かそうと頭の中で蠢いていた。
つまり、小説というものは、自分の想像が外に晒されることで、生みの親である自分自身をも超えていく可能性を秘めているような気がした。
そして、小説に表された自分とその作者である自分、さらには小説とは切り離された私生活の自分の、どれが本当の自分かわからなくなった時、もしかしたら人は死の淵に立たされてしまうのだろうか。
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怖い、と素直に口に出していた。
僕はおそらく高校生が一度は思ったことのある「死にたい」という欲望に、はじめてリアルな恐怖を抱いたように感じた。
そして死にたいと思う自分こそ、絶対に死にたくないと思う一面の強い現れなのだと思った。
人には表と裏があり、そのどちらが本当の自分なのか、誰もがわからなくなってしまう時はあるだろう。
であれば、おそらくは現実と虚構を行き来しすぎた彼のような小説家は、自分の表がどちらなのか本当にわからなくなってしまって、そのことに絶望して死んでしまったのではないだろうか。
そんな彼を見て、たとえ自分の小説が人に認められても、それによって更に孤独を味わうことになるのなら、そんな欲望まみれの地獄に自分を晒す必要などないように思えた。
その地獄はおそらく、この本の向こう側に広がっている世界と同じであるようにも思えた。
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あるいは、小説という「嘘」に手を入れすぎて、彼は本当の地獄に落ちてしまったのではないだろうか。
彼のつく嘘は決して人を騙すようなものではなく、かえって現実味を帯びすぎて怖いくらいな、優しい嘘であった。
それでも、嘘は嘘であり、生涯において嘘をつき通した彼は、現世にいながらも地獄に誘われてしまったのかもしれない。
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いずれにせよ、僕が簡単に読み進めていた物語は、作者の震える手によって書かれていたのだと思った。
一方でその手は、世界の何かを抽出しようと必死に伸ばされた手であり、掴んでも掴んでも満足することのない手であった。
神経衰弱、薬物中毒、度重なる心中…。
彼に限らず、すべて自殺した小説家の生涯を語るにあたって伝記に登場した言葉である。
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僕は、静かに伝記を閉じた。
そして、書き手としてその世界に身を投げるくらいなら、一生「読み手」でいい、と思ってしまった。
人の書いた小説を通じて、その裏側にある現実ではない曖昧な世界を、垣間見るだけのちっぽけな傍観者で十分だと思った。
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人の書いた本に汗を握らされるだけの自分の手を、恥ずかしく思う気持ちもあった。
けれど、生きるために小説を書くのに、それによって死へと近づいてしまうことがなんだか馬鹿らしく思えたのだ。
そもそも、小説なんて書かなくても、面白味のある人になる方法なんて、他にもたくさんあるのだから。
僕は、死ぬためにではなく、生きるために何かをしたかった。でも、一度こんなにも幻惑な世界を知ってしまったからには、楽しく小説なんて書けない気がした。
書き続ければいつの日か僕にも、本の裏側にある世界に誘惑される日がくるのかもしれないが、その世界はきっと死に近い場所にあって、それならば、もう小説なんて書かない方がいいじゃないかと、ひとつも物語を書いたことのないくせに結論を出した。
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本棚に封じ込めた伝記的なそれは、彼の人生がいかに高尚なものであったかを説いていたが、僕にはもう全然その通りには思えなかった。
それどころか、晩年の彼は、まるでロボットのようだとさえ思ってしまった。
文章のぎこちない印象に加え、内容までもがいかにも作り物のように感じ、さっきまでの尊敬の念はどこへ行ったのか、彼の生涯を賭けた小説という存在にさえ、ある種の失望を感じずにはいられなかった。
それでも、彼が自殺を考えていない時の、本物の「書き手」としての彼の記述だけが、僕の心をいつまでも掴んで、決して離してはくれなかった。
何かを諦めたいという気持ちは、同時にそれを強く願う気持ちであることを僕は否定できずにいて、世の中はそんな答えのないことばかりなのだとか、今度は哲学の本でも読んでみようかと考えているうちに、気がつけば図書館の端っこで、まるで力尽きたように、僕は眠りに落ちていた。
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…肩を揺らされ目を覚ますと、昼休憩を教えてくれたあの時の館員が、微笑みながら僕を見ていた。
「一日中本を読むのも、疲れるでしょう?」
そう言って彼女は、また僕に微笑みかけた。
僕は寝ぼけていたのと、彼女の言葉に少しだけどきりとしたのとで、何も言えずに俯いた。
ちらりと見やった壁の時計は、午前9時を知らせていた。それは、この読書会の終わりの時間であった。
僕は、夜ご飯も食べずに朝まで爆睡してしまったのである。
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「急いで片付けます」
やっと口に出た言葉は僕の意思に反して震えていて、僕よりも10歳は年上であろう彼女は、なぜかくすくすと笑いながら、僕の頭を撫でた。
どうやら彼女は、僕が高校2年であることに気づいてないみたいだ。僕は平均よりも背が低いから、仕方はなかった。
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あるいは、気づいていてなお、そうしたのだろうか。そう思うと僕は途端に恥ずかしくなって、やりきれない気持ちで床に散らばった本をかき集めた。
しかし、
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「あれ?」
僕は無意識にそう呟いていた。
この時には、あの館員はもう別の場所にいっていたので、間抜けな独り言は聞かれずに済んだ。
そして心置きなく、僕は自分の抱いた疑問に向き合った。
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というのも、床に散らばっていた本のどれもが、これまでに読んだことのあるような、実用書の類であった。
僕はたしか、小説やその作者の伝記を読んでいたはずじゃなかったのか?
昨晩の出来事は、曖昧ではあるが記憶に残っていた。ただ、思い出される記憶の断片は、果たして自分の実体験なのか、小説で読んだ空想上の出来事なのかわからなかった。
だからこそ、まるでこの図書館での記憶のすべてが、夢のようにぼやけて思い起こされた。
僕は、もしかしたら小説なんて読んでいなかったのかもしれなかった。
それは、なによりも目の前に散らばった実用書が証明していた。
そして、具体的な小説や作者名を何一つとして挙げられないことに、いよいよ自分は頭がおかしくなってしまったのではないかと疑った。
それでいて、まるで影法師のように脳裏に浮かぶ憧れの人物像や、宇宙の果てまで飛ばされたような浮遊感・高揚感、またそこから帰ってこれないことを想像した時の死への恐怖などは、昨日たしかに僕の経験したものであるという確信も、拭うことができなかった。
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僕は閉館を知らせるチャイムに唆されて、急いで本を片付けると、1日ぶりに外の空気を吸った。
そこでようやく、この図書館での出来事は夢なのだと心から思うことができた。
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青い空に白い雲、夏らしい蝉の声。
そのような本物の現実の前には、空想なんて儚くて、ちっぽけなものでしかなかった。
そして僕の不思議な体験も、そんな空想のひとつに過ぎなかったのだ。
図書館からは僕の他にもぞろぞろと人が出てきて、僕を夢から覚ましてくれたあの女性は、みんなに向かって手を振っていた。
僕は、その光景すら、夢のように思えた。
それならば。
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僕が彼女に対して抱いている恋心も、きっと嘘だったんだ。
そう思う僕はなんだがやるせなくなって、彼女に対して早々に背中を向けてしまった。
僕は、たしかに、彼女のことが好きだった。
それも昨日今日の話ではなく、僕が高校生になるよりも、ずっと前から。
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しかし、その恋心は昨晩すでに他の誰かに対して抱いていたような感情である気がして、僕はなんだか自分が全然信じられなくなってしまった。
寝ている間に誰かに対して変なことをしていないだろうかとか、さっきの僕の返事はあれでよかったのだろうかとか、急に何もかもが不安になった。
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僕は彼女に手を振り返すことができないまま、胸の内に燻る未来的な気持ちだけを引きずって、図書館を後にした。
誰かを好きになるという気持ちは、とても未来的なものであることに僕は気づいた。
僕はおそらく、この図書館に来る前から、いや、読書会の知らせを受けるよりもずっと前から、彼女と会うのを楽しみにしていた。
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僕が高校受験のためといって、まったく受験に関係ない実用書を読み漁ったのも、図書館にいる彼女と会う口実が欲しかったから。
僕が読書会に応募したのも、彼女と一日中一緒に過ごせるかもしれないと思ったから。
僕が昨日早く家を出たのも、早く彼女の顔が見たかったから。
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僕は彼女と過ごす未来のために、この短い青春を生きてきた。
でも、その未来は、いつかは終わってしまう。
僕は何もしなければ、このまま彼女と離れ離れになってしまう。
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僕は、何をやりたいのかをわからなかったわけではなかった。
ただ、それをやり遂げる勇気がなかったのだ。
そして、僕は特別な何かになりたいわけでもなかった。
もし、彼女の隣に堂々といられる存在になれるなら、平凡でも、普通でも、なんでもよかった。
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自転車を漕いで帰る気にならなくて、僕は自転車を押しながら歩いていた。それは気持ちの問題ではなく、単にお腹が空いていたからであった。
僕は昨日の夜から、まったく何も口にしていなかったのだから。
足に力が入らない理由として、僕はそう自分に言い聞かせた。
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僕が彼女に想いを伝えられない理由も、ただひとつだけ。
自分は、誰よりも、つまらない人間なんだ。
本当は、ずっと前からわかっていた。
でもそれを認めたくなくて、楽しそうに笑える周りの人が羨ましくて、そう思うのが嫌で孤立して、気がつけば僕は、いつのまにか感情的になることをやめていた。
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何かに対して感情を昂らせることは、僕にとっては苦痛を生む効果しかなかった。
嫉妬も、羨望も、憤慨も、失望も、胸の内に生まれてしまう前に、何もなかったことにしてしまう方が楽だった。
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だから、僕は彼女の手に光る、彼女にぴったりの綺麗な指輪を見つけた時も、全然何も思わなかった。
思わなかった、つもりだったんだ。
僕は何年振りの涙を流していた。
どうして僕は、こんなにも感情的になっているのだろう。
でも、この涙は今に始まった事ではなかった。
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僕は、すでに夢の中で泣いていたのだ。
そんな僕を見て、彼女は優しく頭を撫でてくれた。
彼女も、本当は僕の気持ちに気づいていた。
でも、彼女には、僕なんか比べ物にならないくらいに、大好きな人がいる。
彼女のどうしようもない手は、温かくて、優しくて、だから僕はこんなにも泣いているんだ。
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自転車に乗っていなくて、正解だった。
こんな状態では、どこかにぶつかって、下手をすれば死んでしまうかもしれない。
いっそ、死んでしまった方が、ましか。
もし心からそう思うことができたら、どれだけ楽だろうか。
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結局僕は、死にたいなんて、少しも思うことができなかった。
だからたとえ彼女の恋人としては叶わなくても、僕は僕として、生きていかなればならない。
それでも、頑張って生きていれば、こんな僕にもいつかほかに好きな人ができて、それからもっともっと先の未来では、可愛い赤ちゃんだっているかもしれない。
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そして、僕が嫁さんと子どもを連れて、この図書館に来る未来もあるだろう。
その時には、あの文庫コーナーでの思い出も、年上の彼女への気持ちも、綺麗さっぱり忘れているだろう。
これまで感情を捨ててきた僕は、記憶すら、捨てようとすればできるのではないだろうか。
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ただ。もし記憶を捨てることができたとしても、
この数年間、僕は本当に、彼女のことだけが好きだった。
そう思う今の自分という存在は、絶対に、本物なんだ。
その事実は永遠であり、僕が忘れたところで、変わることはない。
だから、僕は心置きなく、彼女のことを忘れてもいいのだ。
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そして、こんなにも僕を感情的にさせた、小説なんてものには金輪際関わらないようにしよう。
僕はたしかに、昨日中ずっと小説を読んでいたんだ。
でなければ、彼女の指輪なんかに惑わされることなんてなかったのだ。
でも、きっと僕は、もともと彼女と結ばれる運命にはなかったのだ。
たとえ小説の中だとしても、僕は彼女とは結ばれなかっただろう。
なぜって、僕はつまらない男だからさ。
感情も記憶もなくしたいと思っている、こんな僕は主人公には相応しくないのだ。
僕は、これからも誰かの脇役として、生きていくのだ。
それが、僕が僕として、生きていくということなのだ。
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僕は涙を拭って、自転車に跨ると、これまで背負っていた何かを捨てて、猛スピードでペダルを回した。
その何かが追いついてこないように、空腹の体に鞭を打って、僕は必死に前へ進んだ。
そのスピード感は、ある種の充実感になって、僕は自分の決断のすべてが、これでよかったのだと思うことができた。
耳には風の音がなびいて、僕の胸の声をかき消した。
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でも、僕のではない何者かの声が、さっきから聞こえてくるような気がした。
目の前の入道雲の影が誰かの影法師に見えるから、僕の背後には、何かがいるのかもしれなかった。
もちろん、それは僕の空耳に違いなかった。
それでも、その声は僕を突き放すように、僕の声色で、はっきりとこう言ったのだ。
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「うそつけ」
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…その声はあまりにも鮮明で力強く、僕は思わずペダルの足を止めて立ち止まった。
そして思わず後ろを振り返った。
もう、その声は聞こえてこなかった。
もちろん、その声の主の姿は見当たらない。
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ただ僕の視界には、遠くに見える図書館からぞろぞろと出てきた人たちが、それぞれの家へと帰る平凡な光景があるだけだった。
しかし、僕にはその光景が、なんだか幻想的な、それこそ小説の中にいるような、特別なものに見えた。
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そして、本当になんだが知らないけど、その光景を見た瞬間に、僕はそれまでの考えを一転させて「小説を書きたい」なんてことを呟いていた。
小説を書きたいという仮初めの気持ちに、僕は理由を見つけることができなかった。
どうしようもない世界から目を背けて、空想上でやりたい放題にしたかったのかもしれないし、そんなつまらない世界の、すべてをそのままに受け入れたかったのかもしれなかった。
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ただ、さっきまで図書館で時間をともにした、本好きな彼らの存在、そして遠くの館内にいるであろう彼女の存在が、自分でもわからないような気持ちに僕をさせた。
何かに昂っているような、何かを諦めているような、そんな言葉にできない気持ちを、僕は僕なりに言葉にしたいと思った。
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僕は、自分の感情すらうまく表現できない、不器用なロボットだ。それでも、そんな僕でも、僕だけの何かを残してみたかった。
たとえ自分の器に見合った小さな世界の中だけでも、主人公として生きてみたかった。
そんな自分のどうしようもない部分を、それでも僕にとっては必要な部分なのだと受け入れてみたかった。
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それらすべての願望は、小説の中で初めて満たすことができる気がした。
でも、僕は決して現実を見捨てたわけではなかった。
ここにいる自分だけが、本物なのだ。
そしていつかこの気持ちが仮初めなんかでなくなった時、彼女の指輪の手のように、優しい嘘で誰かを慰める、そんな小説を書いてみたかった。
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僕は居ても立ってもいられなくなり、再び自転車に喝を入れ、行き道に下った坂を、今度は駆け上がった。
ペダルの足に力を入れるたびに、車輪は地面を噛むようにしながら、ゆっくりではあるが進んでいく。
空腹な僕はふらふらで、まわりから見たら目も当てられないほど不格好なのかもしれない。
それでも僕は、その立ち漕ぎを、決して止めようとは思わなかった。
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自分の力で進む道は、たとえ険しくても、流されるだけよりもずっと楽しかったから。
そして、物語を書くことも、きっとそれと同じなのだと思った。
やがて坂の向こうには、僕の住む街が広がっていた。
その街の風景もまた、この時の僕には特別に見えた。
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ふと、僕はこの読書会のことを、ひとことも親に伝えることなく参加したことを思い出した。
慌ててスマホを確認してみると、案の定、母からの通知が十数件溜まっていた。
そりゃそうだ。昨日の午前に図書館に行くと出ていったきり、帰ってこないのだから。
僕は母に電話をかけると、ワンコールもしないうちに怒鳴り声が聞こえた。
でも、母には申し訳ないけど、僕はいつもの怒鳴り声に心から安心してしまった。
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そして、僕という物語の生みの親が電話の奥にいるのだと思うと、僕はもう、自分のことをつまらないなんて、絶対に言ってはいけないような気がした。
町の図書館で読書会があったことを説明をして、いまの自分の居場所を伝えると、初めて母の声は落ち着いた。
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「それで、その読書会は楽しかったの?」
母は、優しい口調で僕にそう聞いた。
僕は明るい声で、「楽しかったよ」と答えた。
そのとき、胸の奥で、誰かが「うそつけ」と呟いていた。
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母は僕の言葉に、本当に嬉しそうに笑ってくれた。
だから僕は、自分が嘘をついたことに気づかなかった。
でも。きっと生きる気持ちが強すぎて死んでしまった小説家との出会いも、僕のことなんてどうでもいいからこそ僕の頭を撫でてくれた彼女との別れも、それらすべてを楽しんでいる自分が、いまの自分とは別の場所に、たしかにいたんだ。
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口に出した言葉も、胸の内に生まれた言葉も、そのどちらもが紛れもなく、僕自身の声だった。
それでいいのだと思った時、僕は初めて、この世界の主人公になれた気がした。
作者こわこわ
自分が物語を書き始めた理由を振り返ってみると、「面白味のある人」になりたいからでした。
でも、物語に没頭すればするほど、周りの人から離れて、ひとりで閉じこもって、自分はきっと、全然面白くない人に見えているのだろうと最近思い始めました。
何かを書くこともそうですけど、それ以上に、生きることって難しいですね。
自分にとって面白いと思う感情は「恐怖」で違いありませんが、私は「面白味のある人」の究極形態を「恋人のいる人」だと思ってるので、これからしばらくは、恋愛ものの怪談話(怪談系統の恋愛もの?)を中心に書いてみようかと思います。