長編22
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雷魔鬼村奇譚 1

ここは楽園かと問われれば、違うと答える。が、地獄なのかと聞かれても、やはり違うと答えると思う。

 長谷川義人(はせがわよしひと)は額の汗を拭うと、曲がった腰を伸ばしてしばしの間、秋晴れの太陽に目を細めた。足元には泥だらけの芋が山積みになっている。里芋だろうか。スーパーで見るものよりもずっと大ぶりで、表面もごわごわしているのは、野生種を栽培している為だろう。

「豊作だな」

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 若い男の声に振り返ると、今ではすっかり見慣れた『獣』の顔がそこにあった。獣臭さが鼻を突く。全くこの男は、草しか喰っていないくせに嫌に血生臭い。

「ウサ吉」

 長い耳に白い毛皮。義人を見つめる両目はビー玉のように赤い。

 ビー玉のように?

 いや、違う。目の部分に、本物のガラス球をはめ込んでいるに決まっている。

「義人。宇佐子を見なかったか?」

 赤い目が瞬きする。作り物のくせに、芸が細かい。

 ウサ吉は、その名の通り兎の着ぐるみを着ている。着ぐるみと言っても綿と布でできたちゃちなものではない。本物の動物の皮をはいで作ったもので、細身のウサ吉の体にぴったりと、第二の皮膚のようにはりついている。着ぐるみの上から洋服、それも小じゃれた赤いチョッキに細いリボンのネクタイを締め、足首周辺だけが細い幅広のズボンを穿いているものだから、何だか悪趣味な絵本から抜け出して来たような風体だ。

「宇佐子なら、水を汲みに行ったよ」

「そうか。ならば、迎えに行ってやろう。女性に一人で水を運ばせるのは、酷だろうからな」

この村の住民は、皆。獣の皮で着ぐるみを作り、常にそれを身に着けることで、神の力を得られると信じている。

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 戦時中の話である。ある日本兵が、山奥で敵兵の死骸を見つけた。頭は潰され腹は破られ、それは酷い有様だったと言う。

 臓物は、ほとんど残っていなかった。まるで獣に食い荒らされた

ようだったと、件の日本兵は語っている。

 死骸は、ひとつではなかった。

 場所は、東北の山である。

 山の神様が、お国の為に戦ってくれたのだろう。中にはそう言って涙を流す年寄りも居たが。

 死骸の発見者である日本兵は、うかない顔でこう呟いたと言う。

 あれは、決して、我々の味方になる者の仕業ではない。

 彼の言い分が正しかったかはわからないが、結果として日本は戦争に負けた。しかし、勝利したはずの敵国も、その口は重く。

 特に、山奥で変死した兵士たちのことについては、遺族の涙ながらの追及にすら、決して答えることが無かったと言う。

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 長谷川義人が長年勤めた会社から戦力外通告、いわば『クビ』を言い渡されたのは、弟が失踪して二か月近くも経った頃だった。

「わかるよね?」

 そりの合わない上司からの冷たい視線と、同僚たちからの憐れむような視線。わかりました、と、蚊の鳴くような声で答えた義人を、止める者はいなかった。

 三十半ばにしての無職……不況のおり、次の仕事など簡単に見つかるわけも無い。ようやくありついた日雇いの仕事は、きついばかりで雀の涙ほどの収入は家賃と生活費に消えて行った。

 安い給料を息抜きのパチンコと安酒で大半使い果たし、くたくたになった体を安アパートの汚れた畳に横たえながら、ふと思う。

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 弟に、会いに行ってみようか。

元々、弟は一緒に住んでいた。今よりも少しはましなアパートに、

兄弟二人きりで。

 弟の明人(あきひと)には、仕事が無かった。本人は小説家のつもりだったらしいが、出版社に持ち込む作品はことごとく突き返されていた。いい加減に仕事を探せ、と、当時は立派な会社員だった義人は、大威張りでそう怒鳴ったものである。

 だが明人はけろりとしたもので、次こそは『もの』になると言って兄に一冊のノートを差し出した。

「東北の山奥に、謎の集落があるらしい。村人全員が獣の皮を被って、それで神様の加護を得るんだってさ」

 明人は主に、怪奇小説を得意としていた。彼がどこかの飲み屋から仕入れて来たらしい情報によると、その集落というのはかなり特殊で、生きて辿り着いた者がいない。いや、勇んで出かけて行った者が、帰って来ないのだと言う。

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「警察も手を出せないんだ。いや、祟りとかじゃないらしいよ。何でも、あの有名な戦争で勝利した某国が、決して深入りするなと圧力を掛けているとか何とかで……」

 インターネットで検索しても、情報は何も出てこない。その集落のことを書くのは明人が最初の一人で、それならば絶対に一山当てられるはずだ、と、無邪気に笑っていた。

 馬鹿馬鹿しい。

 三十過ぎた弟の戯言を、義人は鼻で笑った。そんなことより早く仕事を探せ、と、いつもの説教をして床に入ったのだが。

 朝起きてみると、弟の姿が見えなかった。

 代わりに、弟がいつも使っていた机に書置きがあった。

 取材旅行に行って来る。今度こそ、世に認められる話を書いてみせる。

 弟のバイクと着替えと気に入りの本、そして義人が当時溜めていた五百円玉の貯金箱がふたつ、そっくり無くなっていた。携帯電話も通じなかった。その時は、何て勝手な弟だと憤慨したものだが。

 義人が安定していると思っていた立場は、ちっとも安定していなかった。これならば、夢だけを追っていた弟の方がまだ幸せだったのかもしれない。

 今なら、弟を許せる気がした。

 日雇いの仕事なんか、続けたって意味は無い。一週間かそこら、思い切って遠くへ行くのも良いかもしれない。

 今の収入では、中古で買った愛車だっていずれ手放す羽目になってしまうだろうし……。

 長谷川義人が軽自動車のハンドルを握って東北を目指したのは、こんな理由だったのである。

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 東北の町は静かだった。都会の形ばかりの喧騒に疲れていた義人にとって、他に客のいない定食屋や黄ばんだメニュー表さえ、自分の心を癒してくれるもののように感じられた。

「神ツ実村(かみつみむら)、というところに、行きたいのですが」

 特に旨くもない日替わり定食を掻き込んだ後で、義人はそう切り出した。給仕をしていた老婆が、驚いたように目を見開く。

「何を言っていらっしゃるんですか、お客さん。この辺に、そんな村はありませんよ」

 やけに大きな声だった。首を振る動作も芝居じみている。

大げさな態度が、却って村の存在を強調していた。

「ご存じなんですね?」

 義人が食い下がる。老婆は盆を取り落としそうな様子で、震えながら後ずさった。

「私の弟が、その村に行きました。そして、行方がわからなくなりました」

 同情を買う作戦だ。義人が呟くと、老婆は目元を拭いながら首を振って後ずさった。

「お願いします。どんなことでも、情報が欲しいんです」

 テーブルに両手を付いて、義人は頭を下げた。

老婆は観念したように溜息を吐くと、口の中で何事が唱えながら座敷に上がった。そして、座布団を踏み台にして神棚に手を伸ばすと、そこから小さな木の箱を取り出して義人の前に差し出した。

「なんまんだぶ、なんまんだぶ」

 近づいてみると、老婆がずっとそう唱え続けていたことがわかった。

 震える手で、老婆は箱の蓋を開けた。恐る恐る覗き込んだ義人は、拍子抜けしてしまった。

 中に収められていたのは、一塊の毛……動物のものと思われる、単なる毛束だったのである。

「お客さん、良く見てくださいな」

 義人の落胆を感じ取ったのか、老婆がじれったそうに言う。

「ただの動物の毛じゃ、ございません。ほら、人の毛が混じっているでしょう?」

 目をこらすと、確かに。汚れた白っぽい毛に、黒い艶やかなものが混じっている。

「これは、私のじっさまが見つけたんです。あの山には山神様がいるんです。あれは、人でも獣でもないんです」

 山神様。

 最近落胆することばかりだったが、珍しく気を惹かれたのがわかった。山岳信仰は田舎には良くあることだ。しかし、いかにも明人が好みそうな内容ではある。

 義人は老婆に礼を言うと、代金を置いて席を立った。

 あの山、と言いながら老婆が丁寧に指を指してくれたため、自分がどの方角に向かえば良いかはわかっていた。

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 山道は曲がりくねっていた。整備も何もされていない。季節は秋なので、見れば栗やクルミがそこかしこに転がっているのだが。

この辺の人間は決してこの山には近づかないのだろう、そう思わせる程に寂れている。

 その割に、立ち入らせまいとするロープやチェーンの類が何も無いのが不気味だった。見張っている者がいるわけでもない。

 山神の生贄。何も知らないよそ者を、生贄に……。

 明人の影響か、嫌な考えが湧き上がって頭を振る。

 これ以上は、車で行けそうも無い。そんなところまで来て、義人はようやくシートベルトを外した。縮こまった手足を伸ばし、多少警戒しながら外に出る。

 本当に、誰も来ていないみたいだ。

 そんなことを考えながら、湿った落ち葉の間に弟の足跡でも無いかと探す。道は酷く細い。獣道、と言うのだろうか、人ひとりがようやく通れる程の幅しか無い。

 明人がいなくなったのは二か月も前だ。義人は、自分の間抜けさ加減に苦笑して首を振った。足跡なんて、残っているわけが無い。

 この先は歩くしかない。車を置いて先に進むか、諦めるか。

 逡巡しながら、顔を上げたその時だった。

「……明人!」

 見覚えのある真っ赤なヤッケが……寒い時期に明人が必ず着ていた、明人が失踪した日に部屋から消えていたヤッケが、色づいた木々の間を素早く通り抜けて行くのが見えた。

「明人! 俺だ! 待ってくれ!」

 大声で叫んだ。自分からこんな声が出るのかと、驚いた程だった。しかし、ヤッケは義人の声を無視して、どんどん獣道を進んで行く。こちらの声が、聞こえないわけが無いのに。

 迷っている暇は無かった。義人は登山靴でもないスニーカーで地面を蹴ると、ヤッケを追って急な獣道を登り始めた。枯葉に覆われた土が、靴の底でずるずる滑る。腰を曲げて両手を差し出し、這うような姿勢で、義人はそれでも必死にヤッケを追った。

「明人、俺だよ……義人だよ……」

 普段の運動不足が祟って、息が切れる。義人が挫折しそうになると、ヤッケの赤い影は木々の間に意地悪く留まって、じっと待っている。まるで、明人がそこに居て義人を見下ろしているかのように。

「金のことなら……もう、良いから……」

 義人が進むと、ヤッケもひょいと逃げ始める。背中のフードをなびかせて。

 馬鹿にしやがって。

 義人は段々と腹が立ってきた。明人の野郎、説教ばかりしていた俺への仕返しのつもりか。

「いい加減にしろ! 明人!」

 力を込めて、次の一歩を踏み出したと思った、その時。

 ――え?――

 地面が、消えた。

 ずっと続いていると思った坂道は、鬱蒼とした木々に隠れるようにして、突然に途切れていて。

その先は、切り立った崖に変わっていた。

 ――……!――

 長い悲鳴が、山の中に響き渡る。木々の間に除く青空を、鳥の群れが飛んで行く。仰向けになって落下しながら、義人は。

 崖際に立つ木の枝に引っかかってなびいている、深紅のヤッケと。その影でこちらをあざ笑うように見下ろす、二対の目を見たように思った。

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 苦いような、焦げ臭いような、そんな奇妙な臭いで義人は起こされた。同時に、何とも言えない獣臭さが鼻を突く。

 ごりごり、ごりごり。

 何かを潰しているか、すりおろしているのか。

「ああ」

 義人が目を開けると、若い女がにこりと微笑んだ。

「気が付かれましたか」

 古びたすり鉢に青い草を放り込むと、女は柔らかそうな手ですりこぎを握って、ごりごりとすりおろした。

「熱さましの薬草です。まだ、動かないでくださいね」

 白い布切れに青い草の汁を塗り付け、義人の額にぺたりと張り付ける。

 視線だけを動かして、義人は辺りを伺った。布団が重い。板の間に寝かされているらしい。天井の梁は古びて、色が変わっている。部屋はひとつだけ。今時珍しい土間と、薪を燃やすための竈が見える。

 田舎の一軒家。

 都会ではテレビでしか見たことが無い。

「あの……ここは」

 思いのほか丁寧な言葉になってしまったのは、目の前に居る女が美しかったからなのか。本当に、都会の夜の店で大枚はたいてもお目に掛かれないような、健康的で快活そうな美女だった。

 日焼けした肌。腰まで長い艶のある黒髪。桃色のふっくらとした唇。華奢なばかりの都会の女と違い、しっかりとした骨格の上に肉付きの良い胸と尻がどっかり居座っている。

 安産型だな。

 まだ自分の状況が飲み込めないにも関わらず、義人はそんなことを思ってにんまりした。

「ここは神ツ実村です。私は村の女で、あなたは崖下に倒れているところを見つけられました」

 女が微笑む。

 何よりも義人の心を捕えたのは、女の目だった。大きい上に、黒い。黒目がち、という言葉では済まされないほどに黒い瞳が大きく、長い睫毛にぴったりと合う。年の頃は、十七、八だろうか。

「私は宇佐子、と申します」

 女の自己紹介に、義人は寝たまま愛想笑いした。

「ウサ子? 随分変わった名前だね」

 女は義人の顔を覗き込むようにして身をかがめると、もう一度にっこりと笑った。義人の位置からは、女の整った笑顔よりも、小さすぎるシャツのはだけた胸元しか見えなかった。

「はい。仲良しの、ウサ吉さんのお父さんが名付けてくださいました」

 ウサ子に、ウサ吉……。

 二人そろって妙な名前だ。いや、田舎には田舎の慣習があるのだろう。今は、そんなことはどうでも良い。それよりも……。

「その……宇佐子、さん」

 義人は咳ばらいをすると、宇佐子の黒い目を見返した。

 体のどこにも、痛みは無い。崖から落下したとは思えないくらいだ。だが。

宇佐子の魅力的な顔と、魅力的な胸元。視界に広がる桃源郷が、どうも少し……欠けている気がするのである。

宇佐子が顔を曇らせた。

「すみません。ウサ吉さんがあなたを見つけた時は、もう……」

 目を伏せたところも、また魅力的だ。

「……枯れた枝が、左目に深く突き刺さっていまして」

 義人は左目に手をやった。そして、どうにか叫びだすのを堪えた。

 左目を覆う包帯。その下は。

 眼球の丸みなど感じなかった。瞼の下には何も無かった。

「良いんだよ」

 義人は、掠れた声でどうにかそう言った。

「君のせいじゃない」

 安心させるように、作り笑いをしてみせる。

 包帯が取れた時、自分の顔はどうなっているのだろう。懸念しないわけではなかったが。はらはらと涙を零す宇佐子の美しい横顔を見るうちに、義人は無くなったのが両目でなくて良かったとまで思えるほどになっていた。

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 神ツ実村。宇佐子は、確かにそう言った。ならば、弟の明人が失踪したのはこの村、ということになる。

「はせがわ、あきひとさん? ……さあ、そんな方はちょっと……」

 宇佐子が困ったように首を傾げた。義人が寝かされている布団の側には、義人の荷物がそっくりそのまま置かれている。

 リュックにウエストポーチ、中に入っていた財布、本、メモ帳、軽食、水、懐中電灯、ナイフまで。

 携帯電話は落下の衝撃で壊れてしまっていたが、他のものは宇佐子が手入れしてくれたのか、汚れも大半落とされて丁寧に並べられていた。

 宇佐子が嘘を吐いているとは思えない。義人は考え込んでしまった。明人が義人と同じ目に合ったとしても。宇佐子はきっと、こんな風に介抱してくれたに違いない。そもそも、自分は明人を追いかけていて崖から落ちたのだ。弟は、取材の為にこの村に行くと言っていた。ならば、明人は実は神ツ実村の外に居て、この村を外側から監視しているのではないか……。

「弟さんは」

 宇佐子が口を開く。

「獣の皮を被った村人、と、おっしゃったんですね」

 そうだ。弟は、奇妙な慣習を持つ集落を探していた。

「それなら。この神ツ実村の近くにある、雷魔鬼村(らいまきむら)かもしれません」

 宇佐子の日焼けした顔に、ほっとしたような笑みが広がる。

「ウサ吉さんも、その村に居るんです」

 雷魔鬼村。

 全く聞いたことの無い名前だ。弟が探していたのは、確かに神ツ実村のはずなのだが。そして、神ツ実村の存在さえ、山の麓の人間は認めようとはしなかったのだが。

「宇佐子。旅人さんは、気が付いたかい?」

 建付けの悪い引き戸からひょいと顔を覗かせたのは、やけにどす黒い顔をした初老の男だった。秋の始めなので、確かに気温は冷たい。それはわかるのだが、セーターの上にどてらを羽織り、首には手ぬぐい、両手に軍手という徹底した装備は少々大げさに見える。

「お父さん。うん、大丈夫みたいよ」

 父親とは対照的に、宇佐子は軽装である。それにしても、似ていない親子だ。

「申し訳ありません。なにぶん、医者もいない寒村でして」

 宇佐子の父親が五分刈りの頭を掻く。

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「あの」

 義人が口を開いた。頭がはっきりしているのは幸いだ。

「電話を貸していただけませんか」

 その言葉に、父親はますますすまなそうな顔になる。

「本当にすみません。この村は、その……電話、というか、電気自体が通っていないのです」

 電気が無い? そんな馬鹿な。義人は思わず体を起こした。怪我らしい怪我は、左目だけだ。骨はどこも折れていない。

「ここは日本でしょう? いくら山奥って言ったって」

 言いかけて、口を噤む。麓の食堂には、確かにテレビがあった。ちらりと覗いた程度だが、厨房にはガスコンロもあった。

 しかし、この家は。土間には作り付けの竈、天井を見上げても電灯の類は取り付けられていない。

「私たちは、ずっとここで暮らしています」

 父親に肩を借りて、義人は家の外に出た。本当は一人で歩ける程度に回復はしていたのだが、宇佐子と父親があまりに心配するので、仕方なく好意に甘える形となった。

 一歩家の外に出た瞬間、義人は息を飲んだ。

 ここが、神ツ実村。

 いや、これは村というよりは。

 天狗の隠れ家、と言われた方がまだ納得できる。

 山の斜面の、少し崩れたくぼ地のようになっている部分に、小さな家が三件立っている。周囲は鬱蒼とした木々の生い茂る山々に囲まれ、村(?)の端は全て崖のようになっていた。迂闊に足を踏み出せば、真っ逆さまだ。今度こそ助からないかもしれない。義人は唾を飲み込んだ。

「ご覧の通り、畑はあります。鳥を飼っている家もあります。崖に囲まれているように見えるでしょうが、緩やかなところを通れば森の中に入れるので、山菜や果物も手に入ります。近くに滝つぼがありますから、水場にも困りません」

 父親が説明する。村全体の広さは、家三件と畑四つを悠々と収納してもまだ余る程度の余裕はあった。三つの家は全て庭付きで、歩いて回ってみると、確かに鳥小屋と鳥の餌箱らしきものも設置されている。

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 鳥小屋からととと、と走り出て来た青い生き物を見て、義人は目を見張った。

 雉だ。

 鶏じゃ、ないのか。

「君は、ずっとここに?」

 義人が宇佐子に話しかけると、彼女は笑って頷いた。

「私も、私の両親も。皆ずっと、ここで暮らしているんです」

 なる程。

そういうことか。気まずそうに義人の視線から顔を背けた父親を見て、義人はようやく合点が行った。

「失礼ですが、あなたの……」

「はい。私の父、宇佐子の祖父は、軍人でした」

 やはり、あの戦争か。義人は無言で頷いた。例の戦争の話なら、義人も自分の祖父母から嫌と言う程話を聞かされた。

「祖父は逃げたんです。仲間を捨てて、この山に逃げ込みました。そして、同じく逃げ延びた祖母と出会いました」

誰も好きで軍人になったわけではない。健康な男であれば、見境なしに徴兵された。そんな時代もあったのだ。そして、女も……望まない縁談から逃げて、逃げて、結局戻れなくなってしまう若い娘も、決していないわけではなかった、かもしれない。

「祖父母だけではありません。他にも何人か……」

 幸い、周囲は崖だ。この村が作られたくぼ地は、丁度山陰に隠れて麓からは全く見えない。そもそも、こんなところまでわざわざ探しに来る者もいないだろう。

「それで、何十年も……」

義人は唖然として、古い小さな家と小さな畑を見つめた。畑で育っているのは、芋だろうか。

「祖父母の代から畑を作り、家を建てて……もう元の場所には戻らず、自分たちで生きていく覚悟でした」

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 神ツ実村。やはり、正式に認められた存在ではなかったのだ。

 逃げた者同士が家族となり、子供が生まれた。当然、出生が認められない子供だ。村の外には出さず、学校にも行かせず、ひたすらに閉じ込めて生活させる。

「宇佐子さんは?」

「私が、隣村の女との間に作った娘です」

 父親が溜息を吐いた。宇佐子は無邪気に畑に生えた雑草を引っこ抜いたり、その辺の花を摘んでみたりして遊んでいる。

「母親はとっくに死んでしまいましたけどね」

 義人が顔を上げると、小さな家の影から人が覗いているのが見えた。よほど余所者が珍しいのだろう。いや、きっとここ何十年も、他所からの客人などいなかったのだ。

宇佐子の父親が大丈夫だと言うように頷くと、腰の曲がった小柄な影がいくつか、とことこ、ゆっくりと歩いて来た。

「これが、村の皆よ」

 宇佐子が嬉しそうに手を叩く。

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 胡散臭そうに義人を見上げる老婆。掛けた歯で愛想笑いをする老爺。何故か両手を合わせながら、ぶつぶつと呪文のようなものを唱える老婆……。

「これで全員なのか……」

 義人が呟く。宇佐子は不思議そうに首を傾げた。

 年寄りばかりだ。宇佐子の父親が一番若い。いや、宇佐子を除けば、本当に若い人間は一人もいない。

「君は……」

 がさり、と、背後の茂みが音を立てた。

 義人が慌てて振り返る。血の匂い。独特の獣臭さ。野生の動物だろうか。こんな山間なら、イノシシや熊が出ても不思議は無い。

 義人は思わず身構えた。無意識に宇佐子を庇うように前に出たのは、助けられたことに対する感謝、だけではなかったのかもしれない。

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「あっ、ウサ吉さん!」

 しかし、宇佐子は全く怯えることなくはしゃいだ声を上げると、義人を押しのけて嬉しそうに茂みに駆け寄った。義人も急いで後に続く。右目だけの視力なので少しよろめいたが、走るのに支障は無さそうだった。

それにしても、宇佐子は早い。早すぎる。自分の背丈の半分はあろうかという、鬱蒼とした草の海を悠々と駆けていく。若い上に山育ちなので当然なのだろうが、学生の頃の義人でもこれほど早く走れたかどうか。

「ウサ吉さん、帰っちゃったみたい」

 義人が息を切らして追いつくと、宇佐子は拗ねたように唇を尖らせて振り返った。

 茂みの前には、野生の栗やクルミ、それに山菜やアケビ等の果実が、大きな木の葉に包まれて置かれていた。

「もう、せっかちなんだから」

 宇佐子はそう言って頬を膨らませた。そのふくれっ面さえも、非常に可愛らしいものではあったのだが。

 義人は、茂みの中を『何か』が駆け抜けていくのを見た。背の高い草の間からにょっきりと突き出した二本の耳が、およそ人とは思えないスピードで遠ざかっていくのを、確かに見た。

 あれは、兎の耳だった。

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「えっ、ウサ吉さん? ウサギに決まってるじゃない」

 宇佐子はそう言って、何が面白いのかけたけたと笑った。

「ウサ吉さんはね、私の許嫁なの。いずれ、私と夫婦(めおと)になるのよ」

 神ツ実村の住民は、年々数を減らしている。今では、若い人間は宇佐子だけだ。老人たちは宇佐子を残して死ぬだろう。そうすれば、宇佐子は一人ぼっちになってしまう。

そうなる前に、隣の雷磨鬼村の若者と結婚する。

「お父さんもね、雷魔鬼村の女の人と結婚したの。まあ、私が生まれる時に、お母さんは死んじゃったんだけどね」

 なるほど。宇佐子は、忘れ形見ということか。

「お母さんね、言ってたんだって。これで血が繋がる、役目を果たせる、って」

 血が繋がる? 義人は何か不自然なものを感じたが、顔には出さずに頷いた。

 役目を果たせる?

 この小さな、村とも言えない村を存続させていくことに、どれだけの意味があると言うんだ?

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「お父さんはね、駄目だったの」

 宇佐子が、『ウサ吉』の持ってきたアケビの種をぷっと吐き出しながら言う。

「多分、相性が悪かった……っていうか、そんなにうまく行かないのが普通みたいなんだけど。本当は私にも兄さんや姉さんが居たはずで、でも皆小さい頃に死んじゃったって」

 生き延びたのは、宇佐子だけだということか。

 今の世の中に、そんなことがあり得るのか?

 義人は、息を飲んで宇佐子を見つめた。

 いや、ここは神ツ実村。地図にさえ載っていない、本来あるはずの無い村だ。時間が止まったようなこの村には、医者さえ居ない。

「良いのよ、私はうまく行ったんだから。でもお父さん、私が十五になるまで、気が気じゃなかったって言ってたわ」

 宇佐子がくすくす笑って、二つ目のアケビに手を伸ばす。

「義人さん、アケビの皮は捨てないでね。炒め物にすると、凄く美味しいんだから」

「ああ……」

 生返事をしながらも、義人の頭の中では二つの事柄がぐるぐる回っていた。

 弟の明人。あいつは何故、義人から逃げようとしたんだ? そして、あいつは今何処にいるんだ?

 ウサ吉。宇佐子の婚約者、らしいのは確かだが。草むらの中を遠ざかって行った時に見えた、あの獣の耳のようなものは。

「雷魔鬼村の人たちは」

 宇佐子が、黒目がちな目で真っすぐに義人を見つめた。義人はどきりとして、手にしたアケビを取り落としそうになった。

「ちょっと変わった風習を持っているの。見たら驚くかもしれないけれど、凄く良い人達なのよ」

 日焼けした肌の中で、そこだけが桃色の唇がにこりと笑う。

「行ってみる? 雷魔鬼村に」

 義人は、ほとんど無意識のうちに頷いた。

明人も、そこに居るのかもしれない。いや、そのことについては、さほど期待はしていない。

 宇佐子の隣に居たい。その為ならば、怪しげな村に自ら足を運んでみるのも、悪くはない選択のように思えた。

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 神ツ実村は、山の頂上付近の、切り立った崖の途中にある。丁度、階段の踊り場のような感じだ。何かの拍子で山が崩れた時、運よく崩れる途中で平らな部分ができたのだろう。そこが上手い具合に木の根や植物の蔓に囲まれて、それ以上は崩れずに安定したまま、長い年月が経過したようである。

 村を取り囲む崖は急で、登るのは不可能なように見える。

 しかし。

「良い? この辺の山ブドウの蔓をしっかり掴んで、少しずつ手繰るようにして登ってみて。若い葛の蔓は切れやすいから、掴まないように」

 宇佐子の父が言った通り、比較的なだらかな部分を選べば、村の外に出ることはできるようだ。

「そうそう、上手よ。そのまま、ゆっくり、ゆっくり」

 額に汗を浮かべ、できる限り下を見ないようにしながら、義人は山ブドウの命綱を握りしめて崖を登った。

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 宇佐子は、涼しい顔ですいすいと登っていく。時折手を止めては、義人が滑り落ちていないか気にかけていてくれているようだ。

 いくら、村育ちの娘とは言え。

 義人はぜいぜい息を切らしながら、スニーカーの下でずるずると滑る崖を見やって、両手に力を込めた。固い山ブドウの蔓で手のひらが擦り剝け、血が滲んでいる。

 こんな斜面、なだらかとは言ってもほとんど絶壁じゃないか。

 手が滑ったら命の危険すらあると言うのに、良くもまあ。

「大丈夫よ、怖がらなくったって。こないだ雷魔鬼村のおばさんが落っこちたけど、怪我ひとつしなかったんだから」

 そんな馬鹿な話があるか。

 どれだけの時間を掛けて、どれだけの高さを登ったのかはわからない。だが、やがて宇佐子はブドウの蔓から手を離すと、山の斜面の安定した部分に体を預けて、笑いながら義人を引っ張り上げてくれた。

ようやく、断崖絶壁は終わりを告げたらしい。

「ご苦労様。ここからは、すぐだから」

 だだっ広い田舎に住まう者の『すぐ』程あてにならない言葉も無いと思ったが、義人は黙って額の汗を拭った。

 絶壁とは言えないにしろ、十分に急な山道を五、六分も歩いた頃。

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「ここよ」

 急に、開けた……とはいえ、背の高い木々に囲まれた、真昼にも関わらず酷く薄暗い、光の差さない場所に義人は立っていた。

「ようこそ、雷魔鬼村へ」

 宇佐子はくすくすと笑って、やけに芝居がかった仕草でお辞儀して見せた。小さすぎるズボンに包まれた尻が、ぶるんと後方に突き出された。

「外の人を連れて来るの、随分久しぶりよ」

 村の入り口、なのだろうか。濃い色の丸い葉が茂った木の枝に、腐りかけた木切れの札が引っかけてある。

 『雷魔鬼村』

 何かを燃やした後の煤のようなもので、木切れにはそう書かれていた。

「ここが……雷魔鬼村……」

 木や葉が茂りすぎている為だろうか。村の中は洞穴のように暗くて、何も見えない。

 本当に住民がいるのか?

 こんなところで、人が暮らしていけるのか?

 義人の疑問を感じ取ったのだろうか。宇佐子は桃色の唇に指を二本咥えると、息を吸ってからぴゅうっと鋭く吹き鳴らした。

 短く二回、長く一回。

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「これが合図なの」

 宇佐子が義人を振り返ったのと、ほとんど同時だっただろう。

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 薄暗い村の中で、草木ががさごそと音を立てたかと思うと。がさがさがさ、と、まるで突風に煽られたような激しい音を立て。

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 葉や花を散らしながら、まるで亡霊のように四つの影が現れた。

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「客人か。我が婚約者、宇佐子の父君から聞いている」

 心地よいテノールの音階が、義人の鼓膜を震わせた。

「しかし宇佐子、言ってくれれば私から会いに行ったのに」

「だってウサ吉さん、いつもすぐに帰っちゃうじゃない」

日焼けした頬を僅かに赤らめながら、宇佐子が俯く。

「いや、済まない。秋になると、どうしても畑が忙しくなるものでな」

 義人が置いてけぼりになっていることに気付いたのだろう。ウサ吉は赤い瞳を優し気に細めると、義人に向って丁寧にお辞儀して見せた。

「雷魔鬼村へようこそ。大したおもてなしもできませんが」

 義人は何も答えられなかった。間抜けのようにぽかんと口を開いたまま、目の前にいる『男』を見ていることしかできなかった。

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「客人殿?」

 ウサ吉が不安そうに顔を上げる。透明な髭がぴくぴく動き、長い耳が頭上でぴょこんと跳ねる。

 ウサ吉……妙な名前だと思ったが、なるほど、この『男』には確かに似合いの名前のようだ。いや、むしろ、これ以上に相応しい名前などあるものか。

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 白い毛並みに覆われた、長い耳。真っ赤な目。差し出された指先にも真っ白な毛は生えそろい、先端には小さな爪が付いている。口元は、三ツ口、と言うのだろうか。犬や猫が当たり前にそうであるように、唇というものが存在しない。白い毛に塗れた切れ込みのような口からは、喋る度に真っすぐな前歯が見え隠れする。

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 ウサギ。

 ああ、悪夢とはこういった光景を意味するのだろうか。

 今、義人の目の前に居る『男』は。宇佐子の婚約者だと名乗り、当たり前に人の言葉を喋っているこいつは。

 二本足で歩く、ウサギだった。ペットショップ等で目にするウサギは、餌を欲しがる際に二本足で立つことがある。本当に、それが通常の状態になったような、白い毛皮の上に人間の衣服を纏ったウサギだった。

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身長百七十センチの義人よりも大分背は高いので、身の丈百八十センチは下らないウサギ、ということになる。

「客人? どうなされた、客人?」

「義人さん!」

 ウサ吉と宇佐子の呼ぶ声を聞きながら、義人は静かに気を失った。

 ウサ吉を含む四人の村人が、ざわざわと騒ぎながら義人の体を取り囲む。

 ウサギ。犬。猫。トカゲ。

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「あらやだ、良い男じゃなーい。あたしの家に運んどいてよ」

 しわがれたダミ声でそう言った村人が、にんまりと笑った猫の顔をしていることを。

 義人は、薄れていく意識の中で確認していた。

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