長編11
  • 表示切替
  • 使い方

頬玉 2

separator

翌日、職場に着くなり、田中は私の姿を認めると近寄ってきて、「昨日はどうしたん?」と訊いてきました。

バックヤードには田中の他にすでに3人待機していて、その中には先月アルバイトで入った女子高校生のユメさんもいました。

副店長とパートとユメさんの3人は、田中の言葉を聞いて一瞬だけ私を見ましたが、興味がなさそうにすぐにもとの姿勢に戻りました。それぞれがスマホをいじったり本を読んだりしていたのですが、私の話題よりもそっちの方が面白いようです。

nextpage

小さな声で挨拶をして自分のロッカーに向かう私の後を、田中はゆっくりとついてきました。そんな彼を、私は少しだけ非難したくなりました。

なんといっても密かに想いを抱いているユメさんにまで、まるで覇気のない視線を浴びせられたのですから、その罪は償ってもらうぞと、そんな気持ちになりました。

nextpage

しかし彼は、嫌味のひとつもない、爽やかな笑顔で私に寄ってきました。

彼はその無害そうな顔立ちのためか、女性の客から何かと尋ねられることが多く、しかしその質問に対しててきぱきと対処できるくらいの頭を持ち合わせています。また、滑らかな岩同然の段ボール箱を、苦にすることなく持ち上げられる体力もあります。

nextpage

そのため、仕事のできる彼は店長からの信頼も厚く、他の店員との関係も良好です。あまり周りと馴染めない私とは正反対で、そんな私をこの書店とうまく繋ぎ止めてくれているのも、今では彼の仕事の一つと言えるでしょう。

彼は決して昨日の自分の態度を問い詰めているのではなく、むしろ心配してくれているのだと、その笑顔から私は理解しました。

nextpage

それでも私は彼の質問に、ぐっすり眠ってすっかり切り替えた頭がまた昨日に戻されるように感じ、再度どうしたと聞かれた時には、億劫な気持ちから咄嗟の判断で、「いや、母が」と口走っていました。

ここで母のことが口に出たのも、昨日の母からの電話が私にはよほどこたえるものだったと再確認して、母に対する態度についての昨日の反省をまるで忘れて、次はいっそ電話に出ないでおこうと頭の片隅で決意しました。

nextpage

しかし今は、未来にかかってくる電話よりも、目の前の友人のことを考えなければなりません。そして、彼の様子は、何やらおかしいみたいです。

彼は、私の言葉への返答として、何を言えば正解なのかを探しているみたいに、まばたきしながら視線を泳がせていました。

nextpage

そして、意を決したように、

「お母さん、何かあったん?」

今度は険しい顔で訊いてくるのでした。

nextpage

そこでやっと、私は自分の失敗に気づきました。同時に、多少ではありますが罪悪感が、大粒の汗となって滴りました。

彼は、昨日の私は母に何かあって、それが気がかりで愚痴に集中できなかったと思っているようです。

もちろん、それは断じて間違っています。

nextpage

また、母からの電話に気が滅入ったという事実ですら、居酒屋の後に起きた出来事なので時系列的に正しくありません。

昨日の私の居酒屋での態度は何ら母には関係なく、むしろその原因は田中にあると私は思っているのですが、根が素直な彼は真っ直ぐに想像力を働かせ、私が母のことで悩んでいると信じてしまったようです。

nextpage

不覚にも友人を騙してしまったことに対して、私の胸の内には少なからず罪悪感が生まれました。

私は、高速回転する頭も、岩を持ち上げる体力も、彼のようには持ち合わせていません。ですが、身内の不幸を言い訳に使うことが如何であるかの常識くらいは、持ち合わせているつもりです。

nextpage

しかし私の罪悪感は、そのような常識を外れた言い訳をしてしまったことよりも、目の前の彼に嘘を想像させてしまったことによってより強く渦巻いていました。

私に言わせれば、嘘というのは渦です。もがけばもがくほどその渦に飲まれ、気づいたときには取り返しのつかない深さまで沈んでいるのが、嘘の怖さです。

nextpage

では、その渦から逃れるためにはどうすればよいのか。これは以前私なりに考えた結果になりますが、単刀直入に言いますと、完全な方法はありません。一度ついた嘘は、どうあがいてもなくなりはしません。

ただ、嘘をついたことによる被害を小さくし、嘘をついてしまった相手との関係をできる限り良好に保つ方法はあります。

nextpage

それも、ふたつ。

つまり、「嘘をついたことを謝る」と「そもそも嘘をついていないことにする」のふたつです。渦で例えるなら、「渦にはまっていることを認めて助けを求める」「そもそも渦なんてなかったことにする」といえるでしょうか。

nextpage

そしてこの時の私は、そのふたつのどちらかを選ぶ必要がありましたが、実は私の中ではどちらを選ぶかについて、とっくに腹は決まっていました。

「いや、そんな深刻なことではないけど、ただ職場で足を怪我したみたいで。それも別に大したことはなかったらしいけど、一人暮らしだから少し心配で…」

nextpage

私は、自分の言ったことはそもそも嘘ではない、足元に渦なんて巻いていないのだと思い込むことにしたのです。

その足元は、散々踏み固められてきたものです。固い地面には渦なんて巻くものか。そのような傲慢な自信は、しかし、ただの無鉄砲さからくるものではありません。その自信の根拠には、日々の愚痴が力強く根づいていました。

nextpage

愚痴というのは、一人で言う分には本音ですが、二人以上になると途端に嘘が混じります。

しかし、嘘を承知で盛り上がることができるには、相当な熟練が必要だと、あくまで個人的にですが思っています。どちらか一方でも嘘だからといって手を抜くと、途端に場はしらけますから。

その点私は、愚痴には嘘も混ざって当然という態度で、むしろ嘘だからこそ手を抜かずといった謎のプロ意識によって、今日まで鍛錬を続けてきました。

nextpage

いわば私は、嘘をただの嘘としないことには、相当な自信がありました。そして先程の自分の言葉も、完全な嘘とは断じていえない施しがなされているのです。

というのも母は、本当に足を怪我して、1週間ほど家で安静にしていたことがあります。

nextpage

母の職場は食品工場で、基本的には立ち仕事なので足の怪我は業務に影響が出ます。また、怪我の理由が冷凍倉庫の床で足を滑らせたということで、本来なら労災認定されるはずのところをなぜか工場側の意図で阻止されて、その埋め合わせとして1週間の休暇が与えられました。

nextpage

いわば表向きは療養のためでありながら、裏側では工場側の理解しがたい意図が渦巻いているその1週間は、母にとってはたとえ天国でも、私にとっては地獄そのものでした。

私は母のことが根っこからは嫌いになれないように、怪我をした母を放っておくことに抵抗がありました。

nextpage

母は、私のそのような優しさにつけ込んで、ここぞとばかりに甘え始めました。その週において、毎日の電話は当たり前。たとえ仕事中だと説明しても、電話に出なければどうしてかと問い詰めてくる始末。

しまいには、私のアパートが実家から車で一時間という、比較的近いところにあるという理由で、週末には帰ってこいと催促の電話が四六時中かかってきました。

もちろんそれは、私が承諾するまで鳴り止まないのでした。

nextpage

ユメさんならまだしも、相手は母です。きっと私に恋人がいないのも、この母の存在があるからに違いありません。私はその根からの優しさゆえに、渋々と実家に帰って、母のつまらない話を散々に聞かされるという週末を体験し、その反動のためか、母のケガが治って以降顔を見せに行くことはありませんでした。

nextpage

ちなみにこの出来事は、今からおよそ一年前という最近のことです。だからこそ私は、母について田中にまったくの嘘をついているという罪悪感を幾分か取り払うことができ、同時につい先日のことのように、その悪夢のことを思い出せてしまうのでした。

しかし私は、母がいなくなって欲しいとは決して思いません。母は私を産んでくれて、育ててくれたのです。父が浮気で家を出ていき、それでも彼によく似た私を大切に世話してくれたのは、紛れもなく母なのです。

nextpage

そんな母に対して、恩返しのひとつもできずにお別れするのは、想像するだけで苦しいものです。私は育ての親を尊敬するという、そのくらいの常識は持ち合わせています。そしてそれは、どんな賢い頭よりも、どんなものを持ち上げる筋肉よりも、大切なものであると胸を張って言えます。

nextpage

さて、田中のことですが、私の母に対する心配の言葉にえらく感動したのか、昨日はごめんなだの、お母さんはやく良くなるといいなだの、私の肩を叩きながら言いました。

「今度飲みに行く時は、俺が奢ってあげるよ。だから元気だして頑張ろうな」

nextpage

彼がそう言うと、「親思いなんですね」と、なんとユメさんが私たちに向かって言うではありませんか!

私はびっくりして返事を忘れてしまいましたが、代わりに盟友がフォローしてくれて事なきを得ました。

私はさっきまでの彼に対しての評価を改め、ユメさんに話しかけられるきっかけをつくってくれた彼には、頬玉のことを話してやるどころか、見せてやる気になりました。

nextpage

そんな夢心地の私でしたが、たとえいくら嘘に習熟してようと、嘘をついた後味はやっぱり悪いものです。

自分は本当の悪人にはなれないと思いながら、重たい段ボール箱をまるで囚人の気持ちで持ち上げたその日の勤務は、特別に、辛いものでした。

separator

それから1週間ほど経ったある日、私は母のことで副店長から話しかけられました。彼もまた、あの時バックヤードにいた三人の中の一人で、ユメさんでないもう一人の、パートの主婦とできてるのではないかと噂されています。

どちらも既婚者で、つまり彼らは不倫関係にあるらしいのですが、私は彼の顔を見るたびに私たちを捨てて出ていった父親のことを思い出してしまい、嫌な気分になりました。

nextpage

彼は田中と同様無害な(決して端正ではない)顔立ちをしていて、女に好かれる男の顔はどうして似通っているのかと、それに対しても腹立たしく思いました。

「お前は田中に頼りすぎ。最近は電話も全部田中に任せてるでしょ」

私の母親への労いの話がいつのまにか私の勤務態度に対しての説教となり、二人きりなのをいいことにそれは長々と続きました。

nextpage

これから一時間の休憩という矢先、バックヤードに引き上げようとした私を呼び止めて、本棚の影に隠れてガミガミと言う彼のことを、私は本当に憎たらしく思いました。

それも、今日はユメさんと同じタイミングでの休憩時間です。半月に一度あるかないかという貴重な時間を、どうしてつまらない説教に費やさないといけないのか。

nextpage

話を聞く私の態度が気に食わないのか、彼の声は怒り気味にだんだんと大きくなり、遠のく客の目も憚らずに、電話の取り方講座とも呼ぶべきご丁寧な鞭撻が始まりました。

もっと相手の立場になって考えろ、老人相手の早口をやめろ、何かわからなかったら周りに聞け、受話器は優しく置け。彼の怒涛の罵倒に私はその場で地団駄を踏みたくなりましたが、これも今晩の愚痴の種になると我慢して、言葉の嵐を聞き流していました。

nextpage

そう、今日は仕事終わりに、田中の奢りで飲む約束をしていたのです。

愚痴というものの存在意義は、ただ鬱憤を吐き出すためだけではありません。何か嫌なことがあった時に、それを耐え凌ぐためのちょっとした目標になってくれます。

私は今晩の田中との飲みが、楽しみで仕方ありませんでした。同時に、今のこの状況が、鬱屈で仕方ありませんでした。

nextpage

ようやく副店長の説教から解放された時には、一時間ある休憩時間も残り半分となっていました。私は普段から休憩時間の食事として、本屋の隣にあるコンビニに弁当を買いに行っているのですが、今日は晩飯をたらふく食べられるということもあり、またユメさんとの時間を少しでも長くしたいこともあり、コンビニに行くことを諦めてバックヤードへと引き上げました。

nextpage

私がバックヤードに入ると、ユメさんはいつものようにイヤホンをして、参考書を開いていました。彼女は高校三年生の受験生です。わずかな休憩時間にも勉強する姿勢は、私たち大人も見習わないといけません。

私は彼女の理解者として、何も言わずに少し離れた椅子に腰掛けました。しかしお疲れさまのひとつも言わない彼女に対して、少しだけ腹が立ちました。

nextpage

勉強も大切だが、勉強よりも大切なことがあるではないか。私は彼女よりも先に社会に出た大人として、心を鬼にして彼女に話しかけました。

「お疲れさま」

私の声を聞いて、彼女は露骨に嫌な顔をしました。そりゃあ、勉強の邪魔をされたと思ってしまったのでしょう。でも私は、決してそのような悪意を持って話しかけたわけではありません。

nextpage

「…お疲れさまです」

彼女は渋々といった様子で返事をしました。私はそれだけでもなんだか嬉しい気分になりましたが、ここは彼女のためにもうひと踏ん張りです。

「できれば、自分からそう言って欲しかったな」

彼女ははっとした表情をして、「気づかなかったので」とそっけなく返しました。

nextpage

「気づかないことはないでしょ。今日は二人で休憩だってシフト表に書いてあったじゃん」

「いちいち誰と休憩なんて、気にしてないですよ」

彼女の態度はだんだんと悪くなっていき、私は、これはいけないと思いました。

なんたって、彼女は嘘をついているのです。私は、彼女がシフト表で休憩時間だけでなく、誰と休憩するのかまでしっかりと確認しているところをたびたび見てしまっているのです。

nextpage

彼女はどうしてそのことを私に隠しているのでしょうか。私に素直に言えないような、特別な理由でもあるのでしょうか。

私はあえて、彼女の嘘について問い詰めたりはしませんでした。ただ嘘とは渦であり、油断すれば人を簡単に飲み込んでしまうことには、いつの日か気づかせてあげなければいけないと思いました。

nextpage

しかし今日のところはこれでギブアップ、もといタイムアップです。しばらく沈黙が続いて休憩時間の終了10分前になると、彼女は勢いよく席を立ち参考書を片付け、イヤホンをつけたままに、エプロンを着始めました。

私はそこで、彼女はずっとイヤホンをつけながら私に返答していたことに気づきました。

もはや副店長は、私ではなくユメさんを教育しないといけないのではないか。

nextpage

やれやれと私は、心の中で首を振りました。またひとつ、今晩の愚痴の種が増えた。空っぽの腹が鳴らないようにさすりながらそう思っていると、ユメさんは私に断りもなく一人でバックヤードを出て行きました。

その後の勤務が辛かったことは、もはや言うまでもありません。私は頭の中で「親思いですね」というユメさんの声をぐるぐると思い出しながら、夜の居酒屋までの数時間を、ただ耐え忍んでいました。

(つづく)

Concrete
コメント怖い
0
2
  • コメント
  • 作者の作品
  • タグ