中編7
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怪談

最初に断っておきますが、今回の話は本編とあとがきの二部構成です。ですので、お忙しい方は本編だけお読み下さい。あとがきは作者の戯言ですので、とばしてもらって構いません。では本編を始めさせていただきます。

俺の友達にAってのがいるんだよ。お調子ものでさ。この前二人で肝試し行ったんだけど、立ち入り禁止って看板があんの。入ろうぜwって入ってAが暴れまわって、つんである石壊しちゃって。んで帰り道お化けみたいなのに追われてAは腕を骨折。近所に住むお化けに詳しい爺さんにお祈りしてもらって、無事に怖いこと起こらなくなったんだよね。あーよかったよかった。

本編は以上です。これよりあとがきに参ります。お読みいただきありがとうございました。

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あとがき

何だこの話は。ふざけているのか。この話を読んだ大半の人はそう思うでしょう。というか私もそう思います。サイトでこんな話を見つけたらコメント欄でぼこぼこに叩くんじゃないでしょうかね。それでもこんな話を本編にしたのはちゃんと訳がありまして。その説明をしていきたいと思います。

まず、この話はよくある現代怪談のテンプレートです。ネットを見れば、この様な話は山のようにあります。ですが、殆どの人が先の怪談に対してつまらなさを覚えるはずです。なぜでしょう。当たり前ですがこれだって立派な怪談です。主人公は怖い目にあってるのですからね。個人的に理由はいくつかあるのですが、順を追って解説しましょう。

まずひとつ目は怪異のきっかけを作るための「お調子者」等の設定です。これは話によっていくつかのパターンがありますが、怪談において「ルールを破る」という役割を担います。そのため、そも「ルールを破る」という設定が重要になる話では必ずこういったキーパーソンが必要となり、それはまともな人間にはできません。そのため、その設定がテンプレート化してしまうのでしょう。

そもそも「ルールを破る」という概念は太古の昔から、古典怪談、古典文学の話から存在しています。見るなと言われて顔をみたらのっぺらぼうだった、御札を剥がすなと言われて剥がしてしまった。等がそうですね。というか怪談ではありませんが鶴の恩返しとかまんまその典型例ですよ。これらの話では「ルールを破る」という行為がごく自然に行われています。そも、見えないもの、禁じられたものをみたいというのは人間の欲ですから、そこに下手に理由をつけて正当化する必要など無いはずなのです。

ここに「お調子者」などの設定をつけてしまうと、重複というかくどい、と感じてしまうのです。既にテンプレート化している分、余計に。さらに、そのキャラをうまく扱いこなせないとその時点でつまらなさが優先されてしまうのですね。大体そのキャラクターは動かしにくいものなのですが。

逆に、そのキャラクターを上手く扱うことが出来る、またはキャラクターそのものが魅力的な場合、多少物語が荒くても作品として面白くなるのです。個人的にそんなキャラクターが作れる人は天才だと思っています。そもそもキャラクターがテンプレートから外れているわけですから、魅力的に見えるのは当たり前です。

先程も書きましたが、「ルールを破る」という行為は自然に行われなくてはなりません。勿論それが物語の核となるため重要なのは百も承知なのですが、それを自然に見せるために「立ち入り禁止の場所に侵入した」り、暴れまわるなど常識から外れた行動をした時点で根本からズレているのです。

もう少し詳しく書くと、もし現実に存在する怪談を書く場合に、人は物語に何を求めるでしょうか。そもそも怪異とは「私達の身近な存在」なのです。ごく普通の一般人がいきなり恐怖体験に巻き込まれ死ぬ、或いは恐ろしい目に逢う。事に人は恐怖を覚えるのです。この辺はラヴクラフトに連なるクトゥルフ神話が傑作なのですが、最近はTRPGというものにとって変わられています。私はあれは怪談として楽しませていただいています。みなさんもよかったらぜひ。

そう、怪談というのは、非常識に見えて実際は人間の常識および真っ当な感性に基づき、そこに唯一の「ルールを破る」という僅かな非常識が加わり常識が崩壊するという構成になっているのですよ。つまり、そこに出てくる「お調子者」とか「廃墟に侵入する」、「墓を荒らす」などの非常識行為というのは邪魔でしかない訳ですね。勿論これは時代と背景によって変わります。その兼ね合いもお話の上で重要になってきます。

この話を応用すると後半の「怪異に詳しいおじいさん」という設定も邪魔でしかありませんよね。なぜなら私達の常識にそんな存在はいないのですから。こういうと「じゃあお前は現実に起こった事しか怖がらないのか!」という批判が来そうなので釘を刺しておきますと、非常識な世界を作る場合、怪異以外は常識的なものであるべきなのです。理由は先程と同じです。その点が、怪異の非常識感をより引き立てるのです。

勘違いしてほしくないのですが、私はこのテーマそのものを否定している訳ではありません。あくまでも作品のテンプレート化が嫌いなだけなのです。そも、太古の文献に収録されている怪談だって、類似した話は一杯あります。ですが、そういった話は1つ1つが輝いて見えました。学校で習った古文の知識を使い、分厚い古文書を訳しながら知らない物語を発掘する。こんなに面白いことはありません。

話がそれましたが、それは何故類似しているのに面白いのか、それは怪異のテンプレートは数あれど、作品のテンプレートという概念が当時は無いからだと推測します。当時は怪談は世間の立派な娯楽でありました故に、誰かを怖がらせよう、楽しませようという市民の知恵と技巧の結晶が作品の1つ1つに刻まれているのだと私は考えています。似たものであれど一人一人微妙なニュアンスが違う。だから古典文学は面白いのです。

話を書くにあたり、皆様は色んな作品を読むのでしょう。本当に物語が好きな人が書いた話、もしくはプロが書いた話は文の1つ1つ、もしくはテーマに必ずその人の個性が出るものです。ですが、世の中には自分の承認欲求を満たすために怪談を利用する人種が存在します。

近年、SNSの発展により承認欲求というものがどんどん問題視されています。「怪談はその時代を反映させる」という持論が私にはあるのですが、今回詳しくは説明しません。ですが、承認欲求にまみれた人間が頼るものがテンプレートです。そりゃあテンプレートが良ければ作品のウケはよくなりますもの。でも、それが大量に溢れた結果、全体の作品の質が落ち、ブームが下火になってゆくのです。これは怪談だけでなくどのジャンルでも問題になっています。

ですから、私が言いたいことは皆様自分の作品にオリジナリティを出して下さい。実話でも創作でも構いません。そしてオリジナリティに溢れた物語を作って下さい。別にテーマはテンプレートでも構わないのです。そこに自分なりの視点を入れる、考察を加える、発想を少し変えるだけで、オリジナリティは出すことが出来るのです。そして自分だけの物語を書いてください。間違っても、怪談を承認欲求に利用しないでください。

身内ノリ、という言葉があります。SNSの発展により、すぐ特定の集団を作ることが可能になりました。馴れ合いで作品を評価したり、その人が投稿したりするだけでいいねをつけるなどです。しかし、そんな事をしていては本当に素敵な素人が書いた作品は「コミュニティに属していない」という理由だけで埋もれてしまいます。身内ノリによってつまらなくなってしまった物をいくつも見てきました。そして、現在のオカルトブームの下火もそれが一枚噛んでいると私は睨んでいます。

最後にもう一つだけ。「人怖」、「意味怖」等と呼ばれる怪談があります。どちらも怪談として人気なジャンルです。ですが、これは本質的な心霊系統などの「怪異譚」とは全く異なる物と私は考えます。それは何故か

「怪異譚」の怖さはそれ即ち、「想像力」にあります。真っ暗な暗闇に閉じ込められた時、いや閉じ込められるなどしなくても瞳を閉じた時、真っ暗な暗闇に潜む物に怯える恐怖。これは想像力が無いと怖さを理解することができません。

一方で人怖などは非常にわかりやすい。何が怖いかを物理的に想像しやすいからです。意味怖も同じ。この系統の話が増え始めたに伴い、本来の怪談であるべく「怪異譚」はどんどん減少していき、作品のテンプレート化が進んでしまいました。この3つを同列に怪談と語る人間を、私はあまりよく思いません。

オカルトブームが下火になった。オカルトはオワコン、等と言われておりますが、それ即ち今を生きている人間の想像力が欠如している事の証明だと私は考えます。想像力というのは心の余裕です。現代を生きる私達はSNSや社会情勢に囚われ、余裕がなくなっているのでしょう。情報が溢れているこの世の中では、想像力が劣化するのも無理はありません。

ですが、この時代だからこそできる事があります。色んな時代の色んな人間が書いた物語を読むことがでに、それに着想を得て、自分だけの怪談を作る。一人一人がそれをすれば、怪談文化は終わらないと、私は信じています。私を楽しませてください。私も私だけの怪談で皆さんを楽しませますから。

ここまであとがきという戯言を読んでくださった皆様、ありがとうございました。私はただの怪談が好きな一般人です。えらそうな事を言ってすみません。かしこ

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