ある日、私の頬は落ちました。
そのときの自分といえば、アパートの一室でただ酒を飲んでいて、それも安くまずい酒で、決してほっぺたが落っこちてしまうような状況ではなかったのですが、私の頬は落ちました。
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はじめ、何か右頬に違和感があるな、くらいに思っていたのですが、なんの痛みもなく、気づいたら玉となった私の頬は、運良く机の上に、ぼとり。それは弾むこともなく、着地の際に鈍い音を一回鳴らしたきり、あとはぴくりとも動きません。私はひどく酔っていましたが、それでも目の前の出来事に驚きを隠せませんでした。
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実際、私の目は大きく見開かれ、もしかしたら目玉まで落っこちてしまうのではないかと思って、急いで目をつむりました。真っ暗の視界の中で、私はどうせ、これは夢で、次に目を開けばそれは消えていると考えていました。
しかし目を開けると、たしかにそこに、私の頬は転がっていました。
私はそれでもこれは夢なのだと疑いつつ、頬から落ちた玉だという理由で、それを「頬玉」と名づけました。
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頬玉に触ってみると、その表面は人の肌に違いありませんでした。しかし、まるで私から落ちたとは思えないような、滑らかでふわふわとした触り心地でした。毛穴のひとつもなく、表面には薄らと産毛が生えている程度で、万年無精髭の私から生まれたものとは思えないくらい、瑞々しさに満ち溢れていました。
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また、人差し指と親指でおそるおそるつまみ上げてみると、それは予想以上の重さを湛えていました。無抵抗な頬玉は、重力と私の指によって、わずかに玉の形を崩しました。しかし机の上に戻してみると、それは再び元の形へと落ち着き、おそらく血液の循環に伴う拍動なのか、かすかに表面を波打たせているのでした。
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私はふと、ある懸念にかられて立ち上がり、ふらふらとした足どりで洗面所に向かいました。
そして、鏡を見ました。
鏡に映る私は、いつもの醜い私で、酔いの回っている今の顔は特に酷いものでした。それでも、私は自分の顔に安堵するとともに、ちょっとだけがっかりもしました。
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自分の頬は、頬玉が落ちたにもかかわらず、いつもどおりでした。
しかし、私の顔に貼りついた二重アゴが、少しでもなくなっていたのならと、どこか残念な気持ちも、ほんの少しだけ、ありました。
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こんな私ですが、これでも、社会人としての義務は果たしています。つまり、働いております。私の生業は、書店店員です。くだいた言い方をすれば、本屋さんです。
私は小さい頃から、本屋さんというものに憧れていました。本が好きだったというのも理由としてはもちろんあるのですが、それ以上に、書店の雰囲気が好きでした。
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静かに音楽の流れる落ち着いた空間で、それぞれが好みの本に手を伸ばす様子は、幼い私の目にはなんだか、とても幻想的なものに思えました。私は書店に行くたびに、嬉しいような、ちょっぴりもの悲しいような、そんな気持ちになるのでした。
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しかし、私が歳をとったからなのか、それとも客の目ではなく店員の目で書店というものを見るようになったからなのか、明確な理由は定かではありませんが、書店という場所で働き始めてみると、私がかつて感じたような幻想的な気持ちには、まったくなれないのでした。
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静かな空間というのは嘘で、常連客の中には女性店員にしつこく話しかける人や、目当ての本がないと怒鳴る人が少なくありません。そして、楽だと思っていた労働内容も、それまで運動はおろか、バイトさえしてこなかった私には、とてもきついものでした。
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たとえば、一定の期限内に売れなかった本は、まとめて出版社に返却するのですが、その箱詰め作業の大変なこと。問題なのは、詰めることではなく、詰めてからです。本や雑誌でぱんぱんになったダンボール箱は、所定の位置まで運ばなければならないのですが、両手に抱えたそれは、まるで滑らかに削られただけの岩でした。
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私は積み上げられたダンボール箱を見て、その滑らかな壁に、テレビで見たことのある富士山の険しい岩肌を思い出しました。
何事も、遠くから見るのがいちばんだと、私は筋肉痛の腕を揉みながら、そう思ったのでした。
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それでも、もう2年ほどその書店で、本屋さん、もとい「書店店員」として働いておりますが、私の労働の原動力といえば、やはり酒でしょうか。
私は仕事が終わると、唯一親しくしている同僚の田中を連れて、居酒屋で日々の不満を、たびたびぶちまけていました。
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田中という男も、私のような、愚痴を肴に飲めるタチであり、私たちにとって乾杯の合図は、愚痴の応酬の開始を告げるゴングのようなものでした。
愚痴というのは、まるでその場で足踏みしているようなものです。前にも後ろにも進まない、なんの生産性もないものだということは、私自身十分承知しております。
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しかし、どこにも進まないということは、その場には居続けるということでもあります。
愚痴を言うことは、自分の足踏みによって足元の地面が固まっていくような、なんだかとても気持ちのいい気分になれます。そして、明日の自分は、その固くなった地面を蹴って、今日よりも高く飛び上がっていけるような、そんな気がするのでした。
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そんな明日の飛躍を手伝ってくれるのが、酒です。疲れて足踏みをやめてしまうように、私たちのお開きは常々疲労によって促されるのですが、私たちは一度はじめてしまうと、日が変わるまで、飲むのと喋るのをやめないくらいの体力は備えていました。
そして、仕事や人間関係に対する不満を溜め込んだ私という桶の、箍を外してしまうのが、酒のすごいところです。私の、いや私たちの鍛えられた足踏みに、酒の力が加われば、日を跨ぐくらいどうてことはありませんでした。
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しかし、その日の私は、純粋に彼との時間を楽しめないでいました。
箱詰め作業があまりにも辛くて、元気がなかったのではありません。
私の頭には、あの頬玉がちらついて、どうも落ち着かない気持ちなのでした。
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昨日の夜、正確には今日の朝方になりますが、私はぼんやりとした頭で、頬玉の対処について考えました。
この世に突然生まれ出た頬玉の存在は、不気味といえば不気味ですが、しかしそれをゴミ袋に捨ててしまうには、どうも勇気が必要でした。
もしかしたら、また自分の頬に元どおりくっつくかもしれない。今朝の私は、そんな安易な考えで、とりあえずはあの机の上に置いたままにして、職場へと向かったのでした。
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私がビールのジョッキを片手に頬玉について考えていると、田中は、いつもと違う私の様子を察してか、悩みがあれば聞くよ、なんて、いい人ぶって肩を叩いてきました。
私は、彼の言葉を聞いて、心から驚いてしまいました。
私たちが悩みをぶつけ合ったところで、どうせ愚痴にしかならないというのに!
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悩みを聞くという彼の態度が、私には酷く横柄なものに感じられ、途端に私は興も酔いも冷めてしまったのがわかりました。
実は私は、彼にだけは頬玉のことを打ち明けてやろうかと考えていたのですが、しかし、いまの彼には、絶対に頬玉のことを教えてやるものかと、私は強く心に決めました。
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私は口を噤むと、ただひたすらにちびちびと酒を飲みました。
そうなると自然と口数は減り、どちらか一方でも口数が減ると、途端に会話(たとえ愚痴であっても)というものは成立しなくなります。
そして彼もまた、今日はあまり飲んでいても楽しくないことが分かったのか、だんだんと口数が少なくなり、ついにはメニューを見たり、スマホをいじったりしながら、ただ酒を飲んでいました。
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「今日はもう、帰ろうか」
やっと口を開いたかと思えば、彼はふてくされた様子で、そう言いました。
その日は久しぶりに、日が変わる前に、お開きとなりました。
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まだ22時頃で、酔いも回りきっていないため、しっかりとした足どりでの帰り道。突然、私のスマホから電話の着信音が鳴りました。
もしかして田中からなのかと画面を確認してみると、しかしその電話は、私の母からなのでした。
私は就職と同時に一人暮らしをはじめたのですが、母はそれからというものの、ことあるごとに電話をよこしてきました。
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私は、早く家に帰って頬玉の様子を確認したい気持ちに苛立っていましたが、さっきの居酒屋での不完全燃焼から、誰かと話したいという気持ちも、自分勝手ではありますが、否定できないでいました。
たとえ母でも、愚痴の相手くらいにはなってくれるだろうと、私は太い指で通話のボタンを押しました。
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「正也、こんな時間にごめんよ」
「なに?」
正確な年齢はわからないですが、母は50代も後半で、そんな初老の母にとって22時というのは、普段ならとっくに寝ついている時間です。
それなのにこんな時間に電話をかけてくるというのは、よほどの事情があるのではないかと、そういう心配も少しはあったために、私は母からの電話に出たのでした。
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しかし、母の答えは、私には信じがたいものでした。
「いや、正也の声が、聞きたくて」
「は?」
私は、これまでにない不思議な気持ちが、胸の内に広がるのを感じました。
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それは決して、母の自分に対する愛情(?)に感動したわけではなく、むしろ、居酒屋での田中の態度に対して抱いたものと同じ種類の感情を受けとって、それは私を次第に怒りへと誘いました。
自分の勝手な都合のために、相手の事情も憚らず、特に大切な用事でもなく電話をかけてしまうという母の行為に、私は田中に感じた傲慢さを、重ねて思い出してしまったのでした。
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そして、私の悩みを聞くという居酒屋での田中の提案は、結局は私のためではなく、彼が悩みを聞くという行為を通して自分に満足することが目的であると思い、そんな彼の自分勝手さが、私には傲慢に感じられたのだと妙に納得してしまいました。
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居酒屋でのように、母に対して口を噤んでもよかったのですが、この時の沈黙は、なんだか母からの電話に感銘を受けているみたいに思われそうで、それが嫌な私は、沈黙のかわりに、決して母からの電話を喜んでいないことがわかるような文句を言わなければいけないように思われました。
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一方で、沈黙こそ、私のもっとも伝えたいことを語ってくれるのではないかという気持ちも、捨てきれずにいました。
それは、決して私の怠惰ではなく、いわば「沈黙によって語る」という、極めて積極的な選択であるように思えるのでした。
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また、私からはなにも言わないということが、母に叱られた幼少期の、緊張感のあるあの沈黙に対しての、仕返しになるのではないかという気持ちが不意にわきました。
それは、いまの自分を子供扱いするなという、親に対する潜在的な私の反抗心でもありました。
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私の沈黙は、私の声を聞きたいという母の欲望を頓挫させるのにうってつけな手段であることに、「二人」の沈黙を聞きながら、はじめて気づきました。
そうです。私は、口を噤むことにしたのです!
そしてその沈黙は、私の思った通りに、決して自分がこの電話に喜んでいないということを、母に対して語ってくれたようです。
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電話の奥の母の沈黙は、明らかに私の声を待っていましたが、この時にはもう自分からは話してやらないぞと、私は心に決めておりました。
やがて、母は諦めたように、少しだけしどろもどろな口調で、
「仕事は、頑張っとる?」
と訊いてきました。
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これには私も、
「うん、まあぼちぼち」
と、そのくらいは答えてもよいだろうと、返事をしました。
しかし、どうやらそれは間違いだったみたいです。
私が答えるや否や、母は突然嬉しそうに、まるで用意した台詞であるかのように、よどみなく早口で次のようなことを言うのでした。
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「正也は小さい頃から、本屋さんになりたかったもんねえ。正也が夢を叶えて、お母さんは嬉しいんやよ。昔から、笑顔の素敵な子で、周りを元気にしてくれたから、きっと今も、お客さんを元気にしとるんやろねえ。本屋さんで働いてる正也を、一回でも見てみたいなあ」
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私は周りの住宅街の静寂もはばからず、大きな声で「明日仕事早いから切るわ」と言って母の早口を断ちました。そして私の太い指からは想像もつかない速さで、スマホの電源を切りました。
私自身、どうしてそうしたのか、どうしてこれほどまでに母を嫌悪しているのか、全然わかりませんでした。
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母とはもう1年ほど顔を合わせておりません。
私は、自分が母の顔を、はっきりと思い出せないことに気づきました。
そして、母もまた、いまの私がどのようであるかを、明確には認識していないのではないでしょうか。
だから母は、幼少期の私の記憶を頼りに、あのような内容のことを言ってしまって、そんな母の独りよがりな子供扱いに、私は苛立ちを隠せなかったのかもしれません。
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私は、さっきの電話ではあんな態度をとったものの、母を心底嫌悪してしまうことには多少の抵抗がありました。
自分は母の行為や考え方が気にくわないだけで、別に母自体を嫌悪しているわけではないのだと自分を慰めながら、静かになったスマホを片手に帰路につきました。
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アパートの自室に帰ってくると、机の上には、たしかに頬玉は存在しました。
一日中気がかりだった頬玉が、視界に入ることで、一瞬にして現実のものとなる感覚に、私は不思議な感動を覚えました。
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「存在する」ということは、その対象が自分の見えるところにあって、はじめて確実なものになるのだ。そう思うと私は、さっきの母の電話も、もう少しだけ愛想よく話してやればよかったなと、ほんの少しだけ後悔しました。
母も私がそばにいないがために、私という存在を確かめたくなったのでしょう。
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しかし、それだけの理由で電話をかけてしまう母を、やっぱり私は気にくわなくて、今日の自分は田中や母によって随分と嫌な目に遭わされたものだと、まるで自分を労るように、頬玉を撫でてみました。
それは、私と同じ体温の、しかしすべすべな肌の感触を、私の手のひらに伝えました。私は、まるで赤ん坊を連想させるその純潔な自分の頬を見て、なんだかとても安心した心地になりました。
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そして、さっきよりも愉快な気分で、風呂に入るために浴室へと向かいました。
風呂から出ると、スマホの画面に母からのLINEのメッセージが、ちょうど浮かび上がるのを目撃しました。
私は、風呂でさっぱりした気分をそのLINEによって邪魔された気持ちになって、明日返事すればいいだろうと、既読もつけずに放置しました。
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寝る準備を整えた私は、布団に入る前に、ふと思い出して、もう一度だけ机の上を見てみました。
頬玉は、当然のように、そこにありました。
しかし心なしか、さっきよりもその肌は、ほんの少しだけ、黒ずんでいるように見えました。
(つづく)
作者退会会員
#僕にとって怖いもの②
血のつながり・親の存在