「最近、妙なことが起きるんだ」
営業部の伊藤は自販機の前で、経理部の私にそう言った。
私たちは同期で、部署は違えども入社時から業績を競い合ってきたライバルである一方、昼休みなどにばったり会った時はつい長話をしてしまうくらいに仲がよかった。
しかし、この日の伊藤は楽しく長話なんてできないくらいに、なんだか浮かない顔をしていた。
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「妙なことって何だよ」
私は缶のコーヒーをひと口含むと、ずり落ちた眼鏡を元に戻した。
神経質な自分とは違って伊藤はいつも天真爛漫で、だからこそ人当たりがよく営業マンとしても評価されている。
そんな彼のこれまでにないくらいの落ち込みように、私は表情には出さずとも内心心配だった。
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「お前に言っても分からないだろうけど、俺の家に、出るんだよ」
伊藤の言い方は妙に含みのあるもので、私は少しだけムッとした。だから、さっきまで抱いていたはずの心配する気持ちをなかったことにして、
「出るっていうのは、何が出るんだ?」
こう聞き返した。
「出るといったら、幽霊に決まってるだろ」
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そこで私は、以前、自分は幽霊のような非論理的なものは信じないと彼に言ったことを思い出した。伊藤はなにやら挑発的な笑みを浮かべて私を見ていた。
しかしその口の端はかすかに震えていて、もしかしたら自分が家に来てくれることを期待しているのかもしれないと思った。
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彼の家で起こるらしい怪現象がどれほどのものかわからないが、素直に助けてくれと言えない伊藤を、それでもなぜか助けたくなってしまう。それは彼が天性の営業マン、もとい人たらしたる所以であろうか。
私は再び眼鏡をずり上げて、
「たしかに俺は幽霊というものがよくわからないから、この際一度見てみようではないか」
そう言った。
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それを聞いた伊藤はあからさまに嬉しそうな顔をして、お礼と言わんばかりに缶コーヒーをもう一本買った。
「そういうことなら仕方ない。さっそく今晩、家に招待してあげるよ」
どうにも憎めない笑顔でそう言うと、私に向かって缶を放った。
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仕事が終わると私たちは会社の前で落ち合い、肩を並べて伊藤のアパートへと向かった。
その道中で私は、社会人一年目には毎週のようにどちらかの部屋に集まって、仕事の反省やら恋愛話で夜を明かしたことを思い出していた。
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今でこそお互いの部屋に行くことは少なくなったが、その後彼が引越しをしたという話は聞いていないため、"出る"らしいその部屋に行くのは今回が初めてではないはずだった。
コンビニで酒などを買い込んでいる伊藤に、彼の体験した怪現象とはどのようなものなのか尋ねてみるが、「それは来てからのお楽しみ」と全然楽しくなさそうな笑顔で返された。
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コンビニの明るい店内だからこそ、伊藤の目の下が青黒いことに気づいた。どうやら最近あまり眠れてないようだ。
実は私は、幽霊とやらを見るのを密かに心待ちにしていた。しかし伊藤の深刻そうな表情を見ると、遊び気分で見てはいけないような気もしてきた。
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それにしても、どうして伊藤は怪現象について教えてくれないのだろう。言葉では説明できないから?それとも、実はあまり大したことなくて、私にからかわれるのが嫌だからか。
あるいは、目のクマはただの寝不足、深刻な表情は彼の演技で、そもそもこれはドッキリなのかもしれない。
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昼間彼にこの話を言われてからというものの、私の想像は膨らむばかりであった。
たとえ本当の怪現象でもドッキリでも、その想像を超えられなければ私はきっと失望するだろう。彼はそれを案じているのかもしれない。
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しかし彼はコンビニを出ると、溜まった澱を吐き出すかのように、あっさりと教えてくれた。
「まあ、ひとことで言うなら『カーテンの隙間から覗く顔』かな」
実は彼も、それを言いたくてうずうずしていたのではないだろうか。そう思えるくらいに、告白した後の彼は晴れやかな、何かから解放されたような表情をしていた。
その顔を見て私は、少なくともドッキリの線はないことを悟った。
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「カーテンの隙間から覗く顔?」
「そう。時間は決まってないけど、外から幽霊の顔が部屋の中を覗いてくるんだ」
この時私はその情景を頭に思い浮かべるよりも前に、とっさに浮かんだ疑問を彼に投げかけていた。
「それって、本当に幽霊なのか?」
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彼はきょとんとした顔で私を見た。まるで自分が幽霊として見られているような気持ちで、私は続ける。
「人間と幽霊のどちらの方が怖いかなんて人それぞれだとは思うけど、幽霊じゃなくて見知らぬ人間が部屋を覗いているのだとしたら、警察に通報するなりそれなりの対処法はあるだろう。そして、その顔は本当に幽霊なのかどうか、お前はまだ確かめていないのだろう?」
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彼ははっとした表情をして、何度もうんうんとうなづいた。
「今日はそれを確かめるために、私を誘ったんだろう、違うかい?」
私もつい調子に乗ってそのようなことを言ってみる。彼は私の手をとって、力強く握りしめた。手に持っていたビニールのワサワサと擦れる音が、彼の声でかき消される。
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「なんか俺、お前となら大丈夫な気がしてきた!」
かわいい奴め。ちなみにこいつの顧客の大半は年上の女性様方らしいが、今ならそれも納得できる気がした。
彼女らはきっと、彼の懇願に母性本能をくすぐられたに違いない。
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一方で、人たらしの彼になぜ彼女がいないのかも、なんだかわかるような気がした。
彼の人柄は、明らかに彼氏ではなく息子向きなのだ。
ビニール袋を片手にスキップを始めた彼の後ろを、私はまるで親の気持ちになって、ゆっくりとした足取りでついていった。
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久しぶりに訪ねた伊藤の部屋は、以前と全然変わっていなかった。それは内装に加えて、雰囲気的な意味でもまるで変わっていないように感じた。
幽霊かどうかはわからないが、少なくとも不穏な現象が起こっている部屋には、何か不気味な雰囲気が漂っていると思っていたが、そうではなかったのだ。
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「なんかこうしてると、二人でよく集まってたあの頃を思い出しちゃうな」
伊藤は窓の方をちらちらと見ながらそう言った。その窓はカーテンがしっかりと閉じられていて、何かが覗くなんてことはなさそうな状態だった。
私は彼の不安を紛らわしたくて、昔話を頑張った。むろん気張らずとも、思い出はするすると言葉になって二人の間で共有された。
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そうして気づけば、取り止めもない話で大いに盛り上がり、コンビニで買ったビール缶はあっという間に空になっていた。
程よく酔った私はこの部屋に来た本来の目的を忘れかけていた。伊藤もまた、本当にここ数日ろくに寝られずにいたみたいで、今すぐにでも眠りそうに微睡んでいた。
しかし、突如として彼はぱっと目を見開き、とっさに窓の方に顔を向けた。私もまた、何か嫌な予感がして同時にそちらを振り返っていた。
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私たちの見ている前で、ひとりでにカーテンは動いた。そしてその隙間の窓外から、おそらく中年であろう男の白い顔が、窓枠に遮られながらも目鼻までくっきりと浮かび上がらせていた。
カーテンの隙間から覗く顔は、本当だったのだ。…しかし。
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最初聞いた時には深く考えていなかった。あの時はその顔が幽霊か人間かで頭がいっぱいで、まさかカーテンがちゃんと閉まっている時にもその顔を見ることになるなんて、想像もしていなかった。
私は恐ろしい事実に気づいてしまった。彼もまた、動揺する私の顔を見て気づいたようだった。
私が何か言おうとすると、彼はそれを察してか、まるで自分に言わせてくれというように手で制した。
私は大人しくそれに従う。
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「…もし、窓の外の顔が、幽霊ならば、」
そして一度間を置く。彼の喉はごくりと鳴って、静かな部屋で響いた。
「触れずにカーテンを開けるくらいのことはできてしまうのかもしれない」
彼の口調は自然と私に似てきているが、それを指摘できる空気ではなかった。
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「…でも、もし、窓の外の顔が、人間ならば、」
彼は、そこから何も喋らなくなってしまった。そして先程手で制したのとは逆に、目で私の話を促した。
自分勝手な奴だと思いつつも、私は口を開いて彼の続きを代弁した。
「…いったいカーテンは、誰が開けたんだろうな」
もう一人、部屋の中にいる見えない何かを想像して、私は思わず身を固くした。
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「どっちにしても、こえーじゃんかよ!」
まるで張り詰めた空気をずたずたに破るように、余裕のない鋭い声が飛んだ。
どうしてくれんだよ父さん。私はそう言われたような気になった。
彼は叫びたいがために、最後の台詞を私に言わせたように思った。
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「静かにしてくれ!私だって怖いんだ」
「お前のせいだろ!まだ単純な幽霊だと思ってた方がマシだったよ」
「私に向かってお前とはなんだ!」
「お前は昔からお前だろ。なんだよ、憑かれたのか⁈」
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私たちは、まるでこの場から逃れるように喋り続けた。お互いがノリなのか、本気で言っているのかさえわからなかった。
ただ、どちらももう冷静でなくなっていることだけは、確かである。
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「これはまさか夢じゃないよな。ぶってみるぞ!覚悟しろ」
「やめろよ!親父にもぶたれたことないのに」
そしていつしか私たちは、取っ組み合って床を転げ回っていた。隣の部屋から壁ドンをもらうと、ラップ音だと勘違いした伊藤が絶叫した。
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私はその声に驚いて思わず彼の頬を打ってしまった。彼は痛いと悶えた後、これが紛れもなく現実であることを知ってまた叫んだ。
幽霊か人間かわからない窓の外の顔は、そんな彼らを見て笑っていた。
後に引けない何かを目の前にした時の、困ったような笑顔だった。
作者退会会員
この路線の話が、書いてていちばん楽しい