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中編5
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「革靴」

朝。身支度を済ませて玄関に立つ俺は、思わずため息をつきたくなった。

やっとの思いで手に入れた一戸建ての小さな玄関に、しなびれた革靴が揃えて置いてある。

「いてらっしゃい、あなた」

「ああ。いってくるよ」

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妻は、相変わらずよくやってくれている。自分には、もったいないくらいによくできた妻だ。

「お父さんいてらっしゃーい」

「うん、京香も気をつけてな」

娘の京香も、優しく真っ直ぐに育ってくれた。高校生になった今でもこうやって父親に話しかけてくれるなんて、同僚に話した時には心底羨ましがられたくらいだ。

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だから、俺さえ頑張れば、この家族は円満なのだ。

心の中でそう念じて、俺は用意された革靴を履いた。そして玄関を出て、駅へと向かって歩き出す。

その靴底は俺が一歩踏み出すたびに、今の落ち込んだ気持ちに似合わぬ軽快な音を立てた。

単調な一日が始まるにふさわしい、規則正しい、つまらない音だった。

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同じ靴を同じ順序でくたびれさせて、また同じ場所に戻すだけの日々。靴底をすり減らしてはじめて、俺という存在は認められているような気さえする。

俺の一日の始まりには、当然のように一足の革靴が置かれていた。

仕事にも、家族にも、これといった不満のない俺を、周りは幸せ者だと言うのかもしれない。

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しかし俺は、毎朝揃えて置かれている革靴を見ると、思わずため息をつきたくなるくらいに憂鬱になった。

この靴さえなければ、なんて、意味のないことを考えたことも、一度や二度ではない。

たまに道端に落ちている、酔っ払いが忘れたのであろう片方だけの革靴だったりを見ると、おそらく持ち主の彼はその靴を、元の場所に返したくなかったのだろうとつい想像してしまう。

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玄関に置かれている革靴は、朝方の温い布団とは真逆の、人を寄せつけない何かを放っているのだ。

俺はここ数十年、その何かに悩まされて、でも家族のためだと葛藤し、結局は規則正しい音を立てながら会社へと向かう日々を繰り返してきた。

しかしそれは俺だけではなく、父親の朝という朝は、みんな同じような風景なのではないだろうか。

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規則正しく列をなす駅のホームのサラリーマンを見ながら、俺はそのようなことをぼんやりと考えていた。

さっきまで歩いていたはずなのにいつのまにか駅にたどり着いていて、まったく習慣というのは怖いものだ。そんなことを考えたりもした。

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朝の通勤ラッシュとは言い難い適度な人の数がこの駅のいいところであり、憂鬱な俺にとっての救いでもあった。

革靴に加え、毎朝人混みに揉まれなければいけないとなると、それはもうたまったものではない。

出張の際に体験した山手線の満員電車を思い出して、俺は思わず肩をすくめた。

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そしてさっきよりも小さくなった俺は、ふと、自分の右手前のホームに、一足の靴が揃えて置かれているのに気づいた。

その靴はゆったりと履きやすいサンダルで、革靴やヒールばかりが闊歩する朝のホームには全然馴染んでいなかった。

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しかし、駅のホームに、揃えられた靴という組み合わせは、定番すぎるほどの想像を俺に促した。

まさか、と一瞬思ったが、すぐにその心配はないと自身を落ち着かせた。

いまのところ通常通り運行されている状況をみると、その"まさか"は起きていないことがわかった。

それでも、縁起の悪い目の前の光景に、俺はよりいっそう肩をすぼめた。

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周りを観察してみると、電車を待つ彼らはどうやら靴の存在に気づいていないようだった。

まさか俺にしか見えていないのか?

そう疑い始めた時、1人のサラリーマンがその靴の前にやってきた。

彼は丁寧に自分の靴を脱ぐと、なんとそのサンダルに足を入れはじめた。

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そしてすっぽりとサンダルに収まった彼の足は、何かを期待するように、そわそわと動いていた。

そんな彼を見て、周囲の人もいよいよざわつきはじめた。

俺もまた、彼の一足一挙動に夢中だったので、そこにいるおそらく誰一人として、次の電車が通過することを伝えるアナウンスを、まったく聞いていなかった。

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その存在に気づいたのは、まさにそれが目の前を通り過ぎようという時であった。

「なっ……」

同時に、そのサラリーマンが、躊躇なく線路に飛び込むのを俺は見た。

気づいた時には、何もかもが遅かった。

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電車は慌てて止まろうと急ブレーキをかけていたが、ただ耳をつんざく轟音だけがむなしく響いた。

その後、人々の阿鼻叫喚が四方から飛んできて、鈍くなった俺の頭を内側から叩いた。

しばらく俺は、ただ突っ立っていることしかできなかったが、やっと正気を取り戻して心に浮かんだ感想は、せめて人が少ない駅を選んでよかったというつまらないものだった。

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…それから先のことは、よく覚えていない。その場から離れていく人たちと入れ違いに、普段は見ることのない特別な格好をした人たちがホームに雪崩れ込んできた。

その駅は、はじめて人でごった返したように思われた。

その人混みの中で俺は、随分と長い時間、同じ場所に立っていた気がした。

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そんな俺の足元のホームには、彼が履いていた革靴が、ぽつんと置かれていた。

その靴は、その前に見たサンダルとは違って、俺以外の人にも確実に見えているはずであった。

しかし俺は、その靴が、彼が自分のために用意したものであるように思った。

それは朝、玄関で自分が見たのと同じ、つまらない日々に消耗した、くたびれた革靴だった。

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次は、お前の番だぞ。

まるでそう訴えているかのように、それは俺の目の前に、規則正しく揃えて置かれていたのだ。

だからなのか。

あれから数年経った今、俺が毎日履いているのは、その時の彼の靴であるような気がして仕方がなかった。

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先月娘が大学を卒業して、ようやく教育費がかからなくなった今となっても、俺は毎朝玄関に立って、揃えられた革靴と向かい合っていた。

以前と違っていることといえば、憚ることなく大きなため息をつくようになったことくらいだろう。

とりあえず俺は死んでいないから、この靴はやっぱり俺のものだよな。

ふと誰かにそう言いたくなったが、妻はもうとっくに、見送りにはこなくなっていた。

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