長編11
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見えざる手

これは俺が大学時代に、留学先で体験した話だ。面白くはないかもしれないけど、つまらない話ではないよ。少なくとも夜風に耐えて聞くくらいには、価値があることは保証する。

さて、ちょうど一年前の今頃。俺はとある南の国で、地元の外国人に誘われてサーフィンをしていた。していた、といっても、実際にはサーフボードにへばりついて流されていただけだった。

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俺は昔から海が怖かったが、彼の陽気な誘いを断れなかった。第一英語が話せなかったこともあるが、たとえペラペラでもおそらく断れなかっただろう。

自分の意志をうまく伝えられない俺は、根っからの日本人だったというわけだ。俺は海が怖かったが、同じくらいに人の頼みを断ることも恐れていた。

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俺はなぜ海が怖いかというと、海に潜む巨大な何かを想像してしまうから。たとえば、ジンベイザメよりも大きな生き物がうじゃうじゃいるかもしれないし、それこそ海坊主なんかは本当に存在して、大きな手で船を沈めてしまうかもしれない。

そういう意味では山も同じだ。山麓の向こう側から舌を出した大男が顔なんて出したら、俺はたとえ固いコンクリートの地面だろうと穴を掘って隠れるだろう。

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でも、海の方が果てしない感じがする。海は空よりも、広くて深い。宇宙が無限だとしたら空は限りなく大きいけれど、地球が球である以上絶対に有限なのに、海の方がどこまでも続いているような気がしてしまう。何にしても、制限があるものの方がかえって無限大に感じるのは、俺だけだろうか。

…人生にしても、いつかは絶対に終わりがくるのに、どうしてこんなにも途方もなく感じてしまうんだろう。

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ああ、もちろん、俺の人生観なんて垂れ流すつもりはないよ。俺は留学、つまり海外には行ったけど、海外に行けば人生観が変わるなんて言う奴のことが大嫌いだった。

俺の話は、取るに足らない与太話に過ぎない。俺には人生とは何かは語れない。

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でも、俺は一度だけ、命の終わりを身近に感じたことがある。さっきなんでサーフィンの話をしたのか、それは決して、俺には絶望的にサーフィンの才能がなかったことを話したかったわけではない。

なんと言っても、サーフィン以前に俺は泳げなかった。そして案の定、俺は溺れたのだ。

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もちろん俺の留学の思い出はそれだけじゃないんだが、その前に、そもそもどうして留学することになったかを話そうか。

簡単に言うと、引きこもりの俺に見かねた親父が、俺を外に出そうと考えたから。

あの時の俺は、大学に行く意味がわからなかった。大学だけじゃない。自分も周りの環境も、何もかもが嫌になった。

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さっきも言ったように、俺は海外に行っただけで人生観が変わるなんて言う奴のことが大嫌いだったし、自分がそんな奴になってしまうことに抵抗があった。そのくせ、不満ばかりの自分を変えたいとも思っていた。

そんな時、部屋に閉じこもっていた俺に親父が提案したのが留学だった。俺は親父の提案を断れなかった。

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きっかけは、何でもよかった。もちろん、留学には金がかかるし、引きこもる前まで続けていたバイトで貯めた分を引いても、費用の半分くらいは親に立て替えてもらわないといけなかった。

それでも、どうにでもなれって気持ちで親に借金の約束をして、3ヶ月後には海外に飛ぶ決意をした。

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大学を休学して、高校で諦めた英語もなんとか文法だけは覚えた。

でも俺が一番に覚えるべきだったのは、誰かに助けを求めるフレーズなのだと、命の危険を感じて初めて思い知らされた。

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それはある夏のよく晴れた日だった。夏といっても12月だったが、南半球の国だから日本とは季節が真逆なんだ。

俺は外国人の友人に連れられて海に来ていた。海は俺の通う語学学校のすぐ目の前にあった。そして、俺が南の某国を留学先に選んだのも、この海があったからだ。

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…どうして海が怖いのに、留学先を決めた理由が海なのかって?

この時の俺は、とにかく大きくて広いものを求めていたんだ。なんて、本当は恥ずかしくて言いたくなかったんだが、どうか笑わずに聞いてくれ。

俺にとって、海は恐怖の対象であると同時に、憧れでもあった。

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俺は訳もわからずに塞ぎ込んで、小さな部屋の窓からくる日も来る日も空ばかり見ていた。そんな俺にとって、空は小さかった。毎日同じような景色しか見せてくれない空は退屈だった。

でも、海は違った。俺の部屋から海は見えなかったけど、想像の中で海は何よりも大きくて広かった。

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俺の想像の海では、虹色に光る熱帯魚が泳いでいた。嵐を起こすタツノオトシゴだっていた。難破しかけた船を救う、海坊主だって。

でも、もしかしたらそれらは本当にいるのかもしれないのだ。人類は海のすべてを知っているわけではない。海だって、俺たち人間にすべてを曝け出しているわけではない。

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そう思うと、俺はなぜか力が湧いてきた。生きる気力っていうか、少なくともこの部屋から出てみたいと思えた。

空だって、大きくて広いけど、俺にとっては現実的な大きさだった。海の、ワクワクするような大きさには敵わなかった。

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だから俺は海を、それも、今までに見たこともないような未知の海を見るために留学した。決して英語を習得することが目的ではなかったが、後悔はしていない。

そして、まあ、俺は目当ての海を、見ることができたというわけだ。

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笑わないでくれよ。いや、むしろ笑ってくれ。俺だってこんな話をした今、穴があったら入りたいし、この下が海なら恥ずかしくて飛び込んでるかもしれない。

…ともかく、俺は海を見て楽しむつもりだった。まさか泳げない俺が、サーフィンなんてする羽目になるとは思っていなかった。

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もっとも、実際に俺のやっていたのはサーフィンなんてものではなかった。俺はうまく波に乗れるはずもなく、早々に諦めると波の穏やかな浅瀬でボードに寝そべってぷかぷかと浮かんでいた。

それだけでも十分楽しかったし、自分は今、綺麗な南の海に身を委ねていると考えると不思議な気分になった。なんだか色々とバカらしくなって、いい意味で投げやりになれた。

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俺の想像した生き物はいなかったけど、胸の内のモヤモヤも、嘘に思えた。

海は、やっぱり広かったのだ。でもそれ以上に、俺というものはどうしようもなく小さいことに気づいた。地平線を見ながらそんなことを考えていると、俺はいつのまにか遠いところまで来ていた。

精神的にではない。物理的に、だ。

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つまり俺は、流されていたのだ。

波には岸に打ち寄せる波と、沖へ戻ろうとする波がある。後者は俗にいう離岸流というやつだが、俺は知らぬ間にそれに流されていた。

慌てて岸の方を見ると、50メートルほど離れていた。周りには大きな波を求めるサーファーが何人かいたが、俺は彼らと違って波を恐れていた。おまけに泳げない。

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そして、俺は溺れた。浅瀬で浮かんでいた時には考えられないような大きな波が、俺をボードごとひっくり返した。

幸い、ボードと俺の右足はロープでつながっていたから、俺はロープをたどって死に物狂いに、ぶっ飛ばされたボードへと手を伸ばした。もちろん足は底につかないから、俺はボードにつかまっていないと息ができなかった。やっとの思いで海面へと顔を出した時、第二の波が俺に覆い被さった。

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俺はそれからしばらくは波に揉まれていた。ベテランサーファーにとっては待ちに待った大波は、俺にとっては命を削り取る恐怖以外の何でもなかった。

俺は周りの彼らに助けを求めたが、うまく言葉にできなかった。息が苦しいからということもあるが、英語ができない俺はどう伝えたらいいかわからなかった。

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この時の俺はまだ日本を出て1ヶ月も経っていなかった。「ヘルプ」さえすっと出てこなかった。そんな俺を嘲笑うかのように、次々に波はやってきた。

この時の俺には、はるか彼方の地平線よりも岸の方が遠くに見えた。そのくらいに、50メートルというのは俺にとって絶望的な距離だった。

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サーフボードと右足を繋ぐロープが文字通り命綱だった。ボードをぶっ飛ばされては必死に手を伸ばし、ロープを頼りにようやくつかまえてはまたぶっ飛ばされてを繰り返して、俺はいつのまにか岸に打ち上げられていた。

気づかぬうちに離岸流から逸れて、岸へと押し寄せる波に乗って流されていたのだ。

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死んだ魚のように砂浜に寝そべる俺を見て、信じられないことに友人は笑っていた。西洋人の陽気さが、この時ほど恨めしかったことはない。

彼は笑いながら、何かを言っていた。ぼんやりとした頭で彼の英語がわかる訳もなかったが、ただ笑っていることだけは理解できた。

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笑顔は世界共通の言語なんだって、そんな場違いなことを俺は思っていた。

しかし、ひとつだけ、彼は真面目な顔で何かを言った。俺は意味はわからなかったが、妙にしっくりとくるその言葉と、それを言った彼の真剣な顔が、今でも忘れられなかった。

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「溺れているお前は、まるで見えない大きな手に弄ばれているみたいだったよ」

友人の言葉の意味を知ったのは、日本に帰ってからだった。

別に思い出そうとしたわけじゃない。いつのまにか沖へ流されていたのと同じで、気づいた時にはなぜかその言葉の意味を理解していた。

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俺は半年の海外生活を経て日常会話程度はできるようになっていたが、大学に復帰してからは英語も含めていろんなことを、心を入れ替えて勉強した。

高い授業料を払っていることもあったが、勉強に目覚めたいちばんの理由は、生きていることに感謝するようになったから。

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俺は自分という存在がどれほど小さいかを思い知った。そんなちっぽけな俺には、勉強することくらいしかできないように思えた。

留学で得たのは拙い英語力くらいだと思っていたが、俺の安っぽい人生観は変わったのだと言えるかもしれない。

俺はたしかに、見たこともない海を体験して、それは俺の人生観を多少なりとも変えた。

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俺は大きな見えざる手に、生きることを決められた。海には、俺の想像も及ばないような、大きな神様が住んでいた。

海だけじゃない。昔は、訳の分からないものはみんな神様の仕業にしていた。

だから、この先の人生でわからないことや理不尽なことがあっても、全部神様のせいにしてしまえばいいと思うようになった。

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悩むことは無駄ではないけど、必ず答えが出るとは限らない。でも、答えを出すことが正解とも限らない。

ただ言えるのは、生きていれば、答えを探すことができるということ。たとえ答えが見つからなくても、探すことそれ自体が幸せなんだ。

俺は溺れ死にそうになってそう思った。もちろん今も、そう思ってる。

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…話し終えた俺を、静寂が襲った。

目の前の彼女は俺を見つめたまま何も言わない。

高層ビルのこんなにも広い屋上の、端っこにひとりで立っていた彼女。今にも壊れそうな手すりの向こう側で、彼女は夜風に吹かれて何かを待っていた。

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彼女が何を待っているのかは、俺にはわからない。ただ、たまたま見上げたビルの屋上に、たまたま人影を見つけた俺は、居ても立っても居られなくなって、初めて立ち入ったビルの見知らぬ守衛に何度も言い訳をしてここまで来た。

「結局、何が言いたいの?」

彼女は抑揚のない凪のような声でそう言った。

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そりゃそうだよな。俺だって、こんなこと急に話されたら戸惑うに決まってる。

失敗した。彼女の目に失望が宿るように見える。俺は何か言わないといけない。そう焦って考える。

俺が彼女に言いたいこと。みんな社会という荒波に揉まれて生きてる。だから俺たちも頑張って生きよう。…そんなことを、言いたいわけじゃない。

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彼女にかける言葉がわからない。俺は日本語から勉強すべきだった。いや、俺はどうやって伝えるかではなく、何を言うべきかをわかっていない。日本語とか英語の問題じゃない。

「わがまま言ってごめんね」

「俺との運命の赤い糸が、君の命綱にはなり得ないかな」

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俺と彼女はほとんど同時に声を発した。曖昧になった俺の渾身の言葉は、しかし彼女の耳に届いていた。届いてしまった。

「…きっと細過ぎてすぐに切れるよ」

「冷たいこと言うなよ。これから撚り合わせていくんだよ」

俺は顔が爆発しそうなくらいに恥ずかしかった。それでも、口から出た言葉は決して嘘じゃない。

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「さっきからキザなことばっかり言ってる。根っからの日本人じゃなかったの?」

「結局俺も海外かぶれになってしまったわけだ。あれだけ変わらないと思っていた俺が変われたんだ」

「あなたは、最初から落ちぶれてなんかいなかったのよ」

「そうかもしれない。でもそれは君だって同じだ」

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「初めて会ったあなたに、私の何がわかるの?」

「何もわからないから、これから知りたいんだよ」

「…でも、私はあなたが知りたいと思っている自分が嫌だから、死のうとしてるの」

「…死なないでくれよ、頼む。人の頼みを断れないんだろ?」

「それはあなたでしょ」

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そして再び静寂が訪れる。

なんだよ、喋れるじゃないか。俺は彼女が答えてくれるのが嬉しかった。

でも、それは俺の勝手だ。俺がしていることは彼女のためになっているのか?今重要なのは、俺ではなく彼女の気持ちだ。

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うんざりしたような彼女の顔。俺はどうにかして、彼女に笑って欲しかった。

「…それなら」

彼女は、俺との会話に切りをつけるようにそう言った。

「あなたが海に選ばれたなら、私は風に命を委ねようかしら」

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これから3分間で、私の背中をあの世に押すのか、それともこの世に引き留めるのか。

彼女の言葉に応えるように、俺たちの間を風が通り過ぎていく。

今度は俺が、彼女をじっと見つめた。いや、初めて顔を合わせてからかれこれ15分ほど、俺たちは見つめ合っていた。まるでお互いの腹を探るように。どちらかが、何かを諦めるのを待つように。

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彼女はなにも言わずに、ただ3分が過ぎるのを待っていた。

「ひとつだけ、あなたの話で共感できたことがある」体感で2分ほど経った頃、彼女は突然に口を開いた。

「あなたにとって海は、怖くもあり、憧れの対象でもあったって話。私にとっては、それが死ぬことだった。私の海は真っ黒で、いつだって私を飲み込もうとしていた」

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そう言って彼女が笑った時、俺には見えてしまった。

彼女をあの世に引きずり込もうとする、背後に伸びる無数の手。

「でも、あなたのおかげで、全然夜風が冷たくなかった」

ありがとう。

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俺は彼女のところに駆け出した。俺の伸ばした手の、その先の彼女は、笑っているのに全然楽しくなさそうだった。

俺はそんなふうに笑って欲しかったわけじゃない。生きていれば、心から笑える日が来るはずなんだ。

「最期くらいは、自分の手で決める」

そして彼女は、手すりを押した。壊れそうな手すりは、ぐらりともせずに彼女を押し返した。

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風なんてちっとも吹いていなかった。それでも、耳を裂くように空気を切る音が数秒続いた。

彼女が落ちていくのではなく自分が上にのぼっていくような感覚がして、俺は彼女から目を逸らすことができなかった。

もし目を逸らしてしまえば、自分はこの場に立っていられないような気がした。

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彼女の姿は、あっという間に見えなくなった。

眼下では人や車の揺蕩い、街灯のさざめきがまるで月光に照らされた夜の海面のように見えるが、それは決して彼女を受け止める水面ではない。

やがてコンクリートと彼女がぶつかる音を聞いた時、はじめて海を、小さいと思った。

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やるせなく見上げた夜空が途方もなく大きいことに、俺ははじめて、気づいた。

Concrete
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