中編7
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染みのにおい

「ご馳走様」

「またどうぞ…」

店の入り口から聞こえた声で、我に返った。

時計の表示を見る。午後8時…あと10分程で閉店時間だ。

「失礼します。お客様、本日のオーダー終了ですが…」

すかさず、別の店員がテーブルにやって来る。

「ああ、大丈夫です!あの、お会計お願いします」

珈琲の残りを喉に流し込み、ポケットから金を出し、手渡した。

300円。相場で云うなら、高くも安くも無い値段だろう。だが、今の俺にとってこの金額は高いほうだった。

「ご来店ありがとうございました」

店員の声を背に、足早に店を出た。ここに入ったのが午後3時…ゆうに5時間近く、珈琲1杯で粘っていた事になる。

「さて、と…」

次なる場所に行かなければならない。

無職になったタイミングで課金制スマホゲームに没頭し、曜日も何も全く気に掛けないまま残高だけが減り、とうとうアパートの家賃を滞納した挙句、追い出されてしまった。

こんな時の為にと、くっついたり離れたりしていた女子数人に連絡を取るも相手にされず、それぞれの家に置いてあった服は、全て処分されてしまっていた。

「ごめん、私結婚するの。だからもう連絡してこないでね?」

1番仲が良かった子でさえ、この態度の変化だ。世知辛い。おまけに、スマホもどこかに無くしてしまった。

のんべんだらりとやり過ごしていけば、「普通の大人」になれると思っていたのに…今じゃ、汚れ切ったこの服とポケットに入れた金だけが、俺の全財産だ。

感傷に浸りつつ、その場で突っ立っていると…喫茶店のシャッターが下りていくのが見えた。

ガラガラガラガラ…

少しずつ、少しずつ閉じていく。

まるで、お前はここから先の素晴らしい世界には行けないよ、と言われているようでツラい。

どこで間違ったんだろう…

追い打ちをかけるように、今度は雨が足元を濡らし始めた。

「ヤバいヤバい…!」

駆け足で駅方面に向かう。電車に乗る訳では無い。駅前の近くにある漫画喫茶に向かうのだ。

古い雑居ビルの狭いエレベーターを上がって、右に曲がった廊下の突き当たり。

ベッドとシャワー付きで1泊500円。頼りないジジイが1人でやっている、住所不定者の掃き溜めだ。

ポケットから千円札を取り出し、いつも通り入口に向かう…が、何故か暗く、電光掲示板の音楽も聞こえてこない。

おかしい、ここは24時間営業の筈…なのに、人の気配も感じない。ドアは閉じられ、その真ん中に、1枚の張り紙が貼ってあるだけ…

「今まで御愛好ありがとうございます。10月7日を以って閉店致しました。」

日付は、今から1週間前。俺が直近で利用したのが、その前日だった。

嘘、ウソだろ?いつの間に!?まさか…あれが最後の利用日になるなんて。

「マジか…」

ショックで膝から崩れ落ちた。ここが最後の砦だったのに、それが打ち砕かれたのだ。

今更外に出てもずぶ濡れだし、他の場所は全部、危ない人間達が寝床にしていると聞く。

ここの客の1人が足を踏み込んだら、ボコボコにされた挙句、川に流された、という噂もあるのだ。

そんな勇気は無い。だとしても、とにかく他の場所を探すしかない。

この床をとりあえずの寝床にするか…もう1度、他の女を当たるか…

うだうだと考えを巡らすが、踏ん切りがつかない。

その間も、視界の端に店のドアが映り込み、下手くそな字で書かれた張り紙が、「残念でした(笑)」と、ほくそ笑んでいるように見えた。

ここさえ開けば…ここさえ。畜生、畜生、畜生!

「畜生!なんでなんだよっ!」

ふと気づくと、俺は近くにあったビールケースをドア目掛けて振りかざしていた。

勢いまかせにぶつけた衝撃で、プラスチックの粉や破片が自分に向かって飛び散り、思わず目を瞑る。と…次の瞬間。

ギギギィ…

衝撃音が消えると同時に、ヴ──ッ…という、空調の機械音に混じって、鈍い音が廊下に響く。

「え……?」

目を開けると…そこには、ぽっかりと隙間を開けたドアがあった。

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ビールケースを足で除け、隙間からそっと店内を覗く。

剥がれかかっている「閉店のお知らせ」をわざと床に落として、外の照明を頼りに中を見回した。

静かな空間。他に人の居る気配は無い。

壁に手を添えると、微かに電気タップの感触が伝わり、スイッチを切り替える────

パチパチッ、パチッ、パン、パン、パン…

花火のような音と共に明滅をしながら、店内が手前から奥へと明るくなり…いつもの店の風景が目の前に広がった。

「マジで…やった…!」

不法侵入だとは分かっていた。が…家無しの俺にとって、そんな事は重要じゃなかった。

トイレの蛇口をひねると、勢い良く水が流れ出る…そして、ふと顔を上げて鏡を見ると、なるほど…喫茶店の店員が、引き気味な反応だったのがよく分かった。

無精ヒゲで髪もベタベタ。汗と脂、その他諸々の臭いを放つ体…最後の利用日に入ったきり、体を洗っていなかった。

お湯は出ないが、季節的にまだ暑いから問題無い。シャワー室で水を浴び、着ていた服で体を拭く…そして、落ちていたシケモクに火をつけ、思い切り煙を吐き出した。

全裸のまま、ぼーっと店内を見渡すと、その雑然さに思わず笑いが込み上げる。

有って無いような仕切りの合間に、適当に配置されたパイプベッドや椅子…漫画喫茶と言うよりタコ部屋だ。埃やゴミがそこかしこに転がっていて、掃除をしてるのかも疑わしい。

その証拠に、ある箇所だけ、異常に臭いのだ。

一部の人間から「生ごみエリア」と呼ばれるくらい、そこだけ臭気の溜まり場となっていて…誰かが芳香剤を撒いても、消えるどころか、芳香剤の甘い香りと混ざって更にヤバくなる。

それに加えて皆が避けるから、限られたスペースに人が密集し、そのせいか小競り合いもよく起きていた。

「てめぇこらジジイ!なめてんじゃねーぞ!」

坊主頭のいかつい男は、その筆頭だった。

何かあればすぐ店長に突っかかり、腕を振り回しては、怖気づく様子をニヤニヤ眺めている…白のタンクトップ姿で、二の腕にバラの刺青をしていたから、密かに「薔薇パイセン」というあだ名で呼ばれいた。

俺も含め皆、店長が何かされていても見て見ぬふり…何故なら薔薇パイセンは、別の意味でくさかったのだ。

多分、チンピラ崩れか…本物の反社だったんだと思う。だが、そんなパイセンも、生ごみエリアにだけは近付かなかった。いつも、「くせぇなー」と言って他の人の席を横取りし、酒を飲んでいた。

そんな事を思い出しながら、ふと、空気に乗ってあの臭いが漂うのを感じる。

今自分の立っているシャワー室近くの席から、直線上の突き当り。天井部分がそこだけ低く、真四角に窪んだスペースになっている。

見ると、埃にまみれた芳香剤が数個、まだその場に残っていた。

内壁の殆どが、元の白い色から変色して鼠色になっているのに対し、そこだけが、黒や赤茶色のシミが重なるように付いていて…外から汚れが付いたというより、内側から染み出てきたような…そんな風に見えてしまう。

そう思った途端、背筋に嫌な寒気を感じた。

ダメダメ!変な事想像したら…だってこれから再び、お世話になるんだから…

俺はすっかり、味を占めた気分でいた。この際、居座れるだけ居座ろう。時間が経てば、きっと仕事も見つかる。

とりあえず、明日はコンビニで食料を調達して、それから…まあ、ダラダラすればいいか…

「あー…眠っ…」

寝床を見つけた安心感と心地良い眠気が混ざり、何とも言えない高揚感で一杯になる。と同時に、体の一部が悶々としている事に気づいた。

床には、退去時に取りこぼしたであろう雑誌が散らばっていて…よく見ると、成人向けらしきものも幾つかある。

「どれどれ…」

全裸の男が床の雑誌を漁っているさまは、怪しい以外の何物でも無い。しかし、欲望には逆らえない。そうやって今まで、色んな女子と楽しく過ごしてきたのだ。

四つん這いで少しずつ前に進みながら、何とか読めそうな物は無いか物色する。途中、積まれた雑誌の山を崩したその時…足元に紙の切れ端が落ちて、思わず手に取った。

そこには、殴り書きしたような文面で、赤黒い文字が書かれていた。

『生ごみエリアの噂は本当だった。あれが黒く見えたら、次は自分の番になる』

途端に、全身の血が引くのを感じた。

そう…すっかり忘れていた。

ここには、以前から変な噂があった事を。

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実際、生ごみ臭がする訳では無い。ふざけ半分でそう呼ばれていただけ。

そして…壁の色は、他と同じ、鼠色だった。

けど、今の俺には、それが真っ黒に見える。客の間で長らく噂されていた事…それが、現実に、目の前にある。

壁が黒く見えたら、次の人が来るまで、閉じ込められて出られなくなる。

あの悪臭は、そうして閉じ込められた人達の集合体なのだ…と。

死体がどんな臭いか、嗅いだ事は無い。だけど…鼻孔を刺激する「それ」は、確実だった。

気付いていなかっただけ。気配が無い…そりゃそうだ。

…その人は、とっくに事切れていたんだから。

入り口すぐの、いつも店長が腰かけていたスペース。そこに、手足を四方八方に曲げた男が、仰向けで地面に張り付いていたのを、俺はさっき、ここに入った時点で…既に見ていたのだ。

坊主頭で、タンクトップを着た男の姿を。

…ガチャン!

咄嗟に、音の方に顔を向ける。入口のドアの向こう…二の腕の、花の赤い色が、ガラス越しに映った。

それは少しずつ遠ざかり…やがてエレベーターのある場所に吸い込まれると、ガコン、という音と共に消えて行った。

ドアを押す。…だが、びくともしない。

押しても押しても押しても、ドアが再び開く事は無かった。

「…たすけて…出して…!」

誰かが来るまで、待たなければならない。その間は、一歩も出られない。

この体が、染みの一部となって、溶けて腐って消えるまで…

………

「なあ、駅前に廃墟があるだろ、古いビル」

「ああ、あるね…結構前からあるよな?10年くらい?」

「多分…でもあれ、取り壊すらしいよ?」

「そうなんだ、で、今度何作るんだろ」

「何もしないってさ…」

誰か、誰でもいいから、

ここに来てくれ…

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