「俺、昔は好き嫌いがひどくてさ」
大学の食堂で昼食を食べているとき、友人のAはそう言った。
「特に、ニンジンがまったくダメだったんだ。
どんな料理にして出されても食べられなくて、よく母親に怒られたもんさ。
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ところがある日を境に、俺はニンジンを食べられるようになったんだ。
それもあれだけ嫌いだったのに、まるで好物みたいに、おいしい、おいしいって。
母親の話によると、一時期は逆にニンジンばっかり食べてたんだってよ」
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まあ昔の話だけどね。
そう言って彼は、肉じゃがの皿からニンジンをぶすりと箸で刺して、口へ運ぶと、また話しはじめた。
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これは俺が、小学生も低学年くらいの時の話なんだけどよ。
ある日、母親に連れられてスーパーで買い物をしてたんだ。
俺には二つ下の妹がいて、そいつがどこに行ってもはしゃぐもんだから、母親は妹につきっきりだった。
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今思えばかわいいもんだが、当時の俺は母親を独り占めしてしまう妹に嫉妬していた。
そして、母親の気を引くために、俺は一人でお菓子売り場へ行った。
買い物カゴにこっそりとお菓子を入れて、いつまでバレないか遊ぼうと思っていたんだ。
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俺はあの頃から悪ガキだったというわけだ。
しかしお菓子売り場へ行ってみると、通路の真ん中にニンジンが一本、裸で落ちているのを見つけた。
俺はニンジンなんて見るのも嫌いだったから、見て見ぬふりをしてお菓子を選んでたんだが、その時ふと、誰かの視線を感じた。
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母親に見つかったのかと思って視線のする方に顔を向けると、見知らぬ女の人がこっちを見て立っていた。
でも、彼女は普通ではなかった。
頭にはウサギの耳のカチューシャをつけて、スクール水着みたいなのを着てたんだ。
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側から見ればそれはバニーガールそのもので、今の俺なら喜んだかもしれないが、当時の俺はゾッとした覚えがあった。
なんせ彼女は両足のかかとをつけて、直立不動でこっちを見ていた。
おまけに、その顔は不自然に口の端をあげて笑っていた。
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俺は怖くなり、持っていたお菓子を放り投げて、母親のところへ一目散に戻った。
そのあと、母親と妹と三人で店内を回って買い物をしていたんだが、それからはウサ耳の女を見ることはなかった。
あんな奇抜な格好でスーパーにいれば周りはざわざわしそうだが、そんな様子もなかったので、彼女は俺にしか見えていなかったのかと思った。
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ともかく、俺たちは無事に買い物を済ませて家に帰ったのだが、台所で買い物袋を整理している母親が、突然素っ頓狂な声を上げた。
「あれえ、私こんなにたくさん買ったっけ?」
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気になって俺が見に行くと、台所の床には、袋から溢れた大量のニンジンが転がっていた。
「こんなにあるなら、今晩はたっぷりとニンジンの入ったシチューにでもしようかな」
母親のそんな声に、いつもの俺なら「絶対に嫌だ」と文句を言っていたが、その時の俺は、固まったまま何も言えなかった。
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俺を見上げる母親の顔が、あのウサ耳女と同じ顔になって、不自然に口角を上げて、笑っていたから。
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「なにそれ、すげーこえーじゃん」
俺はしばらく箸を動かすのも忘れて、Aの話に聞き入っていた。
それで、結局その晩のご飯はどうなったの?
俺が聞くと、Aは冷めて固まったご飯を箸で混ぜながら、
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「母親の言う通り、ニンジンだらけのシチューが出てきたよ。もちろん、俺は文句を言わずに食べたさ。
でも、その日からなぜか俺のニンジン嫌いは直って、いまでは逆に好物にまでなったんだ」
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不思議だろ、とAは笑った。
そしてふと、彼の視線が自分のお膳に向いていることに気づいた。
「そういえばお前、いっつもカボチャの煮つけには手をつけないな」
「バレたか」
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Aの指摘通り、俺は大のカボチャ嫌いだった。
それでも俺のお膳にカボチャの煮つけがあるのは、俺がいつも食べている、安くて美味しいAプレートにはもれなくそれがついてくるからであった。
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一度、値段は一緒でいいからとカボチャの煮つけを断ったことがあったが、食堂のおばちゃんは「健康のために食べなさい」と俺の申し出を一蹴した。
学食で働くおばちゃん全員がまるで親みたいにお節介なのは、大学生協のいいところであり、厄介なところでもある。
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しかし結局、今に至るまで、俺はカボチャに手をつけることができずにいた。
「いつまでも好き嫌いしてたら、お前のところにもウサ耳が来るかもよ?」
「んなわけ…」
彼の冗談に笑いつつそう言いかけて、俺は固まってしまった。
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俺は、向かい合って座るAのすぐ背後に、奇妙な人影を見てしまったのだ。
それは、ハロウィンの仮装のように頭にカボチャの被り物をして、黒いマントを羽織って立っていた。
その立ち方は、彼が話していたのと同じ、かかとをぴったりとくっつけた真っ直ぐな立ち方だった。
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被り物の目の部分からは、中身の人間の、ニヤリと笑っている細い目が見えた。
それと目が合いそうで、俺は手前のAの顔に視線を落とすと、
Aの顔もまた、さっきの話のように、不自然に口角を上げて笑っていた。
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その日からカボチャの煮つけは、俺の大好物になった。
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